「水増し合格」、静岡の私立高校でもやってたらしい。
成績優秀な生徒の受験料を肩代わりして、志望していない大学を受験させ、高校の合格実績に含めて公表する、というもの。
最近出てきたのは、指定校推薦の条件として行く気のない大学を受けさせる(こっちは受験料のことはどうなってるんだか判然とせず)。
昔も一人で信じられない数の学部を受験してた人は居たけれど、受験料、半端じゃないよなぁ。
この問題の背景にあるのは、有名大学への合格実績が高等学校の評価と直結するような社会だ、というのはその通りなんだけれど、もう一つ条件がないと、こんなに簡単に何十もの学部学科を「受験」なんて出来ない。
それを可能にしているのは大学入試センター試験の結果だけで合否判定する大学(学部・学科)が意外に多い、と言う事実だろう。
歴史的な変化に関する資料があるわけではないが、深刻な少子化(18歳人口の激減)や入試の多様化への対応策として、何が何でも受験者数を増やしたい大学側の論理が働いているのではないかと推測する。
この辺の構造をきっちり押さえておかないと。
受験生数は減っている。
問題を作るのは大変。
多様な試験方法は必要。
それは解るけれど、「個別試験」をしないで、どんな学生に来て欲しいのか、ビジョンを示せているのだろうか。
かと思えば、問題を業者に外注する大学(学部・学科)もある。
自分達と一緒に学ぶ人たちを選抜する試験問題を自分達の責任で作れないでどうするのか。
業者に外注、とまでは行かなくても、例えば英語や国語は英文・日文の教員が全学分をまかなったり、非常勤講師の援助して貰っている単科大学は少なくないと思う。
やむを得ない部分もあるのは、勿論解る。
しかし、なお、「少子化」と言う環境、大学の価値が問われている現状の中で、入試はそれでいいのか、と言う疑問は残るし、試験の質、と言うことを、いまこそ、しっかり問い質す必要があるのではないか。
少し話が逸れるが、センター試験だけで合否判定をする、というのは、手抜きのようで案外大変な作業を伴う。
今回の水増し受験生が象徴するように、こうした「受験生」は、実際には「出願者」でしかないから、実数がつかめない。となると、何人まで合格させればいいのか、と言う判断は、かなりの職人技を必要とするのだ。
いろんな大学が、この春の入試について、情報公開を始めている頃だと思う。
その時、センター試験の合格ラインとか、倍率とか、受験生が興味を持つ数字も色々あるけれど、ちょっと注目して欲しいのが、「募集定員:出願者数」ではなく、「募集定員:合格者数」の方だ。例えば定員100人の所に出願者(受験者の実数とは異なる)が1000人いれば十倍、と言うことになるのだけれど、それぞれ合格者数の数は違う。本当に100人+数名の所もあれば、倍以上の合格者を出している所もある。後者は、実際に倍の入学者がいるのではなく「蹴られている」のだ(今回の水増し合格者もこの中に含まれる。どの程度の比率なのかは多分謎のままだろう)。
従って、仮に、200人合格していたなら、実質の競争率は五倍に下がる。そう言うとまで考えないと合否判定は出来ない厳しい現実があるのだ。受験料収入は欲しいしね。
我が言語文化学科も後期日程は面接だけになってしまった。
しかし、話をする、というのは実は大事だったりするのだ。
実際に「受験」させることで、すくなことも、こういう事態は防げる。
合格者の数だけ増やしたい高校、出願者の数を増やしたい大学。
これで教育が成り立つのか。
受験生は、学生は、何を信じて大学の門をくぐるのか。
数字と経営の論理が教育を崩壊させる。
このブログで再三書いてきたことだけれど、大学の入試問題は、自分達の教育をどう考えているか、と言うことの表明としてある。
様々な問題を抱えているとはいえ、基礎的な学力を問うならセンター試験で十分だ。実際、一頃のような理不尽な問題は無くなっていると思う。
その上で、専門的な物は既存の教科科目に左右されることなくオリジナルな問題を作ればいい。その手間を厭う大学(学部・学科)に未来はない。
受験生もそう言う情報をちゃんと知ることが出来たらいいのになぁ。
夏休みには、各地で大学開放イベントが行われる。
そう言う場所では、様々な入試情報を公開している。
教員と直接話をする機会もあると思う。
受験生、その関係者のみなさん、そこで、質問して欲しい。
二次試験(個別学力検査)は、なぜこういう科目編成で、こういう時間配分なんですか? と。
ちゃんと答えられない教師のいる大学に入ってもまともな授業をしてるとは思えないぞ。
*関連する記事が多くあります。
入試・受験・試験問題などのキーワードでブログ内検索をしていただければ幸い。
*8/5・6両日。静岡大学オープンキャンパスでお会いしましょう。
成績優秀な生徒の受験料を肩代わりして、志望していない大学を受験させ、高校の合格実績に含めて公表する、というもの。
最近出てきたのは、指定校推薦の条件として行く気のない大学を受けさせる(こっちは受験料のことはどうなってるんだか判然とせず)。
昔も一人で信じられない数の学部を受験してた人は居たけれど、受験料、半端じゃないよなぁ。
この問題の背景にあるのは、有名大学への合格実績が高等学校の評価と直結するような社会だ、というのはその通りなんだけれど、もう一つ条件がないと、こんなに簡単に何十もの学部学科を「受験」なんて出来ない。
それを可能にしているのは大学入試センター試験の結果だけで合否判定する大学(学部・学科)が意外に多い、と言う事実だろう。
歴史的な変化に関する資料があるわけではないが、深刻な少子化(18歳人口の激減)や入試の多様化への対応策として、何が何でも受験者数を増やしたい大学側の論理が働いているのではないかと推測する。
この辺の構造をきっちり押さえておかないと。
受験生数は減っている。
問題を作るのは大変。
多様な試験方法は必要。
それは解るけれど、「個別試験」をしないで、どんな学生に来て欲しいのか、ビジョンを示せているのだろうか。
かと思えば、問題を業者に外注する大学(学部・学科)もある。
自分達と一緒に学ぶ人たちを選抜する試験問題を自分達の責任で作れないでどうするのか。
業者に外注、とまでは行かなくても、例えば英語や国語は英文・日文の教員が全学分をまかなったり、非常勤講師の援助して貰っている単科大学は少なくないと思う。
やむを得ない部分もあるのは、勿論解る。
しかし、なお、「少子化」と言う環境、大学の価値が問われている現状の中で、入試はそれでいいのか、と言う疑問は残るし、試験の質、と言うことを、いまこそ、しっかり問い質す必要があるのではないか。
少し話が逸れるが、センター試験だけで合否判定をする、というのは、手抜きのようで案外大変な作業を伴う。
今回の水増し受験生が象徴するように、こうした「受験生」は、実際には「出願者」でしかないから、実数がつかめない。となると、何人まで合格させればいいのか、と言う判断は、かなりの職人技を必要とするのだ。
いろんな大学が、この春の入試について、情報公開を始めている頃だと思う。
その時、センター試験の合格ラインとか、倍率とか、受験生が興味を持つ数字も色々あるけれど、ちょっと注目して欲しいのが、「募集定員:出願者数」ではなく、「募集定員:合格者数」の方だ。例えば定員100人の所に出願者(受験者の実数とは異なる)が1000人いれば十倍、と言うことになるのだけれど、それぞれ合格者数の数は違う。本当に100人+数名の所もあれば、倍以上の合格者を出している所もある。後者は、実際に倍の入学者がいるのではなく「蹴られている」のだ(今回の水増し合格者もこの中に含まれる。どの程度の比率なのかは多分謎のままだろう)。
従って、仮に、200人合格していたなら、実質の競争率は五倍に下がる。そう言うとまで考えないと合否判定は出来ない厳しい現実があるのだ。受験料収入は欲しいしね。
我が言語文化学科も後期日程は面接だけになってしまった。
しかし、話をする、というのは実は大事だったりするのだ。
実際に「受験」させることで、すくなことも、こういう事態は防げる。
合格者の数だけ増やしたい高校、出願者の数を増やしたい大学。
これで教育が成り立つのか。
受験生は、学生は、何を信じて大学の門をくぐるのか。
数字と経営の論理が教育を崩壊させる。
このブログで再三書いてきたことだけれど、大学の入試問題は、自分達の教育をどう考えているか、と言うことの表明としてある。
様々な問題を抱えているとはいえ、基礎的な学力を問うならセンター試験で十分だ。実際、一頃のような理不尽な問題は無くなっていると思う。
その上で、専門的な物は既存の教科科目に左右されることなくオリジナルな問題を作ればいい。その手間を厭う大学(学部・学科)に未来はない。
受験生もそう言う情報をちゃんと知ることが出来たらいいのになぁ。
夏休みには、各地で大学開放イベントが行われる。
そう言う場所では、様々な入試情報を公開している。
教員と直接話をする機会もあると思う。
受験生、その関係者のみなさん、そこで、質問して欲しい。
二次試験(個別学力検査)は、なぜこういう科目編成で、こういう時間配分なんですか? と。
ちゃんと答えられない教師のいる大学に入ってもまともな授業をしてるとは思えないぞ。
*関連する記事が多くあります。
入試・受験・試験問題などのキーワードでブログ内検索をしていただければ幸い。
*8/5・6両日。静岡大学オープンキャンパスでお会いしましょう。
でも私はあまりそれを使いたくないんですよね…。
そこが目的になってしまうのは違うと思うので。
…まあ、もともとの目的がそれであっても、
活動の中で別のことを得てくれるなら、意味があるかな、とも思うのですが。
大学に入るまえから、私は周囲のひとにずっと言っているのですが、
「頭が良い」のと「勉強ができる」のは、多分まるで違うことなんですよね。
勉強ができるのもひとつのスキルではあると思いますが、
でも、社会に出てから役に立つかは別だろうなあと。
役に立つのは別の「学び」なんだろうなあと。
うーん、でも、そういうことを大学で教えるっていうのは、やっぱり無理なことなんでしょうか。
いや、情報意匠論みたいな授業がありますか。
(あれ、なんだか話、ずれてきてますか;;)
その時、企業は、何を求めてるのか、と言うことをそこそこ発信してる気がするのです。
それでもミスマッチはありますが。
大学は、科目数を減らせば受験生が増えるんじゃないかとか、国語で言えば、漢文や古文の比率を下げようとか、そう言う理念不在の中で受験科目を決めてしまうから、入ってきた人の補習授業が必要だ、とか言い出す。
で、適当に単位出して卒業させて、企業側も大学の授業は役に立たない、と言う評価。偏差値の高い大学に入るスキルと、そのための努力だけ評価すればよしという話。
そうじゃないだろ、というのが、た問えばアッパレ会の目指すところだったりするのだよね。
就職に有利、と言う評価もあるようだけど。
そして先日まで就職活動をしていた私ですが、
共通して思うのは、
受ける側は意外と学校側/企業側を「品定め」する意識が薄いんじゃないかなぁ、と。
「入れて貰う」「取って貰う」意識に偏っている気がします。だから、ええと、試験に疑問を投げ掛けるということが難しいのかなと。上の記事を読んで思いました。上手く言えませんが。
しかし、なんでもかんでも、数字だけで計る世のなかですね。
そして、なんでもかんでも、画一化していっているみたいですね。