コニタス

書き留めておくほど重くはないけれど、忘れてしまうと悔いが残るような日々の想い。
気分の流れが見えるかな。

コンテンポラリー(2) ポリーニプロジェクトⅡ

2005-11-23 22:30:33 | 
引きこもっていた間、文化の日に東京。

チケットを買ったのは六月で、その時点では余裕の筈だったのだけれども。
とにかく、これは行かなければならないコンサートなのだと。

前回は、02年。このときは、紀尾井ホールのプログラムを一つだけ。このプログラムは異様で、ポリーニがチェンバロで伴奏するモンテヴェルディの歌曲と、現代音楽を同時に聴くものだった。バロックはまさにコンテンポラリーでもある。
なんだかワケがわからなかったのだが、「メゾ・ソプラノ、アルト・フルートとライヴ・エレクトロニクスによる《アルトラ・ヴォーチェ》」というルチャーノ・ヴェリオという人の作品に、衝撃を受けた。ポリフォニー?
ライブでなければ、そして、こうやってことばにしても、全く意味がない体験。

なので、今回も、何が出てくるのか全く予備知識無く、迷わず購入。
前半は、アラン・ダミアンという驚異的なクラリネット奏者に圧倒され、ポリーニのピアノ演奏に聴き入り(アンコールでまるまる同じだけ演奏した?)、後半、目玉だという、ノーノの『森は若々しく生命に満ちている』。ことばはあとで冊子をみるまで理解不能だったのだが、戦場に立たされたような不安があった。感受性の強い人だったら耐えられないのではないかと思った。あれは、何だったんだろう。素晴らしい楽曲、すばらしい演奏、なのだろうけれど、それは、喜びではない。そう、暴力的、と言うより暴力そのものという感じ。
現代音楽は、喜ばしくはない物なのか、祝祭的と言うより黙示録的? よく解らない。 わかりやすさ、と言う意味で言えば、有る意味相当に具象的なのだけれども。

昔、NHK-FMの「現代の音楽」が結構好きだったなぁ、と言うのを思い出したり。
頭で理解なんかしていないのに、こうやってことばにしたがるのは何なんだろう。
しかも、あの場にいて感じたことは、何一つ言い表せていない。またしても、それは、「体験」そのもの。

理解? あぁ。不自由だ。


検索したら、「庭は夏の日ざかり」と言うブログに非常に丁寧なコメントがありました。勝手にリンクします。
ご容赦。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« コンテンポラリー(1) 踊りに... | トップ | よく解らないんですが »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

」カテゴリの最新記事