引きこもっていた間、文化の日に東京。
チケットを買ったのは六月で、その時点では余裕の筈だったのだけれども。
とにかく、これは行かなければならないコンサートなのだと。
前回は、02年。このときは、紀尾井ホールのプログラムを一つだけ。このプログラムは異様で、ポリーニがチェンバロで伴奏するモンテヴェルディの歌曲と、現代音楽を同時に聴くものだった。バロックはまさにコンテンポラリーでもある。
なんだかワケがわからなかったのだが、「メゾ・ソプラノ、アルト・フルートとライヴ・エレクトロニクスによる《アルトラ・ヴォーチェ》」というルチャーノ・ヴェリオという人の作品に、衝撃を受けた。ポリフォニー?
ライブでなければ、そして、こうやってことばにしても、全く意味がない体験。
なので、今回も、何が出てくるのか全く予備知識無く、迷わず購入。
前半は、アラン・ダミアンという驚異的なクラリネット奏者に圧倒され、ポリーニのピアノ演奏に聴き入り(アンコールでまるまる同じだけ演奏した?)、後半、目玉だという、ノーノの『森は若々しく生命に満ちている』。ことばはあとで冊子をみるまで理解不能だったのだが、戦場に立たされたような不安があった。感受性の強い人だったら耐えられないのではないかと思った。あれは、何だったんだろう。素晴らしい楽曲、すばらしい演奏、なのだろうけれど、それは、喜びではない。そう、暴力的、と言うより暴力そのものという感じ。
現代音楽は、喜ばしくはない物なのか、祝祭的と言うより黙示録的? よく解らない。 わかりやすさ、と言う意味で言えば、有る意味相当に具象的なのだけれども。
昔、NHK-FMの「現代の音楽」が結構好きだったなぁ、と言うのを思い出したり。
頭で理解なんかしていないのに、こうやってことばにしたがるのは何なんだろう。
しかも、あの場にいて感じたことは、何一つ言い表せていない。またしても、それは、「体験」そのもの。
理解? あぁ。不自由だ。
検索したら、「庭は夏の日ざかり」と言うブログに非常に丁寧なコメントがありました。勝手にリンクします。
ご容赦。
チケットを買ったのは六月で、その時点では余裕の筈だったのだけれども。
とにかく、これは行かなければならないコンサートなのだと。
前回は、02年。このときは、紀尾井ホールのプログラムを一つだけ。このプログラムは異様で、ポリーニがチェンバロで伴奏するモンテヴェルディの歌曲と、現代音楽を同時に聴くものだった。バロックはまさにコンテンポラリーでもある。
なんだかワケがわからなかったのだが、「メゾ・ソプラノ、アルト・フルートとライヴ・エレクトロニクスによる《アルトラ・ヴォーチェ》」というルチャーノ・ヴェリオという人の作品に、衝撃を受けた。ポリフォニー?
ライブでなければ、そして、こうやってことばにしても、全く意味がない体験。
なので、今回も、何が出てくるのか全く予備知識無く、迷わず購入。
前半は、アラン・ダミアンという驚異的なクラリネット奏者に圧倒され、ポリーニのピアノ演奏に聴き入り(アンコールでまるまる同じだけ演奏した?)、後半、目玉だという、ノーノの『森は若々しく生命に満ちている』。ことばはあとで冊子をみるまで理解不能だったのだが、戦場に立たされたような不安があった。感受性の強い人だったら耐えられないのではないかと思った。あれは、何だったんだろう。素晴らしい楽曲、すばらしい演奏、なのだろうけれど、それは、喜びではない。そう、暴力的、と言うより暴力そのものという感じ。
現代音楽は、喜ばしくはない物なのか、祝祭的と言うより黙示録的? よく解らない。 わかりやすさ、と言う意味で言えば、有る意味相当に具象的なのだけれども。
昔、NHK-FMの「現代の音楽」が結構好きだったなぁ、と言うのを思い出したり。
頭で理解なんかしていないのに、こうやってことばにしたがるのは何なんだろう。
しかも、あの場にいて感じたことは、何一つ言い表せていない。またしても、それは、「体験」そのもの。
理解? あぁ。不自由だ。
検索したら、「庭は夏の日ざかり」と言うブログに非常に丁寧なコメントがありました。勝手にリンクします。
ご容赦。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます