もう、書きたいことがたまりすぎて、順番はぐちゃぐちゃです。
6/21(日) ギャラリー sensenci。
最終日の、しかも芝居を見に行く途中で立ち寄ったので時間が無く、まともに「鑑賞」していません、とまず逃げ道の言い訳。
ものすごく簡単に紹介すると、それぞれドイツと日本に住んでいる2人の日本人アーティストが、写真の応酬によって対話した、その記録。
はじめは文字も一緒にあったそうで、印刷されたメールもアルバムになっていたけれど、壁の写真はみんな撮影者・時間や場所の情報などのみ。
そして例によって「しぞーかアートざんまい」、「ダイアローグ/ダイアログ」で触れられているのでちょっと引用。
お互いの写真からは色や形態といった視覚優先的な対話のキャッチボールが頻繁に行われているのが見て取れます。彼女たちは主に平面を扱っている作家ですので興味はそこに向かうのでしょうか。表層への強いこだわりを感じることもできますが、もう少し語りに突っ込んで大胆な展開をみせる対話があっても面白いかなと思いました。 もっとも今回選んだ写真は鑑賞者にとって二人の対話を推測しやすいように意図的に並べたのかもしれません。
私も、“表層的”だなぁ、と思いました(じっくり見てない奴が言うな、と言う話ですが)。
形状の類似に拠る受け答えがとても多い。
一つ一つ、なるほど、と思って楽しめるし、そういうことを抜きに一枚一枚の写真を眺めても面白いのだけれど、“大胆な展開”が欲しいと思うのは否めません。
展示のために意図的に並べ替えた物もあるらしいです。
むー。
これ、コンセプトはすごく面白い。
で、一つ一つ眺める価値がある。
それでも何か、“トータルな作品”としては物足りない、と感じてしまう(そんなこと、意図してないのでしょうけれど)。
それって何だろう、と思った時、私の頭の中にあるのは、連句の作法だったのですねぇ。
連句(或いは連歌)は、ただ、前の句にうまく付くように言葉を並べているだけではなく、所謂“去り嫌い”などという決まりがあって、全体が程よく変化しながら大きな宇宙が描けるように仕組まれています。
*このへん、松岡正剛の「千夜千冊」『連歌の世界』がなかなか詳しくて良いのでリンク。
そういう発想(というか、松岡流に言えば「編集」)方法が、現代に応用されたら、もっともっと愉しくなりそうだよねぇ、と思う今日この頃。
この写真展では、壁面に写真がたくさん貼られた結果、基本的に縦方向で応酬がありつつ、横方向にも「並んでしまう」という事態が発生していた。
意識的に横に並べた物もあるようだったけれど、こうして偶発的に“隣”になった物達が、どのような緊張関係をはらむのか、というのは、ビジュアルメディアならではの楽しみで、なんだか気になった。
そうそう、私がちょっと気に入ったのは、案内用のカードにも使用されたこの写真。
この小さな画像を眺めてみてくだされ。
何に見えます?
上は“2009年3月4日/浜松/乾”、下には“Oct. 2007/Gent/Fukushima”というクレジット。
1年半の時間を置いて撮影された二枚の写真は、一つの額に入れられ、ギャラリー二階の、一番奥に飾られていました。
たいていの人が、最後に見る内の一点。
そして、階段を上がって、遙か遠くに、だから、このサムネイル画像のように見える仕掛け。
セメントの壁、壁際に何か色のある列。
見る人には、スケールも解らないので、似たような何かを見つけたんだなぁと思う。
今度はクリック出来ます。
「あ!」
そして、ニヤリ。
「へぇ~!」
下は、遊覧船の客だそうです。
日本で言えば浅草みたいな感じでしょうか、ヨーロッパではよくある風景かも知れませんが、狭い水路で、ちょうど首だけ見える視角が面白い。
あはは、と思いながら、どうやって返そうか、で、1年半経ったということ?
そんな想像をするのも愉しく、そして、この見立ての意外さ!
こういう、一対一の贈答を取り出してみると、とても完成度の高いいたずらがある。
たのしいなぁ。
アート、というのは、堅苦しい何か、でも、世界に対する異議申し立てでも、人生に対する深い洞察でもなく、こういう、悦びに満ちた、意外な対話だったりする。
おや、そうきたか、これならどうだ?
というコミュニケーション。
文化的背景の違う人同士でやったらどうなるだろう。
大勢の連衆で、句会みたいにやったらどうだろう。
ここからたくさんの芽が出そうな活きの良い種。
お二人が、何を“狙って”始めたことなのか、全く与り知らない“他者”として、いろいろ愉しく考えさせていただきました。
感謝。
6/21(日) ギャラリー sensenci。
最終日の、しかも芝居を見に行く途中で立ち寄ったので時間が無く、まともに「鑑賞」していません、とまず逃げ道の言い訳。
ものすごく簡単に紹介すると、それぞれドイツと日本に住んでいる2人の日本人アーティストが、写真の応酬によって対話した、その記録。
はじめは文字も一緒にあったそうで、印刷されたメールもアルバムになっていたけれど、壁の写真はみんな撮影者・時間や場所の情報などのみ。
そして例によって「しぞーかアートざんまい」、「ダイアローグ/ダイアログ」で触れられているのでちょっと引用。
お互いの写真からは色や形態といった視覚優先的な対話のキャッチボールが頻繁に行われているのが見て取れます。彼女たちは主に平面を扱っている作家ですので興味はそこに向かうのでしょうか。表層への強いこだわりを感じることもできますが、もう少し語りに突っ込んで大胆な展開をみせる対話があっても面白いかなと思いました。 もっとも今回選んだ写真は鑑賞者にとって二人の対話を推測しやすいように意図的に並べたのかもしれません。
私も、“表層的”だなぁ、と思いました(じっくり見てない奴が言うな、と言う話ですが)。
形状の類似に拠る受け答えがとても多い。
一つ一つ、なるほど、と思って楽しめるし、そういうことを抜きに一枚一枚の写真を眺めても面白いのだけれど、“大胆な展開”が欲しいと思うのは否めません。
展示のために意図的に並べ替えた物もあるらしいです。
むー。
これ、コンセプトはすごく面白い。
で、一つ一つ眺める価値がある。
それでも何か、“トータルな作品”としては物足りない、と感じてしまう(そんなこと、意図してないのでしょうけれど)。
それって何だろう、と思った時、私の頭の中にあるのは、連句の作法だったのですねぇ。
連句(或いは連歌)は、ただ、前の句にうまく付くように言葉を並べているだけではなく、所謂“去り嫌い”などという決まりがあって、全体が程よく変化しながら大きな宇宙が描けるように仕組まれています。
*このへん、松岡正剛の「千夜千冊」『連歌の世界』がなかなか詳しくて良いのでリンク。
そういう発想(というか、松岡流に言えば「編集」)方法が、現代に応用されたら、もっともっと愉しくなりそうだよねぇ、と思う今日この頃。
この写真展では、壁面に写真がたくさん貼られた結果、基本的に縦方向で応酬がありつつ、横方向にも「並んでしまう」という事態が発生していた。
意識的に横に並べた物もあるようだったけれど、こうして偶発的に“隣”になった物達が、どのような緊張関係をはらむのか、というのは、ビジュアルメディアならではの楽しみで、なんだか気になった。
そうそう、私がちょっと気に入ったのは、案内用のカードにも使用されたこの写真。
この小さな画像を眺めてみてくだされ。
何に見えます?
上は“2009年3月4日/浜松/乾”、下には“Oct. 2007/Gent/Fukushima”というクレジット。
1年半の時間を置いて撮影された二枚の写真は、一つの額に入れられ、ギャラリー二階の、一番奥に飾られていました。
たいていの人が、最後に見る内の一点。
そして、階段を上がって、遙か遠くに、だから、このサムネイル画像のように見える仕掛け。
セメントの壁、壁際に何か色のある列。
見る人には、スケールも解らないので、似たような何かを見つけたんだなぁと思う。
今度はクリック出来ます。
「あ!」
そして、ニヤリ。
「へぇ~!」
下は、遊覧船の客だそうです。
日本で言えば浅草みたいな感じでしょうか、ヨーロッパではよくある風景かも知れませんが、狭い水路で、ちょうど首だけ見える視角が面白い。
あはは、と思いながら、どうやって返そうか、で、1年半経ったということ?
そんな想像をするのも愉しく、そして、この見立ての意外さ!
こういう、一対一の贈答を取り出してみると、とても完成度の高いいたずらがある。
たのしいなぁ。
アート、というのは、堅苦しい何か、でも、世界に対する異議申し立てでも、人生に対する深い洞察でもなく、こういう、悦びに満ちた、意外な対話だったりする。
おや、そうきたか、これならどうだ?
というコミュニケーション。
文化的背景の違う人同士でやったらどうなるだろう。
大勢の連衆で、句会みたいにやったらどうだろう。
ここからたくさんの芽が出そうな活きの良い種。
お二人が、何を“狙って”始めたことなのか、全く与り知らない“他者”として、いろいろ愉しく考えさせていただきました。
感謝。
このように対話ができて感謝しています
ありがとうございました
ご本人たちのことを全く解らないまま、勝手なことを良い散らかしているので、ちょいと怖くもあり……。