教えること、導くこと、伝えること。
私は、感染させる、だと思ってるんですが。
「教師の仕事は」続編です。
伝馬町小学校出張デッサン会が、3日(日曜日)、「静岡の文化」発表会が4日(月曜日)。
両方とも、既存の教育現場にどう新しい風を入れるか、と言う模索の場所だった気がします。
デッサン会のことは、
マシマさん
蓮花さん
が、また、発表会については、
ミナナミ君
が、それぞれブログで報告してくれています。
マシマさんがホームページの、「メモ」で、
絵は結果や評価では無く、描いているその時間に価値がある。
その時間に、何かと繋がる事が出来るのだ。
普段、自分を自分だと思っている様々な契約から自由になれる時間があるのだ。
だから絵を描いたり、音楽をやったりするのは、みんなした方が良い。
その方が楽しい人生を歩く事ができると思う。
改めてそれを感じて、また自分に課題が出来たな。
それを伝えることをして行きたいのです。
うん、うん、そういうことだよね。これにつきる。
で、それは、きっと、どんな「教育」の場でも共通してるんだと思うわけです。
このブログでも、あるいは、あんじぇりかさんや、ビンゴさんのブログでも、ずっと、繰り返し語られてきたこと。結果で評価しないで、過程を! ということ。
ずっと前に、あんじぇりかさんとすこし、やりとりしましたよね、このこと。
あのとき感じたことが、この「静岡の文化」の授業で、どれだけ活かせたのか、どうか。
デッサン会に参加した子供達の中には、作品を持ち帰らずに、モデルを務めた私にためらいなくくれた子もいました。それは、つまらなかったとか、いらない、とかじゃなく、きっと、嬉しくて、楽しくて、その気持ちを持って帰ることが出来れば、「作品」なんて無くても良かったのかも知れない。
これまた随分前の話だけど、「静岡連詩の会」のイベントで、出来上がった詩をあらかじめ張り出して、「詩人」達が裏話を語る会を見に行って閉口したことがあったのを思い出した。楽しんだ残り滓でしょ、それって。
話が逸れた。
「静岡の文化」と言う授業は、
ここでは、静岡、と言う場所を教材として、様々な人と交流しながら、そこにある様々な「モノゴト」を意味づけ(解釈)し、それを適切な媒体で表現し、人に伝えていく過程そのものを学ぶことを最大の目的とします。
と言い、実際、社会人と学生が、出会い、地域と大学が出会い、そういう出会いの中で、発見があり、交流があり、人間の成長があれば、成果は二の次、と言う意識がありました。
だから、先へ繋がりそうな事もあったし、みんな、もうこりごり、と言うよりは、夏休みも続けて!と言う感じだし、良かったかな、とは思っているのです。
でも、もっと出来たんじゃないかという思いはあります。
特にプレゼンテーション。
私には、アドバイスできる力量もないのだけれど、それにしても、貧しいなぁ。
私の授業もそうだけれど、やっぱり、今までの学校教育が、ある種「清貧」を重んじて来すぎたんじゃないか。
この辺は、本当に、後期の情報意匠論に期待。
ながくなったので。
私は、感染させる、だと思ってるんですが。
「教師の仕事は」続編です。
伝馬町小学校出張デッサン会が、3日(日曜日)、「静岡の文化」発表会が4日(月曜日)。
両方とも、既存の教育現場にどう新しい風を入れるか、と言う模索の場所だった気がします。
デッサン会のことは、
マシマさん
蓮花さん
が、また、発表会については、
ミナナミ君
が、それぞれブログで報告してくれています。
マシマさんがホームページの、「メモ」で、
絵は結果や評価では無く、描いているその時間に価値がある。
その時間に、何かと繋がる事が出来るのだ。
普段、自分を自分だと思っている様々な契約から自由になれる時間があるのだ。
だから絵を描いたり、音楽をやったりするのは、みんなした方が良い。
その方が楽しい人生を歩く事ができると思う。
改めてそれを感じて、また自分に課題が出来たな。
それを伝えることをして行きたいのです。
うん、うん、そういうことだよね。これにつきる。
で、それは、きっと、どんな「教育」の場でも共通してるんだと思うわけです。
このブログでも、あるいは、あんじぇりかさんや、ビンゴさんのブログでも、ずっと、繰り返し語られてきたこと。結果で評価しないで、過程を! ということ。
ずっと前に、あんじぇりかさんとすこし、やりとりしましたよね、このこと。
あのとき感じたことが、この「静岡の文化」の授業で、どれだけ活かせたのか、どうか。
デッサン会に参加した子供達の中には、作品を持ち帰らずに、モデルを務めた私にためらいなくくれた子もいました。それは、つまらなかったとか、いらない、とかじゃなく、きっと、嬉しくて、楽しくて、その気持ちを持って帰ることが出来れば、「作品」なんて無くても良かったのかも知れない。
これまた随分前の話だけど、「静岡連詩の会」のイベントで、出来上がった詩をあらかじめ張り出して、「詩人」達が裏話を語る会を見に行って閉口したことがあったのを思い出した。楽しんだ残り滓でしょ、それって。
話が逸れた。
「静岡の文化」と言う授業は、
ここでは、静岡、と言う場所を教材として、様々な人と交流しながら、そこにある様々な「モノゴト」を意味づけ(解釈)し、それを適切な媒体で表現し、人に伝えていく過程そのものを学ぶことを最大の目的とします。
と言い、実際、社会人と学生が、出会い、地域と大学が出会い、そういう出会いの中で、発見があり、交流があり、人間の成長があれば、成果は二の次、と言う意識がありました。
だから、先へ繋がりそうな事もあったし、みんな、もうこりごり、と言うよりは、夏休みも続けて!と言う感じだし、良かったかな、とは思っているのです。
でも、もっと出来たんじゃないかという思いはあります。
特にプレゼンテーション。
私には、アドバイスできる力量もないのだけれど、それにしても、貧しいなぁ。
私の授業もそうだけれど、やっぱり、今までの学校教育が、ある種「清貧」を重んじて来すぎたんじゃないか。
この辺は、本当に、後期の情報意匠論に期待。
ながくなったので。
とっても共感して読みました。
そして「どうしても他人につたえたい何か」があるということに、とても幸せを感じました。コニタスさんの言葉をお借りすれば、「どこを感染させたいか?」というもの。これを伝えずにいられない!と思うことをゲットした人生は、本当にすばらしいのだと思います。それが、たとえ、一生のうちに何度か変わったとしても、OKなんですよね、きっと。今、私はこれを伝えたい!それがあると、プライオリティがはっきりしています。