「悪人だから処刑になるのか、処刑になるから悪人なのだか、判るか」
「殺された天一坊」 浜尾四郎
心配して下さる方がいるのはありがたいことですが、私自身は、全く落ち込んではおりません。
不正経理問題。
月曜日に学部長から呼び出しがかかっているので、何か処分の言い渡しがあるのだろうと思います。
理由はどうあれ、学校のルールに従わなかったのは確かなので、罰せられて当然だと思います。
口頭注意じゃなくて、AAT研究会代表、馘にしていただきたい。
あと、10年くらい教授昇進資格停止とか。
そうしたらまじめに働くと思うなぁ。
この問題は、実は赤福や船場吉兆問題とも通底していたりする。
私自身、生理的に不愉快かどうか以前に、電車の中の電話や、禁煙場所での煙草に眉をひそめ、文句を言いたくなる。
被害者でもないのにルール違反をたたきまくる「正義」の人々。
「やっちゃいかん、と何処に書いてあるんだよ?」と息巻く無法者。
「誰にも迷惑かけてないじゃん」、という「論理」。
クレーマー。モンスター。
今日、徳川御宗家、恒孝氏は、講演の最後に赤福問題に触れて、誰も腹をこわしていないのに、というお話をされた。
実は誰もが同じように感じているのではないかと思うのだ。
そのルールが何のためにあるのか、ということを置き去りにして、ルールを守れないやつは悪になる。
弁護士でもあった浜尾四郎は「殺された天一坊」の中で、大岡越前に、事実と善悪についての究極的な選択を迫る。
規則が罪を作る。
都内で歩き煙草が禁止され、駅のポスター、「マナーからルールへ」というコピーを見たときの記憶。
解りやすく、全く以てその通りなのだけれど、それは、ヒューマニズムの敗北宣言だと思った。
「江戸しぐさ」というのがちょっとした流行になっている。
どこに「江戸」の根拠があるのかも、「しぐさ」の定義もよくわからない運動で、あまり感心しないのだけれど、大事なことは、かつて、この国の人たちは、明文化された規則に頼ることなく平和で幸福な生活を送っていた、ということなのだ。
明治維新がそれを変えてしまった、という乱暴な論理に与しようとは思わないし、全部が全部、ひとまとめに論じるつもりもないけれど、人が人として、気持ちよく生きていくために何をし、何をしないか、ということについて、解っていた時代があったのだとおもう。
茶文化と関わるようになって、茶や禅の考えの基本もそこにあるのだと言うことをひしひしと感じる。
道具や流派がどうの、作法がどうの、というのは、実はどうでも良いことだ。
その道具が、その動きが、なぜそうあるのか、ということをこそ、我々は知らなければならない。
規則が先にあるのではない。
一人一人がよりよく生きることを自覚的にあれば、徳の道は自ずから開ける。
「殺された天一坊」 浜尾四郎
心配して下さる方がいるのはありがたいことですが、私自身は、全く落ち込んではおりません。
不正経理問題。
月曜日に学部長から呼び出しがかかっているので、何か処分の言い渡しがあるのだろうと思います。
理由はどうあれ、学校のルールに従わなかったのは確かなので、罰せられて当然だと思います。
口頭注意じゃなくて、AAT研究会代表、馘にしていただきたい。
あと、10年くらい教授昇進資格停止とか。
そうしたらまじめに働くと思うなぁ。
この問題は、実は赤福や船場吉兆問題とも通底していたりする。
私自身、生理的に不愉快かどうか以前に、電車の中の電話や、禁煙場所での煙草に眉をひそめ、文句を言いたくなる。
被害者でもないのにルール違反をたたきまくる「正義」の人々。
「やっちゃいかん、と何処に書いてあるんだよ?」と息巻く無法者。
「誰にも迷惑かけてないじゃん」、という「論理」。
クレーマー。モンスター。
今日、徳川御宗家、恒孝氏は、講演の最後に赤福問題に触れて、誰も腹をこわしていないのに、というお話をされた。
実は誰もが同じように感じているのではないかと思うのだ。
そのルールが何のためにあるのか、ということを置き去りにして、ルールを守れないやつは悪になる。
弁護士でもあった浜尾四郎は「殺された天一坊」の中で、大岡越前に、事実と善悪についての究極的な選択を迫る。
規則が罪を作る。
都内で歩き煙草が禁止され、駅のポスター、「マナーからルールへ」というコピーを見たときの記憶。
解りやすく、全く以てその通りなのだけれど、それは、ヒューマニズムの敗北宣言だと思った。
「江戸しぐさ」というのがちょっとした流行になっている。
どこに「江戸」の根拠があるのかも、「しぐさ」の定義もよくわからない運動で、あまり感心しないのだけれど、大事なことは、かつて、この国の人たちは、明文化された規則に頼ることなく平和で幸福な生活を送っていた、ということなのだ。
明治維新がそれを変えてしまった、という乱暴な論理に与しようとは思わないし、全部が全部、ひとまとめに論じるつもりもないけれど、人が人として、気持ちよく生きていくために何をし、何をしないか、ということについて、解っていた時代があったのだとおもう。
茶文化と関わるようになって、茶や禅の考えの基本もそこにあるのだと言うことをひしひしと感じる。
道具や流派がどうの、作法がどうの、というのは、実はどうでも良いことだ。
その道具が、その動きが、なぜそうあるのか、ということをこそ、我々は知らなければならない。
規則が先にあるのではない。
一人一人がよりよく生きることを自覚的にあれば、徳の道は自ずから開ける。
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