元々争点は原発ではなかったし、反原発を明確に言う首長候補というのは当選が難しい位置にいるのが現実。
だから、冷めた目で見れば、都知事も静岡市長も当選者は“順当”なんだろう。
その上で、どちらも接戦だったことがせめてもの救い。
得票率ははっきり記憶されるべきだろう。
さて。
私は政治批評家ではなく、文科系の教員・研究者として給料を貰っている。
研究がおろそかになっているのは本当に悔しく、申し訳なく思うのだけれど、またしてもどちらかと言えば“教育者”としての思い(それは研究の原動力の一つである。勿論)。
ネット上の知り合いを含め、私の周りには殆ど、石原・田辺支持者はいない。
それでも私の場合、地域連携でお世話になってる人には田辺支援者もいるから、顔が見えないわけではない。
震災のあとの反原発の動きは、日本にも下からの変動が起こるのか、と言う期待を持たせたけれど、安保闘争のような盛り上がりもない。
実際、反原発と反戦や反自衛隊も重ならないだろう。
というか、「あのころ」デモに連なった人たちが、今回どういう行動をしたのか考えると、いささか悲観的にならざるを得ない。
都知事選挙の世代別得票率をみると、我々より上の世代では、石原支持が圧倒的。
つまり、大雑把に、学生運動世代、全共闘世代の人たちの大半と、その上の世代は一緒になって石原を支持したということだ。
これは、私にとって意外なことではない。
全共闘時代の小説を読んでも、大抵、主人公は主体性を持てずに流されているだけ。
熱に浮かされた“にわか”はみんな「就職が決まって髪を切っ」たわけだ。
一部の“活動家”は、今でも“活動”を続けているんだろうけれど、“民衆”の支持は永遠に得られず、得られないことをアイデンティティにしているようにさえ見える。
学生の頃、新年会にOBとしてやってくるこの世代の“武勇伝”を聞くのが嫌で、「今の日本の様々な矛盾は、あなた方が作ったんでしょう!」とキレたこともあった。
いまでも、私は団塊や全共闘は、許せない敵だ。ある意味、彼らが戦った権力者より。
吉田拓郎「イメージの詩」は70年に発売された。
なにか変わったんだろうか?
私は、大衆文化を研究している、と自分では思っている。
TV時代劇は、全共闘の敗北で方向が定まった、と言うことを修士論文に書いた。
“あの時代”も今も、熱狂的に見える“運動”は、『水戸黄門』や「紅白」には勝てない。
正しいマイノリティをアイデンティティにする開き直りは私にもある。
しかし、前にも書いたように、活動家達は、正しければ伝わる、伝わらない人はどうしようもない、と言うような“独善”を改めるべきだ。
そんなつもりはない、と言われるのは判っているけれど、現実、あなた方は支持されていない。
それは、私自身の問題でもある。
大学の中で、常にマイノリティで、虚空に叫んでいる。
変えていくためには、関心のない人たち、不満を持たない人たちに届く言葉を持たなければならない。
前の世代を恨んでも仕方ない。
下の世代に伝えることがミッション。
だから、冷めた目で見れば、都知事も静岡市長も当選者は“順当”なんだろう。
その上で、どちらも接戦だったことがせめてもの救い。
得票率ははっきり記憶されるべきだろう。
さて。
私は政治批評家ではなく、文科系の教員・研究者として給料を貰っている。
研究がおろそかになっているのは本当に悔しく、申し訳なく思うのだけれど、またしてもどちらかと言えば“教育者”としての思い(それは研究の原動力の一つである。勿論)。
ネット上の知り合いを含め、私の周りには殆ど、石原・田辺支持者はいない。
それでも私の場合、地域連携でお世話になってる人には田辺支援者もいるから、顔が見えないわけではない。
震災のあとの反原発の動きは、日本にも下からの変動が起こるのか、と言う期待を持たせたけれど、安保闘争のような盛り上がりもない。
実際、反原発と反戦や反自衛隊も重ならないだろう。
というか、「あのころ」デモに連なった人たちが、今回どういう行動をしたのか考えると、いささか悲観的にならざるを得ない。
都知事選挙の世代別得票率をみると、我々より上の世代では、石原支持が圧倒的。
つまり、大雑把に、学生運動世代、全共闘世代の人たちの大半と、その上の世代は一緒になって石原を支持したということだ。
これは、私にとって意外なことではない。
全共闘時代の小説を読んでも、大抵、主人公は主体性を持てずに流されているだけ。
熱に浮かされた“にわか”はみんな「就職が決まって髪を切っ」たわけだ。
一部の“活動家”は、今でも“活動”を続けているんだろうけれど、“民衆”の支持は永遠に得られず、得られないことをアイデンティティにしているようにさえ見える。
学生の頃、新年会にOBとしてやってくるこの世代の“武勇伝”を聞くのが嫌で、「今の日本の様々な矛盾は、あなた方が作ったんでしょう!」とキレたこともあった。
いまでも、私は団塊や全共闘は、許せない敵だ。ある意味、彼らが戦った権力者より。
吉田拓郎「イメージの詩」は70年に発売された。
なにか変わったんだろうか?
私は、大衆文化を研究している、と自分では思っている。
TV時代劇は、全共闘の敗北で方向が定まった、と言うことを修士論文に書いた。
“あの時代”も今も、熱狂的に見える“運動”は、『水戸黄門』や「紅白」には勝てない。
正しいマイノリティをアイデンティティにする開き直りは私にもある。
しかし、前にも書いたように、活動家達は、正しければ伝わる、伝わらない人はどうしようもない、と言うような“独善”を改めるべきだ。
そんなつもりはない、と言われるのは判っているけれど、現実、あなた方は支持されていない。
それは、私自身の問題でもある。
大学の中で、常にマイノリティで、虚空に叫んでいる。
変えていくためには、関心のない人たち、不満を持たない人たちに届く言葉を持たなければならない。
前の世代を恨んでも仕方ない。
下の世代に伝えることがミッション。
ネットでの呼びかけだけで1万人も集まった
高円寺の「反原発デモ」は評価すべきでしょう。
私のゼミOBのノンポリ・オタクも参加しましたから。
これからどれだけの広さ・深さで「反原発運動」が展開するかは予断は禁物でしょう。
団塊・全共闘世代は私も大キライです。
だけど,一つだけエライと思うのは,
若いときから今日まで,ブレずに何かを続けていることでしょう。
ついつい妥協したり逃げたりしてしまう自分などは彼らを永遠に超えられそうにありません(笑)
めげずに若い人たちに期待しようと思います。
自分で考え、行動する力を伸ばす手助けぐらいは出来るはず。
ぶれない団塊は立派なんですが、「髪を切った」連中が酔っぱらうとたちが悪くて……。
>自分で考え、行動する力を伸ばす手助けぐらいは出来るはず。
ですね。人文系じゃなければ伝えられないことは一杯あるし。
「フォークジャンボリー[青山篇]」なんてのを買ってみたりするけれど、いまだに地に足の着かない歌もあることに、ちょっとショックだったり。
人間を歌ってきた三上寛の方が、説得力がある。と思ったら映画『南京の真実』に出演してたりする。やっぱり分からん世代?
http://www.page.sannet.ne.jp/syunnko/music/compi1/aoyama.html
「フォークジャンボリー青山篇」情報も。
あの時代に歌ってた人たちの中にも、“ファッション”や“トレンド”読んでた人もいるでしょうし、“活動家”もいたし、と言うことなんですね。