コニタス

書き留めておくほど重くはないけれど、忘れてしまうと悔いが残るような日々の想い。
気分の流れが見えるかな。

天文学と暦学と

2010-10-18 10:10:20 | 
昨夜の記事は昨日一日の空気を伝えること、というか、やっぱり小島という町と、小島の人たちの魅力ばっかりで、講演会の内容が書かれていない。

もちろん、話を全部記録して公開する場ではないのだからそれで良いのだけれど、一夜明けて思い返すと、実は、岡田先生は本題の中でも、会場とのやりとりの中でも、ものすごく深い核心を突いていたんじゃないかと改めて思うので、少しだけ補足しておく。


もう随分前に、「大雑書」のことを書いたことがある。論文のタイトルが示すように、辞典(事典)的世界と占い的世界というのは、案外地続きなのだということ、“科学”もまた虚構の上に成り立っていることは、実は至極当然なのだということを、江戸の人たちはちゃんと識っていた。


円通は、土御門家に出入りもし、蘭書まで学びながら、結局仏典の中に全てのことが書かれている事に気づいたのだという。
西洋科学が現象を正確に記述しているのだとしても、仏教的宇宙観はもっと大きな虚構として揺るがない。
現象は必ずしも真実とは異なる。
むしろ、虚構こそが真実なのだ。

円通が気づいたのは、西洋科学の持っている盲目のリアリズムではなく、それを凌駕する虚構の力そのものを認めればよいのだ、と言う逆説だった、ということなのだろう。

カイチ君の地球暦は、太陽系を外から見下ろす視点を持っているという意味で、やっぱり須弥山説に非常に近いんじゃないかとさえ思ってしまう。
少なくとも、須弥山説が、世界の中心を自分たち人間のいる場所に設定しなかったというのは、仏教の優れた一面だと思う。

昨日カイチ君が来てくれたこと、「時計談義」の皆さんの理解力と的確な発言に、本当に感謝している。

それぞれの人が、一つの存在について、それぞれ別々の問いかけを持って集まり、その場で意見交換する中で、それぞれに新しい答えへの道筋を見つけたんじゃないかと思う。
それは、相互には“誤解”と認識されるような内容かも知れないのだけれど(ツマリ、私がここに書いていることも、岡田先生の仰ることと多分ずれているだろうけれど)、それでいいんじゃないか。

学びあう空間というのがそこにあって、地域の老若男女が集って、わけわからん、と思いながら耳を傾け、目をこらし、時に笑い、喝采した。

私自身にとっても、改めて、原点を思い起こさせてくれる体験だった。


関わりのあった全ての皆さんに感謝、と言うことなのだけれど、それより何より、この、とてつもなく大きな、不思議な因縁の巡り合わせに手を合わせなければならないのだと、今日はとても殊勝な気持ちになっているのであります。

合掌。

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2 コメント

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是の如く。 (龍津寺)
2010-10-18 23:06:09
昨日は、本当に幸福な時間でした。
奇跡などではなく、コニタさんや関わって下さった皆さんのおかげで、なるべくしてあのような展開になったのだと思います。足を運んで下さった皆さんも含め、何とも言えない強い力を感じました。ありがとうございます。

岡田先生のお話はすごく面白かったですね。昨日の難しさは単純に天文学を言葉で表現することの難しさで、それでも十分に知的好奇心をくすぐられる内容でした。もし、模型やスライドを用いて、カイチさんとの対談が実現したら、と勝手に想像してしまいます。

それから、今回の記事は核心を突いていると思います。ブータンの話でもありましたが、本当に地球が丸いと信じなければいけないのか?誰が見たのか?
明治の大変動期、日誌を残した唐山和尚が、円通その他の当時の仏教者が必死に護ろうとしたのは、単なる天動説ではなかったわけですよね。
このあたりはまたぜひ谷川先生にお話をお聞かせ願えたら、と懇願しておきます。

とにかく、熱く、楽しかったです。
またやりましょう!

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ありがとうございました。 (こにた)
2010-10-18 23:19:02
ホントに、熱い会でしたね~。
そしてみんなが幸せそうで。

岡田先生はじめ、皆さんの発言も本当に深くて勉強になりました。
ちょっと精神的にも学ぶところがあったかも。

「次」を求める声もとても多いので、近いうち必ず実現させましょう!

よろしくお願いします。
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