古今東西 珠玉の言の葉めぐり

これまで心に響いた珠玉の言葉を写真とともに掲載します

2014年 7月8月号

2014-07-20 | 言の葉


「天界に接する富士の大いなる孤独を癒すか 月昇り来る」 多賀葉子
南アルプス千枚岳頂上から1991年夏撮影









与謝野晶子(1878-1942)
山梨県明野で2002年夏撮影









「たのしみは朝おきいでて昨日まで無かりし花の咲ける見るとき」 橘曙覧(1812-1868)









京都市動物園で2012年撮影





*主な参考資料
 ダイソーミニミニ辞典シリーズ「日本の名言名句」
 福井市橘曙覧記念文学館ホームページ
 シャープ電子辞書 パピルス



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2014年 5月6月号

2014-06-14 | 言の葉



丹後の国 田辺城の戦い
慶長5年(1600年)7月、石田三成方1万5000の大軍に攻められた細川幽齊(1534-1610)は、わずか500人程の兵で丹後の国の田辺城(現在の京都府舞鶴市)に籠城し戦った。
当時、幽齊は三条西実枝から歌道の奥義を伝える古今伝授(こきんでんじゅ)を相伝されていた。 その年3月より幽齊から古今伝授を継承中であった八条宮智仁親王は、幽齊の討死と古今伝授の断絶を憂慮し、使者を遣わして開城を勧めた。 しかし、幽齊はこれを謝絶し討死の覚悟を伝え、『古今集証明状』を八条宮に贈り、『源氏抄』と『二十一代和歌集』を朝廷に献上した。 このとき、二首の和歌が添えられた。
  「古も今もかはらぬ世の中に心のたねを残す言の葉」
  「もしほ草かき集めたる跡とめて昔に返せ和歌の浦波」
幽齊はその後も籠城を続けたので、ついに時の後陽成天皇は田辺城の東西両軍に勅使を派遣して講和を命じ、9月13日勅旨による講和がなった。 関ヶ原の前哨戦の一つとされるこの戦いで、石田三成方(西軍)1万5000は田辺城に釘付けとなり、9月15日の関ヶ原の戦いには間に合わなかった。
田辺城跡地は現在、舞鶴公園となっていて、城郭様建築の田辺城資料館や彰古館、庭園などがあります。(2014年5月撮影)
写真をクリックすると拡大します。戻るときは左上の戻る←ボタンを使ってください。





公園内を散策していると、どこからか青鷺のような鳥が飛んできて、松の木のてっぺんにとまり、そのままとまり続けていた。 松の木のてっぺんにとまる鷺というのは、あまり見たことがないので不思議な感じであった。  もしかしたら、何かを伝えようとする幽齊さんからの使者だったのか・・。 なんちゃって。







「岩がねに流るる水も琴の音の昔おぼゆるしらべにはして」  細川幽齊
京都市伏見区日野の法界寺の近くの山中に、鴨長明の庵跡とされる場所が現在もあります。 (2008年春撮影)
ここで長明は、あの「方丈記」を書いたといわれています。(当ブログ 2010年6月号 で方丈記冒頭部分掲載)









「植へわたすふもとの早苗一方になびくとみれば山風ぞふく」 細川幽齊
(2014年6月 木津川市加茂地区で撮影)






「転寝の瞼を徹す若葉かな」 吉川五明(1731-1803)
秋田生まれ 江戸時代中期の俳人





主な参考資料
  ウィキペディア
  舞鶴市田辺城資料館パンフレット
  小学館 「日本古典文学全集」中世和歌集 衆妙集
   〃    〃       近世俳句俳文集
  岩波書店 「新日本古典文学大系」中世和歌集 玄旨百首

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2014年 3月4月号

2014-03-18 | 言の葉

「防人に 立ちし朝明の かな門出に 手離れ惜しみ 泣きし子らはも」   作者不詳 万葉集 3569
「置きて行かば 妹はま愛し 持ちて行く 梓の弓の 弓束にもがも」    作者不詳 万葉集 3567 
「水鳥の 立ちの急ぎに 父母に 物言ず来にて 今ぞ悔しき」       有度部牛麻呂(うとべのうしまろ) 万葉集 4337


奈良県立美術館において、1978年に開催された「ロシア絵画の巨匠 レーピン名作展」の図録より転載
イリヤ・レーピン(1844-1930)
「初年兵の門出」1879年作(35歳)
図録の解説によれば、この絵は、ウラジミール大公が買い取り、有名な「ボルガの曳き舟人」と共に大公宮殿に革命まで飾られていたそうである。  
ウラジミール大公って? はて。






西行(1118-1190)
「吉野山去年のしをりの道かへてまだ見ぬかたの花を尋ねん」 新古今和歌集86
(2012年4月撮影)






宮沢賢治(1896-1933)
「はるきたりみそらにくもらひかるともなんぢはひとりかなしまず行け」 
大正七(1918)年四月保阪嘉内宛の葉書から


* 主な参考資料
  新潮社「新潮日本古典集成 萬葉集」
  1978年開催「ロシア絵画の巨匠 レーピン名作展」図録
  小学館「日本古典文学全集 新古今和歌集」
  筑摩書房「宮沢賢治全集」


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2013年 2月号

2013-02-27 | 言の葉


これは、中国の「全唐詩」(清の康煕帝の勅命で編纂された唐時代の詩を集めた漢詩集)の巻732に載っている日本の長屋王の作った漢詩。
読み下し文は、河出書房新社「古典の事典」によれば、
   山川は域を異にし
   風月は天を同じうす
   諸々の仏子に寄せて
   共に來縁を結ばん

長屋王(684-729)は奈良時代、聖武天皇のもとで左大臣にまでのぼった人物。
彼は、千の袈裟を作り、その縁に「山川異域、風月同天、寄諸佛子、共結來縁」の文字を刺繍して唐に贈ったといわれています。
鑑真和上(688-763)の伝記である「唐大和上東征伝」では、和上が日本への渡航を決意するにあたって、
このエピソードを紹介しています。
「全唐詩」においても、この詩の説明文に、長屋王が袈裟に刺繍をして中華に寄贈した旨の紹介があり、
続いて「眞公因泛海至彼國傳法焉」という文言があります。
これは字面から判読すれば、「って鑑眞公を渡って彼國(日本)にえた」という意味のようです。



長屋王といえば、1988年、奈良市二条大路南における、奈良そごうデパート建設中の工事現場から
大量の木簡が発見され、そこが長屋王の邸宅跡地と特定されました。
デパートは開業しましたが、うまくいかなかったらしく、現在はイトーヨーカドーが入っています。


跡地の一角にある長屋王家木簡紹介の碑



そごうデパートの名残、イトーヨーカドーにしてはちょっと豪華な入り口と、長屋王邸跡紹介の碑。

右の画像をクリックすると拡大します。
戻るときは、左上の ←戻る ボタンを使ってください。


 



                  イトーヨーカドー最上階から、夕暮れせまる平城宮跡と復元された大極殿をのぞむ。



  屋上から撮った生駒山の夕景(2013年2月撮影)
  長屋王も幾度となくこの景色を眺めたことでしょう。
  ところで、長屋王が贈った袈裟が、中国のどこかに残っていないでしょうか。
  まさか ね。


* 主な参考資料
  中華書局出版「全唐詩」巻七三二
  河出書房新社「古典の事典」唐大和上東征伝
  シャープ電子辞書パピルス

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2013年 1月号

2013-01-21 | 言の葉


 源宗于(みなもとのむねゆき)(?-939)
 「ときはなる松のみどりも春来ればいまひとしほの色まさりけり」 和漢朗詠集427
 写真は、奈良県新公会堂の庭(2013年1月)








 「追ひつきて 夫に手袋 渡し得し」   山本敏子
 写真提供 山本公弘氏









 「あたらしき年の始にかくしこそちとせをかねてたのしきをつめ」 古今集1069
 (年の始めにこのように、千年の将来栄えるさまをあらかじめ思いえがいて、楽しさを積み重ねよ)
 古来から伝誦された大直毘(おほなほび)の神を祭るときの歌。
 大直毘の神は、悪を吉に転じる霊力を持つといわれる。
 南天は「難を転じて福となす」の意味でおめでたい縁起物。



 * 主な参考資料
   新潮日本古典集成「和漢朗詠集」
   角川ソフィア文庫「古今和歌集」

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2012年 12月号

2012-12-24 | 言の葉


パリのデパート ギャラリー・ラファイエットのクリスマスツリー                       エッフェル塔
(2012.12.13撮影)








モンサンミッシェル修道院  尖塔は大天使ミカエルの像 
                                


(2012.12.11夜撮影)









レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452-1519)
以前から感じていたのだが、モナリザの右手と左手は別人のように思える。
左手は男性っぽい。今回、二日連続でルーブルに行き、間近に拝見しましたが、やはりそう感じました。
これには何か意味があるのだろうか。



主な参考資料
 * 野ばら社 「世界名歌集」
 * 岩波文庫 「ことばの花束」


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2012年 11月号

2012-11-27 | 言の葉



            四国八十八カ所霊場めぐりで、砂浜に遍路道がある 高知県土佐清水市の 大岐の浜





          

          
     「般若心経」
     般若心経の上の帯は、 海面でキラキラと光る日光がカットガラスに反射して、このような色に
     輝いていたのを切り取りました。 これって、もしかして、大日如来からの光りの色なのでしょうか。








          高知県 室戸岬



   室戸海岸
   空海は、青年時代 土佐の室戸で修行をし、明星の来影を感得するという不思議な体験をしたといわれている。










   空海は19歳のとき、この「御厨人窟(みくろど)」に籠もって修行をした。
   「弘法大師修行の地」の石碑が建てられている。


   「法性のむろ戸といへど 我すめば 有為の波風よせぬ日ぞなき」
   これは修行中の空海が詠んだ歌。 
   御厨人窟の中に入ると、空海が見たのと同じ、空と海を望むことができる。
   しかし、現在では、国道55号線が前を通っているので、時々、車も走ります。 









   近くには、こんな像もあります。




   主な参考資料 
   * 角川文庫 空海 「三教指帰」
   * 山と渓谷社 「四国八十八カ所を歩く」


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2012年 10月号

2012-10-23 | 言の葉



「去年見てし 秋の月夜は 照らせども 相見し妹は いや年離る」 万葉集 2巻-211
柿本人麻呂 (生没年不詳)








「蝸牛角上の争い」 
荘子(生没年不詳) 中国戦国時代の思想家
 
荘子 雑篇 則陽第二十五にある寓話からでた言葉
カタツムリの左の角に国するものと、右の角に国するものが、地を争って戦い、数万の死者がでたというお話。

考えてみれば、我々は地球というカタツムリの角の上に暮らしているのかも。
この地球というカタツムリには角が沢山あって角同士の争いが絶えません。
上の写真のカタツムリが乗っているのは水引草。
水引草にあやかって、争いが丸く収まれば、カタツムリだけに、お目出度い!? ナンチャッテ   






  

「玉の如き小春日和を授かりし」 
松本たかし (1906-1956)



* 主な参考資料
  新潮日本古典集成 「萬葉集」
  明治書院 「新釈漢文大系 荘子」
  中央公論社 「日本の詩歌」
  


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2012年 9月号

2012-09-28 | 言の葉

「たまゆらの露も涙もとどまらず なき人恋ふる宿の秋風」 新古今和歌集 788
藤原定家(1162-1241)









平家物語 作者、成立年ともに不明    巻第一 冒頭の部分から



 現代において、「とほく東ヨーロッパをとぶらへば」、ルーマニアにはチャウシェスク大統領(1918-1989)がいる。
彼は農家の十人兄弟の三男として生まれたそうだが、権力掌握後は長年独裁者として君臨した。しかし、1980年代の東欧の一連の民主化の流れのなかで亡んだ。
上の写真は、彼がブカレストにおいて贅をつくして建てた宮殿、通称「国民の館」。
国民生活を犠牲にして建設したとされるが、現在ではルーマニア観光の目玉となっている。
右の写真は宮殿正面バルコニーからの眺め。パリのシャンゼリゼを模したという大通り。
2000年6月撮影
  








「伎波都久の 岡のくくみら 我れ摘めど 籠にも満たなふ 背なと摘まさね」 万葉集 14巻-3444

作者不詳    伎波都久は地名、「くくみら」はニラのこと。   唱和形式の歌
  「岡にはえているニラを摘んでいるけどぉ なかなか籠いっぱいにならないのよー」
  「彼と一緒に摘めばいいじゃん」

という感じでしょうか。





* 主な参考資料
  新潮日本古典集成 「新古今和歌集」 「平家物語」 「萬葉集」
  ウィキペディア


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2012年 8月号

2012-08-23 | 言の葉

和宮 親子内親王(かずのみや ちかこないしんのう)(1846-1877)

ウィキペディアによると、将軍家茂と皇女和宮の夫婦仲は良かったそうです。
家茂は長州征伐の最中に慶応2年(1866)7月大阪城で病没。
その後、和宮が土産として所望していた西陣織が彼女のもとに届けられたが、
和宮は「空蝉の唐織りごろもなにかせむ綾も錦も君ありてこそ」の和歌とともに、これを増上寺に奉納した。
これは後に袈裟に仕立てられ、空蝉の袈裟として増上寺に現存するそうです。
写真は、もちろんその袈裟ではありません。







「勝地本来無定主 大都山属愛山人」 白楽天(白居易)(772-846)
和漢朗詠集 藤原公任撰 1013年頃成立

写真は八ヶ岳山系 硫黄岳山頂で、昭和60年8月撮影。
「向こうに見える山は左から、横岳、赤岳、阿弥陀岳」とのことです。








「渡り懸けて藻の花のぞく流哉」 野沢凡兆(?-1714)

写真は梅花藻の花。




*主な参考資料
 ウィキペディア
 新潮社 新潮日本古典集成「和漢朗詠集」
 講談社 「百人百句」大岡信著


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