古今東西 珠玉の言の葉めぐり

これまで心に響いた珠玉の言葉を写真とともに掲載します

2009年 11月号

2009-11-18 | 言の葉










有間皇子 (640-658) 孝徳天皇の皇子。謀反の疑いにより紀伊の国藤白坂(和歌山県海南市藤白)で殺害された。
この歌は護送の途中に詠まれたといわれている。左は佐々木信綱氏の揮毫による歌碑。










伊良子清白(1877-1946)



松尾芭蕉(1644-1694)
西国三十三観音めぐり第十二番霊場 岩間寺にある芭蕉の池。
芭蕉はこの寺に数日間参籠し、この句の想を得たといわれている。



*今回掲載のテキストはすべて著作権が切れています。
*主な参考資料
 教育研究社「新ポケット歌集」
 小学館「女学生の友」付録「日本名詩集」
 シャープ電子辞書「パピルス」
 岩間山正法寺 参拝案内

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2009年 10月号

2009-10-07 | 言の葉

薬師寺夕景(昭和58年撮影)                                          阿倍仲麻呂(698-770)奈良時代の文人、遣唐使





江戸時代、十返舎一九(1765-1831)が著した「東海道中膝栗毛」では、弥次郎兵衛・北八の二人が膝栗毛でもって東海道を旅しています。
その東海道と ほぼ平行している東名高速を、我が家の愛車 日産ウイングロード1500cc で走行しながら、ヒユゥーンと後ろに飛びさる道路標識に、
弥次さん北八さんの川渡り、海渡りの情景を思いました。




 安倍川

此のうち安倍川の川ごし 道に出むかひて「だんな衆おのぼりかな」
弥次  「ヲイきさまなんだ」
川ごし 「川ごしでござります。安くやらずに、おたのん申ます」
北八  「いくらだ」
川ごし 「きんにようの雨で水が高いから、ひとりまへ六十四文」
北八  「そいつは高い」
川ごし 「ハレ川をマアお見なさい」ト打つれて川ばたに出
弥次  「なるほど、ごうせいな水せいだ。コレおとすめへよ」
川ごし 「ナニおまい、サアそつちょヲつんむきなさろ」
ト二人をかたぐるまにのせて川へざぶざぶとはいる。
北八  「アヽなんまいだなんまいだ。目がまはるよふだ」
川ごし 「しつかりわしが頭へとつつきなさろ。アヽコレ、
     そんなにわしが目をふさがつしゃるな。向ふが見へない」
弥次  「なるほど深いは。コレおとして下さるな」
川ごし 「アニおとすもんかへ」
弥次  「それでもひょっと、おとしたらどふする」
川ごし 「ハレおとした所が、たかでおまいは、流れてしまうぶんのことだ」
弥次  「エエ流れてたまるものか。イヤもうきたぞ。ヤレヤレ御くらう」
トかたぐるまよりおりて賃銭をやり
弥次  「ソレべつに酒手が十六文ヅヽ」
川ごし 「ヘイコレハ御きげんよふ」
ト川ごしはすぐに川上の浅いほうを渡ってかへる
北八  「アレ弥次さん見ねへ。
     おいらをば深い所を渡して、六十四文ヅヽふんだくりやアがった」

   川ごしの肩車にてわれわれを 深いところへひきまはしたり






 大井川

岡部のしゆくのやど引まちうけて「お泊まりでございますか」
弥次  「イヤわつちら けふ、川をこさにやアならねへ」
やど引 「大井川はとまりました」
北八  「なむさん。川がつかへやしたか」
やど引 「さやうでございます。さきへお出になさっても、お大名が五ツかしら、嶋田と藤枝に、
     お泊まりでございますから、あなた方のおやどはござりませぬ。まづ岡部へお泊まりなさいませ」
弥次  「そんなら、そふしよふか」
北八  「おめへなにやだ」
やど引 「相良屋と申ます。すぐにお供いたしませう」
ト打ちつれていそぎゆくほどに、はやくも大寺かわらのさか道うちこへて、岡部のしゅくにいたりければ、

  豆腐なるおかべの宿につきてげりあしに出来たる豆をつぶして

先この駅にやどをとりて、川のあくまでしばらく旅の疲れをぞやすめける






 天龍川

此のはなしのうちに、程なく天龍にいたる。
此の川は信州諏訪の湖水より出、東の瀬を大天龍、
西を小天龍といふ、舟わたしの大河なり。

  水上は雲より出て鱗ほどなみのさかまく天龍の川

舟よりあがりて建場の町にいたる。此所は江戸へも六十里、
京都へも六十里にて、ふりわけの所なれば、中の町といへるよし





弥次さん北八さんは、名古屋 熱田神宮の近くの 宮の渡し から桑名まで、海上七里を船で渡った。
船上では一騒ぎあったのだが、ブログの品格上、抜粋を載せます。
現在は、東名 豊田ジャンクションから東名阪道 四日市ジャンクションまで、海上をも巨大ブリッジで繋いで、伊勢湾岸道が走っています。




湾岸桑名 出口


此わたし船 七里の海上、一人まへ四十五文ヅヽ、其外駄荷のりものみなそれぞれに賃銭をはらひ、船にのる。・・・
 
  おのづから祈らずとても神ゐます宮のわたしは浪風もなし

かく祝しければ、乗合みな皆いさみたち、やがて船を乗出して、順風に帆をあげ、海上をはしること矢のごとく、
されど浪たひらかなれば、船中思ひおもひの雑談に、あごのかけがねもはづるるばかり、高声に笑ひののしり行く
ほどに、あきなひ舟、いくそうとなく漕ぎちがひて「酒のまつせんかいな。名物かばやきの焼きたて、団子よいかな・・」
・・・・・・・・・・・・
のり合 「きたぞ、きたぞ。小便にこそぬれたれ、舟はつヽがなく桑名へきた。めでたいめでたい」
トみなみなこれよりあがりて此しゆくに喜びの酒くみかはしぬ





*今回掲載のテキストはすべて著作権が切れています。
*主な参考資料
  小学館 新編日本古典文学全集「東海道中膝栗毛」
  シャープ電子辞書「パピルス」
  NEXCO中日本「サービスエリアガイド」

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2009年 9月号

2009-09-02 | 言の葉




林古渓(1875-1947)浜辺の歌
           

鎌倉 江の島 富士山 あした浜辺 夕べ浜辺


古今和歌集 風の音 プール 秋
藤原敏行(ふじわらのとしゆき) ?年~901年? 平安前期の歌人






金槐和歌集 大海の磯 荒海 荒磯 荒いそ 波濤
源実朝(1192-1219) 鎌倉幕府第三代将軍






鶏口 牛後 にわとり 雄鶏 鶏冠 とさか
「ときには、鶏後となるのも ケッ コオオオオオ-----ッ」           『戦国策』中国戦国時代の史書  『史記』中国最初の紀伝体の通史






*今回掲載のテキストはすべて著作権が切れています。
*主な参考資料
 新学社「活用国語便覧」
 シャープ電子辞書「パピルス」


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2009年 8月号

2009-08-01 | 言の葉



  Alice Hawthorne(1827-1902)                        緒園涼子(1905-1947)
  鳥海山で 昭和62年8月撮影

   





宿屋飯盛 本名 石川雅望(1753-1830) 江戸時代後期の国学者、狂歌師。
この狂歌は、本ブログ6月号に掲載した紀貫之の古今集『仮名序』をもじったもの。
八ヶ岳連峰 赤岳で








『日本霊異記』平安時代初期、薬師寺の僧景戒の著した日本最古の仏教説話集
写真は京都府木津川市山城町の高麗寺跡







  西行(1118-1190)平安時代末期の歌僧           吉野の西行庵(昭和56年撮影)






「人間以外の生物は笑わない、とか。 だとすれば微笑むことは人間が人間であることを証明する唯一絶対完全必要十分条件なのか???」
「にゃ~ご!」





*今回掲載のテキストの著作権はすべて切れています。
*主な参考資料
  教育研究社「新ポケット歌集」
  新学社「活用国語便覧」
  小学館「日本霊異記」
  シャープ電子辞書「パピルス」


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2009年 7月号

2009-07-01 | 言の葉




 
 写真 上 潮岬付近で
    下 伊豆多賀から見た網代の夜景

「海」  文部省唱歌 作者不詳





天智天皇三年は西暦664年。
高句麗の大臣 蓋金の死後、彼の3人の息子達は、案の定、不仲となって「隣」の唐・新羅連合軍の侵攻を招き、蓋金の心配した通り西暦668年高句麗は滅亡した。
 写真は、横浜八景島シーパラダイスで撮影







 「織女の袖つぐ宵の暁は川瀬の鶴は鳴かずともよし」
 
  湯原王 生没年未詳 奈良時代の歌人 志貴皇子の子
  写真は平塚の七夕ささ飾り




 バカのことを、なぜ馬鹿と書くのか教えてほしい・・・              

 モンテーニュ Montaigne (1533-1592)  フランスの思想家
 写真は奈良公園の鹿さん
 




*今回掲載のテキストはすべて著作権が切れています。
*主な参考文献
  岩波文庫「日本書紀」(五)
  小学館「萬葉集」②

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2009年 6月号

2009-06-01 | 言の葉


 「六月を綺麗な風の吹くことよ」
  正岡子規 慶応3(1867)年~明治35(1902)年







 「防人に立たむ騒きに家の妹が業るべきことを言わず来ぬかも」 万葉集 巻20-4364
  若舎人部広足

 あっちゃー! 防人(さきもり)の任期は3年。広足氏はこの後、彼の妻と連絡をとる手だては何かあったのであろうか。 
 「妹」は妻のこと。
 生業(なりわい)とは古代には農業のことを言ったらしい。
 「業るべきこと」とは、農作業でしておかなければならない段取りなどのことか。
 天平勝宝7(755)年 兵部少輔(ひょうぶのしょうふ)であった大伴家持のもとに、2月14日に提出された 
 常陸(ひたち)の国(今の茨城県北東部地方)からの防人の歌の中の一首。






 古今和歌集仮名序から抜粋
 紀貫之(872?~945?)







 「時により すぐれば民のなげきなり 八代竜王 雨やめたまへ」

 源実朝(1192~1219) 
 八大竜王は、雨・水をつかさどるといわれている八体の龍神。八大龍神。
 写真は、南アルプス 北岳 肩ノ小屋前から撮影(昭和59年8月)





  気をつけてケロ

 タキトゥス Tacitus 55年?~115年?
 ローマ帝政時代の歴史家


 写真は、1980年頃住んでいた京都桃山の坪庭で飼っていた蛙のピョン太。
 春に子供達と捕ってきたオタマジャクシをタライに入れていたら立派な蛙になりました。
 冬になるころ姿を消してしまったが、翌年の春先に突然現れビックリ!
 近所中に「ピヨン太が出てきた!」とふれて回ったことでした。




*今回掲載のテキストはすべて著作権が切れています。
*主な参考文献
  講談社 「私の万葉集」 大岡信著
  筑摩書房 「日本詩人選 源実朝」 吉本隆明著
  岩波書店 「ことばの花束」

                                         写真・編集・制作 KY企画


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2009年 5月号

2009-05-01 | 言の葉




 「背くらべ」 作詞 海野厚
  海野厚  明治29(1896)年 ~ 大正14(1925)年背くらべ、子供、新緑、富士山
  写真 上 新緑の京都醍醐寺で
     下 西伊豆井田からの富士






    与謝野晶子  明治11(1878)年 ~ 昭和17(1942)年
    「五月礼賛」より抜粋すおう
  写真は大和室生寺の すおう





 

仏教では、お釈迦さまが入滅してから56億7千万年後に弥勒菩薩がこの世に現れるまでの間を「無仏の時代」というそうです。
この無仏の時代の人々を守ることを、釈迦如来から託された地蔵菩薩は、なかでも力の最も弱い立場の人々や幼い子供達を
最優先に救いたいと誓願されたとか。
それで、お地蔵様が道端や野辺のあちこちで、なぜ、雨風に打たれながらも地に足をつけて立っていらっしゃるかが分かりました。
地蔵菩薩本願功徳経より、このあたりがサビの部分かなーと思われる箇所を抜粋。六地蔵
写真は秩父観音めぐり第8番札所 西善寺の六地蔵(平成19年5月撮影)





ブレヒト Bertolt Brecht (1898 ~1956)
  ドイツの詩人、劇作家   「ガリレイの生涯」より抜粋
   京都嵐山の猿(昭和55年撮影)




*今回掲載のテキストはすべて著作権が切れています。
*主な参考ソース
  教育研究社 小学生版「新ポケット歌集」
  青空文庫
  岩波書店「広辞苑」
  岩波書店「ことばの花束」

                                         写真・編集・制作  KY企画  


 

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2009年 4月号

2009-04-08 | 言の葉


「行き暮れて木の下陰を宿とせば 花はこよひの主ならまし」

薩摩守 平忠度 (1144年~1184年 *平安時代末)
平清盛の異母弟。 一ノ谷の合戦で討ち死。その時、この歌をえびらに結んでいたとされる。
その当時、ソメイヨシノはなかったのだから、実際はどんな桜の下宿りをしたのだろうか。

忠度はまた、平家一門都落ちの時、わずかの供を連れて都にとって返し、歌の師、藤原俊成に自作の和歌100余首を託した話は有名。
俊成はその後、『千載和歌集』(1188年成立)を編纂した際、忠度の「さざなみや・・・」の歌を、読み人知らずとして入れた。
後に、俊成の子、藤原定家が『新勅撰和歌集』(1235年成立)を編纂。そこでは、はっきり 薩摩守忠度の作とされた。



「さざ波や 志賀のみやこは荒れにしを むかしながらの山桜かな」

大津市錦織地区の住宅地の中にある「志賀宮蹟碑」。明治時代建立と記されている。山桜




「朧月夜」

高野 辰之 明治9年(1876)~昭和22年(1947)朧月夜、おぼろ月夜、菜の花、なの花
 撮影地 南伊豆の菜の花畑




「碁をくづす音ばかりして旅やかた しづかに春の夜はふけにけり」

落合 直文 文久元年(1861)~明治36年(1903)
 写真は、伊豆湯ヶ野温泉の福田屋







右猿「定額給付金てぇのは四個目のトチの実なんじゃないのか?」               『列子』 中国古代の寓話集
左猿「ん? うーん」朝三暮四
写真は京都嵐山で(昭和55年1月撮影)


・今回掲載のテキストはすべて著作権が切れています。
・主な参考ソース
  シャープ電子辞書 パピルス
  講談社 日本全史
  講談社 近代秀歌 木俣修
  週間朝日百科「世界の文学」101


              写真・編集・制作  KY企画



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2009年 3月号

2009-03-06 | 言の葉



 「早春賦」 作詞 吉丸一昌
 吉丸一昌  明治6(1873)年-大正5(1916)年  「新作唱歌」全10集を編著
 上の写真は、信州安曇野から望んだ早春の常念岳(昭和62年3月撮影)





 「春の苑紅にほふ桃の花 下照る道に出で立つ少女」 万葉集 巻19-4139
 大伴家持  養老2(718)年-延歴4(785)年
  撮影地 山梨一宮の桃園





 「菫」
 国木田独歩  明治4(1871)年-明治41(1908)年





 「海神の豊旗雲に入日さし 今夜の月夜明らけくこそ」 万葉集 巻1-15
 中大兄皇子(天智天皇)  推古34(626)年-天智10(672)年  
 斉明7(661)年、百済救援に向かう途中に立ち寄った播磨国(兵庫県)で詠んだ歌といわれている。
 写真は、熱海市上多賀白石で撮影。 実は入り日ではなく朝日です。
 歌のイメージに合っているので載せてしまいました。 どうもすみません。
 専門家が見たら、朝日と夕日の違いが分かってしまうのだろうか。 左手にあるのは初島。





 ヘロドトス  紀元前485年頃-紀元前420年頃
         古代ギリシャの歴史家
 
 写真は京都嵐山で(昭和55年1月撮影)
 


・今回掲載のテキストはすべて著作権が切れています。
・主な参考文献
   音楽之友社「高校の音楽1」昭和64年版
   新学社「四訂版 活用国語便覧」
   小学館「女学生の友」昭和32年6月号付録「日本名詩集」
   岩波書店「ことばの花束」岩波文庫編集部編
早春賦 菫 豊旗雲 歴史 桃の花 春 和歌 短歌
                     写真・編集・制作  KY企画

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