昨日の国会で「教育基本法改正」の審議が行われたが、質疑に上がったのは「愛国心」をどう評価するかという内容。
先日の「共謀罪」といい今回の「愛国心」といい、まるで戦前に逆戻りした感がある。まるで過去の亡霊を見ているようだ。「愛国心」を極端に進めるとそれは「自分の国だけ愛する」ことになり、周辺各国の敵対意識を掻き立てるだけだ。
教育基本法に盛り込むのであれば世界全体を愛する「全世界への愛」にすべきだと思う。また、国内法の対象を世界まで広げられないという制約があるのなら「国を愛する心」と「国を批判する心」の両方を育てるという表現にしたほうがいい。
経済発展を遂げ、価値観が多様化した現代において「愛国心」などと一面的なスローガンは時代錯誤もはなはだしいし、現実とのギャップがありすぎると思う。こんなことを法律に書いたら、子供達から鼻で笑われるだろう。昔の子供は素朴だったし、入っている情報もごく限られていたからこういうスローガンはそのまま信じただろうが、テレビやインターネットから多くの情報を受け取っている今の子供はそんな言葉を鵜呑みにするほど単純ではない。
話は多少ずれるが、学校での国旗掲揚のこと。僕が小学校1年~3年の頃には毎朝朝礼で国旗掲揚の儀式(?)が行われていた。君が代の音楽にあわせて3階建ての校舎の屋上に設置した日の丸を揚げるのだ。これも愛国心を育てるための教育方針の1つであったのだろうが、僕の唯一の関心事は音楽が終わると同時に旗がポールのてっぺんに到達するかどうかということだけだった。毎朝これを楽しみにしていた。時々、旗を揚げる係の児童が慎重になりすぎて、最後の1小節で旗が急上昇したりすると、ニヤニヤ笑っていたものである。だから日の丸に対して愛国心とかを意識したことはただの一度もなかった。
ブログ執筆のはげみになりますので、1つずつ応援クリックをお願いします。
先日の「共謀罪」といい今回の「愛国心」といい、まるで戦前に逆戻りした感がある。まるで過去の亡霊を見ているようだ。「愛国心」を極端に進めるとそれは「自分の国だけ愛する」ことになり、周辺各国の敵対意識を掻き立てるだけだ。
教育基本法に盛り込むのであれば世界全体を愛する「全世界への愛」にすべきだと思う。また、国内法の対象を世界まで広げられないという制約があるのなら「国を愛する心」と「国を批判する心」の両方を育てるという表現にしたほうがいい。
経済発展を遂げ、価値観が多様化した現代において「愛国心」などと一面的なスローガンは時代錯誤もはなはだしいし、現実とのギャップがありすぎると思う。こんなことを法律に書いたら、子供達から鼻で笑われるだろう。昔の子供は素朴だったし、入っている情報もごく限られていたからこういうスローガンはそのまま信じただろうが、テレビやインターネットから多くの情報を受け取っている今の子供はそんな言葉を鵜呑みにするほど単純ではない。
話は多少ずれるが、学校での国旗掲揚のこと。僕が小学校1年~3年の頃には毎朝朝礼で国旗掲揚の儀式(?)が行われていた。君が代の音楽にあわせて3階建ての校舎の屋上に設置した日の丸を揚げるのだ。これも愛国心を育てるための教育方針の1つであったのだろうが、僕の唯一の関心事は音楽が終わると同時に旗がポールのてっぺんに到達するかどうかということだけだった。毎朝これを楽しみにしていた。時々、旗を揚げる係の児童が慎重になりすぎて、最後の1小節で旗が急上昇したりすると、ニヤニヤ笑っていたものである。だから日の丸に対して愛国心とかを意識したことはただの一度もなかった。
ブログ執筆のはげみになりますので、1つずつ応援クリックをお願いします。
確かにカナダに来て思ったことの一つが
日本人は愛国心が少ないって事でした。
こちらで出会う人みんな自分の国を愛してるし誇りを持っています。
日本人は日本の悪いところばかり言う人が多いです。
私も日本を離れてみて初めて日本の素晴らしさが分かった気がします。
灯台下暗しですよね。。。
逆に日本のことを知らない日本人が多すぎると思います。
なんだか悲しいことですね。
キチンと日本の政治、文化などを教えることが愛国心への近道じゃないかなぁ。。。?
海外に出れば、自分が日本人であることを意識できますし、日本関連のものを見聞きすれば同胞意識や同一性を感じるとおもいます。
オリンピックを初めとする国際競技会なんかでは表彰式の国旗国歌は日本人として感動しますよね。
愛国心について問題なのはとねさんが指摘された他国をないがしろにしないかということですけど、健全な愛国心は自他ともに尊重することであって、相手を思いやる気持ちも合わせて教育することが大切でしょうね。
でも愛国心教育をないがしろにした場合は逆に国際人としては失格となる場合があります。
日本で国旗の掲揚、国歌の演奏などに敬意を払わなくてもよいからと外国で同じことをやると大変なことになりかねません。 外国でやると他国を侮辱した受け取られます。
他国に対する自然な敬意は自国での敬意によって出すことができると思います。
形ばかり真似ることはできるけれど、それでは第二次大戦中の日本や北朝鮮と変わらないでしょう。
むしろ強制しないと愛されない国家だと言うことを吹聴しているようで情けないですね。
確かに自分の父親が借金を繰り返して破産寸前なのに浪費生活を改めないとか、隣近所の人を見下した発言や振る舞いで顰蹙を買っているなら、
「家族なんだから愛しなさい」
「家長なんだから尊敬しなさい」
と言われないと愛したり尊敬したりすることは難しいかも知れません。
自分の国への愛着は、年齢を重ねていくうちに強くなっていく傾向があります。僕も20代の頃は外国のことばかり憧れて、国内のことへの理解や経験が足りませんでした。まいさんの次にコメント投稿されたクルンテープさんもおっしゃっていますが、僕も「健全な愛国心は自他ともに尊重すること」だと思います。ただ、「愛国心」という言葉を日本が主張すると、昔日本に占領されていた近隣アジア諸国は警戒心を持ちますので、気をつけ用いたほうがいいと思うのです。私達が望んでいる意味で使っていても、言葉は一人歩きすることがあるものですから。
クルンテープさん
僕も日本人には無意識の愛国心はあると思います。それは空気のように国内にいる間はなかなか自覚できませんが、国外に出るとはっきりわかりますね。「自他ともに尊重すること」についても同感です。自分を愛せない人は、他人のことも愛せないですしね。
YUKIさん
確かに愛することは法律で強制すべきものではありませんよね。それについても同感です。愛は自然に心の中から湧き出てくるものですから。「愛国心」についても同じことです。
ところで「顰蹙」という漢字は最初読めませんでした。「ひんしゅく」のことですね。自分で書けといわれてもなかなか覚えるのが難しそう。
私が通った高校には仏教の教えに基づく「自己を尊重せよ」校是がありました。
自我(=egoエゴ)ではなく自己(self)を尊重するのだと。
わがままを押し通すのではなく真の自分を見つめることができれば、自ずと他者も尊重できるのでしょう。
YUKIさんのコメントを見ると「強制はできない」とありますが、極端に言えば教育とは強制に他なりません。
幼児へのしつけは強制によってなされます。
真っ白な状態の子供は何らかの影響も無ければ、自分のやりたいようにやります。
例えばレストランやお店などで走り回る、大声で騒ぐなどは教えられなければ、子供がやりたければやりますが、親がやってはいけないことを言って聞かせ、或いは罰を加えるなども含めて、やらせない(強制)ことで、子供に分からせます。
学校に入っても児童、生徒がその強制を苦痛に感じる感じないことは個人差があっても学校の方針を押し付けているのが教育です。
>むしろ強制しないと愛されない国家だと言うことを吹聴しているようで情けないですね。
残念ながら、その通りである面もあるでしょうね。
東京都では卒業式などでの一部の教員の行為が問題になっていますが、教員を見た生徒は「ああ、国旗や国歌なんてものはどうでもいいんだな。敬意を表したければ表せばよいし、そうでなければ気にすることもない」と思うかも知れません。
結果、外国へ行ってその考えのまま振舞ってしまうことがあります。
長野オリンピックだったか、フリースタイルの金メダリストの振る舞いがその結果です。
「強制するものではない」というのは強制されなくても自分で理解ができるレベルの人だけにのみ言えることで、そうでない人は強制されないとだめなんです。
とねさんの以前の記事で自転車への取り締まりの強化がありましたが、これも自転車でも交通マナーを守るというのは意識レベルが高ければ、取締りがあろうが無かろうがどちらでも同じです。
しかし、それ以外の人には取り締まりが無い=やってもよいなのです。
日本国民にはこうあって欲しい、つまり自国、他国を共に尊重する人間を国民全体に求めるならば、あえて法律に書く必要があると思います。
学校時代、今でも、そう楽しんでいます。国旗を見て、愛国心を湧いてくることは一度もなかったです。
世界への愛に賛成します。