ウトピア

真実と欲望が出会うところ

参議院選挙

2010-06-29 15:34:16 | Weblog
老師よ、いよいよ参議院選挙ですね。老師は今度の選挙は何が一番の争点とお考えですか、消費税のこととか公務員のこととかいろいろありますが」
「ふむ、そうじゃのう、やはり、選挙法の改正であろうなー。」
「は!?・・・・。老師よ、それは、、、、どうもよくわかりませんが、テレビでも新聞でも、各政党もそれについてはふれておりませんが」
「それは、日本が偽物の民主主義を実践しておるからじゃよ。では聞くが、なぜ、消費税のことが問題になるのじゃな?」
「それは、当り前のようにおもいますが。国民にとって増税になるし、消費が減って景気が悪くなるかもしれません。貧乏な人にはさらに生活が苦しくなる」
「それは貧乏を作りだしておる社会の仕組みが原因でしかない。生活が苦しくなっていかんと君はなぜ考えるのだな」
「えー、とその人間は生活して生きる権利がありますです。それに、格差が大きくなって」
「格差が大きくなってなぜいかんのじゃ」
「それをほっておくと、つまり、あの極端な話、無差別殺人の温床を作るように思います。同じ人間なのに、自分はあまりにみじめな生活をしている。そんな感情が極端なあのような犯罪を生むと思います」
「なかなか、考えておるようだが、ではなぜ同じ人間なのに差別や格差があることに人は怒りを覚えるのだろう?」
「それは、学校で人は本来平等だとおしえられていて、それに憲法にもそう書かれています。あれは法的な扱いを平等にするということでしょうが」
「法的にも平等が実現しておらんのだからして、人が平等だと思うのは間違った考えだといえるのではないかな?」
「老師のお言葉とも思えませんが、人が平等であることは間違った考えなのですか」
「そうではない。憲法に法の下における平等が規定されておるが、それが法的に実現されておらん状態が、ずーと少なくとも30年以上明らかに続いておればそうなるであろう。憲法に規定されていても、法律がそれを保証していない逆に、不平等を規定しておる。それが最たるものが選挙法じゃ。参議院の選挙区の議員定数の是正は一向にすすんでおらん。30年以上前の最高裁判決が参院議員定数の6対一の格差を認めておるが、最近でも5対1ぐらいである。これを放置して、改革だ、格差是正だと言っても、それは弱い立場の人間をより弱い立場にすることを肯定していることになる。マスメデイアもこの問題を取り上げることはほとんどなくなって居る。選挙のたびにこの格差に対する選挙無効裁判が発生するのも当たり前のことなのだが、これもマスメデイアもどういうわけかほとんど取り上げぬ。かれらも支配階級と同心を持ち始めておるのじゃろう。まー、したがってまともに日本を良くしようとするならまずは民主主義の基本である、法の下における平等を実現することじゃな。そんな難しいことではない。欧米諸国は18世紀のイギリスの腐敗選挙区の改革からとうにこと問題について、大体か帰結を見ておる。人口比に応じた議員数、当り前ではないか。これをほっておいて、なんで庶民の生活が守られるものか、喝!!」
「はあー。どうも話が飛びすぎて凡人にはついていけないのですが」
「まーそれだけ、日本国民が洗脳されておるということだな。日本は法的には平等であると思いこまされておる。よく見れば、いたるところに不平等な制度は存在しておる。それは是正されない。なぜなら、自由と民主主義は我々日本人がこの国で、積極的に作っておらんからだ。これから作っていくのが選挙でもあるから、今度の選挙でも当然、争点になってしかるべきであろう。」

サッカーW杯と愛国心

2010-06-26 01:18:57 | Weblog
●サッカーW杯と日本人の愛国心
「迷える子羊、今日は又何か聞きに来たのかな?目が充血してねむたそうであるな」
「ええ、老師。サッカーのワールドカップ中継を見すぎたようで、でも興奮しますよね。日本は頑張っていますし、世界の高レベルのプレーは見ていても気持ちがいいですね。」
「ほう、楽しんでおるようじゃな。しかしワシはサッカーについては全然詳しくないぞ。何を聞きたいのじゃ」
「いえ、そのー、テレビのサッカーの試合そのものじゃないんです。つまり、自分の国を応援している各国の応援風景と、日本の応援風景に違和感を感じたんです。」
「ほうー、どんな感じで、どこがどう違うのじゃ?」
「えーと特に西ヨーロッパのサポーターや韓国でもそうなんですが、サポーターというか国民が野外で大勢集まって、テレビ中継をスクリーンなどで見ているんですけど、そして、自分の国が勝ったり負けたりするとそこですごくはっきりと表現してるんです。日本はスタジアムの中とかスポーツバーとかで応援してるけど、多くの大衆が野外に集まることはないですね。日本が勝っても、狭い場所で、騒いでいる。警察官に囲まれてなんか去勢されているみたい。他の国は大衆がすごく盛り上がるのに。なんで、日本では多くのひとが野外で応援することが出来ないのでしょう?」
「そうじゃな。日ごろ愛国心、愛国心と唱えておる連中も、この機会をとらえて大衆に愛国心を鼓舞する絶好の機会なのに、野外での集会や応援を企画もしておらんようじゃな」
「なぜでしょね?」
「まあ、一つには、野外での大衆運動を警察や政治家や官僚はきらっておるのじゃろう。交通の妨げになるとか、公園の占有はいかんとか、愛国主義を標榜する団体とか行政が管理するところでの愛国心しか認めないということだろう。街の作りも、西欧では市庁舎の前には公的な広場というものが大体作られておる。ここで様々な行事が行われるが、これは、古代ギリシャ人が集って民主制作り政治を論じたアゴラの名残であろう。日本の街にはこれがない。支配者の主催によらないで大衆を集めることは支配者にとって厭うべきことじゃろうて。最近の例で言うなら、ルーマニアの社会主義政権がたおされたきっかけは広場に集まった大衆が独裁者に罵声を浴びたところから始まっておったのう。単なる暴動になる危険性もあるが、大衆が自主的に自立した関係を結び、政治運動になることを最も政治家や官僚は恐れているからじゃ。西欧でも同じだが、西欧は革命を経験しておるから、革命がおこっても人々はそれの収拾策や再建の仕方も分かっておるのでそれほど屋外での大衆行動を制約する必要を感じないが、今の日本の官僚や政治家、資本家にとってはその状態は、無政府状態の暗黒社会、絶対あってはならない状態なのじゃ。実際は彼らの支配がなくなるだけの話でしかないのじゃが。だから、大衆を集めるにしても屋内で。屋外で多くの人を集める場合は商売がらみのものに限ることじゃ。選挙の時でも大衆が選挙カーの前に集まるのはあくまでも歩道の中だけである。こうすれば政治的運動になることはない。なにか起こっても武力鎮圧するだけの理由ができるじゃろ。話を戻せば、日本の愛国心はあくまでも官製のもでなくてはならぬ、それを自然の発露の感情として官僚や政治家やその茶坊主のような連中が言うのは、手前勝手な説得力無いものじゃ。頭が熱い。オーバーヒートじゃな。」
「なかなか、老師の見方はいつもユニークで、目を洗われる思いです。・・・考えてみますです。」


進路相談2

2010-06-09 16:16:03 | Weblog
「老師よ、私はAさんに紹介されてきました『高校生の迷える羊』です。どうかいろいろ教えてください」
「ほう、きみかねAが言っていたのは。なかなか利発そうで、所謂、チャライ兄ちゃんではないな。では何かな?わしで話せることは話そう。何が相談事なのかな」
「えーとその、つまり、すべてなんです。何から何まで・・・不安なのです。うまくいえないのですが」
「良くあるパターンかな。それでは、絞ってみよう。それがまたすべての問題と関連しておるから。まず入口を一つ決めよう。人は同時に二つ以上のことは話せない。進路のことはどうじゃな?」
「ええ、それじゃーそれにします。進路の問題ですね。えーと僕は一応大学進学を考えています。数学が苦手ですので文科系の学部をかんがえていますが。将来何になるかは考えてもよくわからないのです。自分の適性とか、職場で生きがいを持ってやるとか、自分は本当にお金を稼いで生活できるのとか・・・」
「まあ、一度にいろいろ考えてみることはできないのじゃ。問題はまず、今君が望むことはなんなのか?」
「それがわからないのですよ!」
「ふーむ。なるほど。それでは、すこし話は変わるかもしれないが、今、君は食事をしたいと思うかな?そろそろ夕方になるが?夕食時間が近いから」
「はあー、なんですか?まるでわけのわからないことをいいますね。進路の問題と食欲が関係があるのですか?」
「大いにある。働かざる者食うべからず、というように、進路は当然、働くこと即ち労働の問題が含まれておる。労働は食う事と関係するじゃろう。まず君が何を食べたいかだ」
「はーあ、そうですか。僕はハンバーグ定食が食べたいですね。家の料理はいつも簡単なものなのでレストランのハンバーグ定食が大好きですよ。あと、チキンナゲットのセットメニュウーもいいですね、それから。・・・」
「もういいだろう。そうすると君は食事がレストランのように外食したいことを心の中で望んでいることになる。つまり、かなり、収入が必要であることを意味する。なぜなら、外食することになればよりランクの上のレストランの食事を求めることになる可能性は高い。レストランの値段は店によってはかなりのものになろう。つまり少なくとも君の願いは中産階級以上の収入を目指していることになる。」
「はー、そうなんですか。でも、たしかに収入が高いのはいいですがそれが自分の生きがいとか、意味あるものとかにつながるものでしょうか、なにか貧しい発想のように思えてならないのですが。少年よ大志を抱け、とかいいますよね。世の中、愛が大切だとか」
「格好をつけてはいかん。高校生よ、どうしても理想的というか活字的というか観念的というか、イメージ的というか。理想をもつのは良いが、君の今頭に描いているものはまさに混とんである事を君も認めておる。だから何が不安であるかわからないと言っているわけだ、まあ、つまり、それは整理されていない。なぜ整理されないのか。方法を教えてもらっていない。むしろ社会的に観念的な理想主義を植え付けられているやもしれぬし、自分の勝手な想像に酔いしれているのかもしれない。理想的な発言、社会のためとか、国のためとかみんなのためとか、意味ある人生とか、そう発言している人間が、実は最もそれらから遠い人間であることもあろう。特に日本は本音と建前がはっきり分かれていて、むしろ公然とそれを実践しておる者もいる。自分の地位を利用して。」
「そんなこと初めて聞いた。本音と建前が離れているって本当なんですね。」
「そう言うことなど、親と人付き合いについて、社会について、つまり、君の年格好に理解できる社会観や世界観、人生観について話さないのかね?」
「小さい時は、なにか、嘘をついてはいけないとか、そんなことは聞いたけど、ほとんど疲れて帰ってくる親父とは話さないし、母親とはそんな話題はないなー」
「やはり。つまり、日本では社会における効率的なスキル、そしてそれを支える人生観世界観を考え、教える、教わる、自ら考え、行動することが乏しい。日常的な、適応的なソーシャルスキルはなんとか試行錯誤や仲間内との教え合いで何とかなろうが、それはより世間を自分で作っていくスキルの習得は、日常自然な付き合いだけでは出来難い。」
「そんなうまいテクニックがあるんですか?」
「確実ではないが、その人の状況と熟達によって自ら世の中を作っていくスキルやテクニックを利用することができる。これは部分的理論的に心理学者たちは発見しておるし、処世術にたけた人はいくつかの場面においてこのことを意識的にも無意識的にも使用して自分の対人処理に利用しているといえよう。人との関係を良くする一つの方法に、人の話を相槌を打ってよく聞く、肯定する、繰り返すなどは、カウンセリングのスキルにあるが、心理学を学んだことのない世なれた人も使う。もちろん彼らはカウンセリングとは違った目的のためにこのテクニックつかうのだが。
こう言ったスキルは学校では教えてくれない。教える必要を行政の側は認めていないかのようだ。教育目標とかを学校なり、教育委員会なりが掲げるが、いったいその根拠は何なのか?それを理論的にどう解説するのかは表明しない。というのは、教育というのも、人々を一つに文化の枠組みに閉じ込めるものと思いこんでおるからじゃ。その文化の必然性を証明することはできない。それはやはり根本において歴史的に強制されてきたものだからである。つまり、この種のテクニックは強制する教育する側にとっての武器であるから教育される側に公開されないということだ。
幸い、この処世術や対人関係スキルについては本も出ておる、心理学を学ぶこともできる。問題は現実に使い得るようになるために、応用とエクササイズをどのようにするかということだろう。これを身につければ、最もそれは常に発展させ、幅を広げねばならないが
この世で、いたずらに不安や恐れに時間を空費することもなく次の対処行動に移ることもできるし、場合によっては他人を操ることもできよう。君が何を望むにせよ、それは、従って強制されて形成されてきた文化の枠組みのなかの整理せれたものか混乱したものに君の欲望が多少混ざったものにすぎない。自己の自由選択が現代では可能のように言われても、突き詰めれば、その選択の大半はすでに制限されている。それを自覚して自己の欲望をみつめることだ。繰り返すようだが、その欲望にさえ、文化や成育歴、君自身の生活世界の影響が大きく影響していることを認めねばならぬ。これは本当に自分が望んでいるのか?と問うことが不断に求められる。しかし同時に、君は決断しなければならない。よく分析して決断したまえ。実践し給え。そして評価して、再検討し給え、進路変更が必要なこともあるじゃろうて。」
「何か、・・・一度にいわれても?まず対人スキルを身につけて、そして自分の欲望を正確に把握する。その欲望は他人の影響もあるということですか。文化や育ってきた環境とかの影響もある。不安は自分が世間を作っていくような気もちで対人スキルを駆使して生活すれば、なくならないまでも抑えられ、欲望実現のための実践ができる。何か非常に、ドライで計算高い感じ。もっと価値あるものが人生には存在しないのでしょうか?」
「もちろんある。だが、それを知り現実化するのはこの世の実態につぶされないで、これをじっくり見ることができて、世の中を自分で作っていく意気込みで生活しなければ、現実を超える価値や意味をことばの上や他人の影響でいくら考えても、迷うか、他人に利用されるだけであるのじゃ。たしかに、この世を超える観念は存在する。そうでなければ、『進化』という現象は起こりえない。このことの内容はまたの機会に話そう。
つまり、ここで注意しなければならないのは超越的な観念を利用しようとする輩もいっぱいおるということじゃ。これは日本の歴史を見れば明らかなことだ。人間性尊重と理性をあわせもって歴史をみれば明らかなことだ。
今日はここまでとしよう。今日の話をまたじっくり思い出して考えてきなされ。」



人を見て法を説け(2)

2010-06-02 02:17:30 | Weblog
他人と何か一つのテーマに絞って話し合ったり、少々込み入った政治社会現象などについて話すと、人によってはかなり話が頓珍漢なものになってしまって、議論にならない事がある。これは、互いに利害が対立していることが明確な場合はおおいに予想されることだが、一見しては、また客観的には、両者に利害の対立は認められないのに議論にならないばかりか、感情的にすらなる。(究極的には利害対立はあるのだろう。虚栄心や心理的防衛機制が関係するのだから)
原因はいろいろ考えられるが、利害対立がないとすると、残される原因で一番可能性があるのが、両者の教育歴、教養、性格などが考えられる。

ここでは教育歴によってある程度教養が養われている人とそうでない人を考えてみよう。もちろん前者には高等教育機関から教育を受けていないけれど、独学や個人的な交流・努力によって教養を身につけた人も含まれる。また、高騰教育機関で教育を受けたけれど教養を身につけなかったか、失ってしまった人は後者に含まれる。教養とは幅広い知識を身につけている状態は言うまでもないが、それを使って幅広く考えられる能力をも意味する。

両者を考える為にいくつかの知見を参照してみよう。
まず、明治の時代に岩崎弥太郎と福沢諭吉がかわした書簡の中から、岩崎がなぜ慶応義塾の出身者を彼の会社に採用するか、その理由を述べたところ。専門知識を彼らに期待するところはあるが、それに加えて、教育あるものは教育のない者の真似はできるが、教育のない者は教育をうけた者のまねはできないこと、もその理由に挙げている。
ある心理学者が挙げている事例で、セールスマンが相手によって、売り方を変えているという話。つまり、大学卒で、インテリ風の人とそうでない人とは売り方を変えるという。前者に対しては商品の良い面も悪い面も説明して、悪い面を補って余りある利点があることを強調して売り込むが、後者に対しては商品の良い面だけをこちらからは徹底的に売り込む、そうである。

こうして考えると、われわれは、相手の教養や思考能力のレベルを考える必要がある。日常的に言葉で概念操作をする機会や時間が少ない人は、それをやっている人に比べて当然それを困難と思うだけでなく不必要だと思ってやらない傾向があろう。単純化した思考、一般的な世間感情的な反応を思惟と思い、正しいと思いやすい。

特に日本の大マスメディアは、単純化した感情的な思考を助長する役割を果たしている。娯楽番組でなくとも、商業主義的な面白おかしさ、刺激的な報道をする。政府以外の集団や社会への批判はスポンサーがらみで制限される。大衆批判をほとんどしない。
学校現場について、多くの人気評論家は、学校教育の内容は世間に出て役立たない。退屈な時間を過ごす忍耐力を養うことに意義があるとも平気で言う。
確かに直接的に役立つものは、文系の進路に進むものには少ないように思われるが、これは知識偏重になっていることからくる教育方法の問題である。思考訓練が行われることが重要なのだがこれが各科目で行われない。数学は数学の論理、国語は国語の論理、社会科(公民・地歴)は社会科の論理と専門分野に固有の論理はあるが、教師は論理の性格を説明しない。論理は各教科に共通する部分があることを教えない、というか、教師もその論理の教育を受けていない人が大半である。

すなわち、論理学や哲学を訓練されていない。フランスの高校では哲学の科目があり、西欧諸国には論理を戦わせる場が学校だけでなくいたるところにある。特に選挙ともなれば、各候補者やその運動員は個別訪問で直接選挙民と話しあうことで論理的な議論が戦わされる機会が多いであろう。候補者も運動員も選挙民も自己の論理を訓練しなければならない。

しかし、日本ではその必要はない。禁止されている。日本では個別訪問は選挙法で禁止されている。「選挙の争点や国民の要求」なるものは、候補者の一方的なものか大マスメデイアや評論家、政治家同士(その裏には官僚の指導が入っていようし、圧力団体の主張が入っていよう)の議論で出てきたもので、国民はその中からお選びくださいとなる。

学校教育で基本的な論理学や哲学が行われていないのは、日本の政治や社会が論理に合わないことでいっぱいであることが分かってしまうのを恐れているからだろう。(自衛隊の法的解釈、選挙区の定数問題などを参照しよう)
幅広い教養が日本社会で育成される可能性は少ない。

話が飛びすぎたが、このような社会状況なので、他者と話をする時に、相手の知識、教養を推測して話す必要があろう。
論理的な話ができるか否かは、自分の主張とそうでない主張、価値観についてよく知っている事、そして、自分の主張がどのように普遍的意義に近いかを述べられるか否かになろう。
一方的な主張しかできない人、「価値観の相違ですね」をすぐ口にする人は要注意であろう。
このような人には、話を止めるか、先に挙げたセールスマンの対処法をとるか、他にないのだろうか?
伝えられるお釈迦様の説得のやり方は出来すぎている。