ウトピア

真実と欲望が出会うところ

住民投票をしない民主主義はあり得ない

2010-12-16 22:58:48 | エッセイ
名古屋の市議会解散を決める住民投票が決まったが、これは政令指定都市では初めてのことであるという。これも日本が民主主義をないがしろにしてきたことの確たる証拠であろう。テレビのコメンテーターも住民投票が大きな都市で行われないことを異常なことだという人はいない。
民主主義とはもともと古代ギリシャからのデモクラシーという言葉からきていることはだれでも知っているが、それは民衆一般が主体となる政治体制を意味する。実体はどうであったか、それは住民が直接議論して投票する制度であったことを知らないわけでもあるまい。
つまり本来の民主主義は住民投票が原則であったのである。
代議制というものはむしろ、特権階級同士相互の平等を図るために生まれてきたものでもある。貴族会や都市や州の一部の財産家が国王権力の制限を図ったものである。ところが近代になるとこの特権は市民革命によって否定される過程において民主主義が復活したことになる。しかし、原則は住民の直接参加、なかんずく住民や国民の直接投票が最も重視されるのである。これは憲法に書かれているから、法律に書かれているから、国民投票、住民投票が重要なのではない。民主主義のもっとも基本的な原則なのであるから重要なのである。フランス革命の後に憲法が制定されるときは必ず国民投票が行われる。フランス革命前に、憲法制定のために国民投票が必要であるとう法律があったわけではない。民主主義というものを考えれば当然の常識的論理的帰結であろう。
したがって欧米では住民投票や国民投票は珍しいことではない。
日本では国民投票の法律さえ数年前までなかった。憲法に書かれているにもかかわらず。これは民主主義を嫌う官僚や戦時中翼賛議会に参加した政治家たち、そしてその後継者であった大多数の日本の政治家たちが民主主義を心の底では否定したい、政治には民衆を「寄らしめるべきでない」と思っていたからであるのは火を見るより明らかである。
或る名古屋市議が今回のことを受けて、「河村市長の翼賛政治」を危惧する発言をテレビでしていたが、共産党を除いて戦前の大半の政治家は翼賛政治に賛成し、戦後はそれらの人々の後継者や翼賛政治に参加していた人たちが政治家になっている。ことばでは「反省した」と言っているだけである。先の発言をした市議、政治家は翼賛政治に参加した政治家を尊敬する大先輩と扱い、評価する自民党や民主党の政治家でない人であろうか!翼賛政治に反対した人々の後継者であろうか!?

表現の自由

2010-12-15 19:21:34 | エッセイ
またぞろ、石原都知事は馬鹿な条例をつくったものだ。もちろん彼にすれば自分の感性と政治的な狙いがあったのだろうが、国民をお上の判断に従わせる、現在ある政治的勢力や官僚の感性を民衆に押し付けるものだろう。
「大人であれば何でも見ることができる」というのがオーストラりアや、スウェーデンの表現の自由に対する考え方であろう。日本にはこれがない。おかみが許さない限りヘアーもだせなかった。今度の条例は「有害図書」として子供の目に触れさせないというのはばかげている。これでは大人になったとき実質的にこの人たちはおかみが有害としたものを見ないであろうし、ここに特別な価値観が大人に植えつけられる。特別に子供には判断付きかねるから、刺激が大きすぎるから、子供の目に触れさせないといううのであれば理屈は通るが「有害図書」として指定してかくすのは、明らかに価値判断の押し売りでしかない。
この国は、石原都知事が嫌っている、どこかの国と同じことをはじめているのだ。彼が、かの国等を嫌っているのは、じぶんがやりたいことをかれらが 平気でやっていることに対する嫉妬から来るのであろう。
彼が若いころ書いた小説は当時としては賞でも取らなければ有害図書でしかない。戦前であれば、喫茶店に行くもの、男女が二人でデイトするのも不良のやることだと決めつけられていた。何百年にもわたるお上の感性、規範を受け入れてきた日本人がようやく自由の窓を現憲法の中で見出すのを、彼は自分が若い時に味わった果実の美味しさと、特権階級に属しているおごりがあるのだろう。この心理は古くは、身分を越えて天下人になった秀吉が身分の固定化に積極的になった心理に通ずるものがあろう。
もう一度確認しておこう、人間が行うことである以上、人間の大人は何でも見ることができるし、物理的な強制力に基づかない限り何でも表現することができる。見てはいけないか否かを判断するおかみは全部見ていることになる。何の根拠もなくおかみだけが情報を無条件で見ることができる事、おかみの判断がモラルの源泉でも人間哲学の源泉でもない。
TVの「白熱教室」で「正義について」の多様な議論見なかったのか。まあ、彼らは正しいことをやるのでなく、自己の感性と政治的なメリットがあることをやる。根本的な人間と文明に対する謙虚な理性を働かせた、人間を尊重する感性に欠けている。

宇宙戦艦大和とは?

2010-12-13 21:40:12 | エッセイ
「昨今、宇宙戦艦ヤマトのことがまた話題に上っておるが、どうも昔のことを思い出してしまう」
「どんな事を思い出すのですか老師よ。アニメのヤマトもすごく抒情的でかっこよくて、何というか勇ましくて、人間ドラマがあって、日本人の心情にぴったりという感じでしたが、今度の映画のヤマトもきっと素晴らしく感動的だと思いますよ」
「まあそうじゃろう。日本人を泣かすつぼをプロは心得ておる。特にこの種のものは・・・。わしがひっかるのは、アニメのヤマトが放送され始めた時も引っかかっておったことじゃ。つまり、そのまえの宇宙戦艦大和のことじゃ」
「アニメになる前の宇宙戦艦大和があったんですか?!」
「もちろんだよ!日本の青年よ。戦艦大和は日本人の時代錯誤的な巨艦巨砲主義の優越感で、世界最強と日本人は大体思い込んでおったから、さまざまな戦艦大和の少年向けの物語があったと思う。少年漫画雑誌には昔は漫画だけでなく小説や特集記事なんかもあってのう、宇宙まではいかないが空飛ぶ大和、つばさをもった大和の連載小説がマガジンかサンデーにあったように思うが、それではなくて、たしか、わしの記憶が間違いでなければ、松本零二作のSF漫画で、ロケット型の宇宙戦艦大和が登場している。松本さんはなぜ、ロケット型から船方にしたのだろうか?これがわしのひっかるところじゃて。戦う相手は勿論、地球侵略をはかる地球外生命の極めて機動化された軍隊じゃ。ロケット型大和はこれを宇宙で撃破するために作られた。」
「珍しい話ですね??でも、やはり船の形の復活した大和でないと、ピンときませんね。日本人としては」
「ふーむ?・・・・・。つらつら考えるにこれは、松本氏のうらんかなの商売気と年取ったものが抱くノスタルジアが結びついたものであろう。地球侵略に対抗するのは日本人だけではないのに、日本人だけが乗り込んで、日本人が作った日本人の国の名前をつけた戦艦が地球を救うなど、いささか現実離れしておる。しかし、これは日本人の優越感をくすぐるに十分なものだ。もともと松本さんは第二次大戦の戦闘機ものをよく描いておった。彼自身の露骨な欲望が表現されたのだろう。アニメの制作会社やテレビ局は視聴率さえ稼げれば、このウルトラ国粋物語は大歓迎であろう。しかし、ここには人間の情感にかくれて、国粋主義、日本中心主義のいじましい主張、今日本が中国や新興国に追い抜かれつつあることに対するコンプレックスを幾分でも和らげるようなそんな気分を帯びているように思えるのう。もっと、現実を見て、未来の大和を作り上げねばならぬのに、旧態依然とした形の大和、日本人だけの大和、波動砲による一発逆転の思考停止的解決。宇宙戦艦ヤマトは未来への展望に期待を抱かせるものではなく、昔はよかった式の感情でこの閉塞日本を慰めるだけであろうな~。未来の大和をつくって船出しようではないか日本の青年たちよ!」

正義とは?

2010-12-13 01:18:02 | Weblog
「正義とは強者の利益にほかならない」(プラトン)
観念的道徳的な考察のみでは正義とは何か、正しいこととは何か、翻って悪いこととは何か、は明確でないことは明らかである。しかし、世間は自明のようにこれが、マスメデイアや法律の規範を基準に考えられている。すでにある、基準というものに疑いの目を向ける必要がある。

暴力支配

2010-12-12 15:25:56 | Weblog
先日、テレビで、今、人気の戦場カメラマン渡辺陽一氏のイラクでの話を聞いたが、暴力に対する習性が日本人もイラク人も同じであることがわかった。イラク人の大半はイスラム教徒で日本人の文化的なものからはかなり遠い文化を持つにもかかわらず、暴力に対して同じように反応するということはかなり普遍的な習性とみてよいだろう。
渡辺氏の話は、次のようなもの。つまり彼がイラクで取材中、複数の武装勢力メンバーに襲われ殺されかけた時、彼の雇っていた元イラク特殊部隊員のガイドが、彼を救うために、かれは武装勢力のリーダーに襲い掛かりこれを徹底的に痛め続けた。これを見た他にメンバーたちは、渡辺氏を襲うのをやめて、逃げ出したという。これは多勢の敵と戦うときそのリーダーボスをねらえば、他のメンバは戦意を喪失という喧嘩の鉄則をつらぬいたものだろう。ちなみにこの鉄則は民主的な国の軍隊には通用しない。その場の指揮官が指揮不能となったときは次席の階級者が指揮を臨時的に行うのが決められているから。つまりこれは理性的に統制されない自然の感情に近い本能のようなものを基盤とする習性であろう。これが通用する集団は理性や高度の感情、愛等が重要視
されない暴力をに支配されている集団におおく見れれるはずであろう。
また、これと似た例をこの日本でも見ることができる話を聞いたことがある。
ある偏差値のかなり低い私立高校は内部では荒れ放題の状況で、校内は番長組織がかっぽして、授業もまともに行われているか怪しい状態である。かろうじて学校の秩序が保たれているのは、学校側が番長を時々、「開かずの部屋」につれこんで焼きを入れているからだという。竹刀で滅多打ちにするのであろうか。これによって、いざとなれば、学校側の最終通告が生徒たちに少なくともそのときには威力を発揮する。しかし、生徒は忘れやすいので、ときどき生贄に焼きを入れねばならない。
こうしてみると、日本人も、イラク人もかなり文化的背景が異なって育ち、生きてきたはずなのに、暴力によって支配される集団においては同じ反応をすることがわかり、これが、犬の序列意識と同じように人間の普遍的な本来の習性、本能であろう。
我々がこれらの暴力から逃れるには理性を使って、理性のない連中を支配することができる可能性をしめしているが、しかし、暴力はやはり大なり小なり使わねばならない。否、このとき使われる理性を伴う、理不尽な暴力を防ぐための暴力は、暴力ではなく古来より肯定される武力であり、警察力、正当防衛力といえよう。