名古屋の市議会解散を決める住民投票が決まったが、これは政令指定都市では初めてのことであるという。これも日本が民主主義をないがしろにしてきたことの確たる証拠であろう。テレビのコメンテーターも住民投票が大きな都市で行われないことを異常なことだという人はいない。
民主主義とはもともと古代ギリシャからのデモクラシーという言葉からきていることはだれでも知っているが、それは民衆一般が主体となる政治体制を意味する。実体はどうであったか、それは住民が直接議論して投票する制度であったことを知らないわけでもあるまい。
つまり本来の民主主義は住民投票が原則であったのである。
代議制というものはむしろ、特権階級同士相互の平等を図るために生まれてきたものでもある。貴族会や都市や州の一部の財産家が国王権力の制限を図ったものである。ところが近代になるとこの特権は市民革命によって否定される過程において民主主義が復活したことになる。しかし、原則は住民の直接参加、なかんずく住民や国民の直接投票が最も重視されるのである。これは憲法に書かれているから、法律に書かれているから、国民投票、住民投票が重要なのではない。民主主義のもっとも基本的な原則なのであるから重要なのである。フランス革命の後に憲法が制定されるときは必ず国民投票が行われる。フランス革命前に、憲法制定のために国民投票が必要であるとう法律があったわけではない。民主主義というものを考えれば当然の常識的論理的帰結であろう。
したがって欧米では住民投票や国民投票は珍しいことではない。
日本では国民投票の法律さえ数年前までなかった。憲法に書かれているにもかかわらず。これは民主主義を嫌う官僚や戦時中翼賛議会に参加した政治家たち、そしてその後継者であった大多数の日本の政治家たちが民主主義を心の底では否定したい、政治には民衆を「寄らしめるべきでない」と思っていたからであるのは火を見るより明らかである。
或る名古屋市議が今回のことを受けて、「河村市長の翼賛政治」を危惧する発言をテレビでしていたが、共産党を除いて戦前の大半の政治家は翼賛政治に賛成し、戦後はそれらの人々の後継者や翼賛政治に参加していた人たちが政治家になっている。ことばでは「反省した」と言っているだけである。先の発言をした市議、政治家は翼賛政治に参加した政治家を尊敬する大先輩と扱い、評価する自民党や民主党の政治家でない人であろうか!翼賛政治に反対した人々の後継者であろうか!?
民主主義とはもともと古代ギリシャからのデモクラシーという言葉からきていることはだれでも知っているが、それは民衆一般が主体となる政治体制を意味する。実体はどうであったか、それは住民が直接議論して投票する制度であったことを知らないわけでもあるまい。
つまり本来の民主主義は住民投票が原則であったのである。
代議制というものはむしろ、特権階級同士相互の平等を図るために生まれてきたものでもある。貴族会や都市や州の一部の財産家が国王権力の制限を図ったものである。ところが近代になるとこの特権は市民革命によって否定される過程において民主主義が復活したことになる。しかし、原則は住民の直接参加、なかんずく住民や国民の直接投票が最も重視されるのである。これは憲法に書かれているから、法律に書かれているから、国民投票、住民投票が重要なのではない。民主主義のもっとも基本的な原則なのであるから重要なのである。フランス革命の後に憲法が制定されるときは必ず国民投票が行われる。フランス革命前に、憲法制定のために国民投票が必要であるとう法律があったわけではない。民主主義というものを考えれば当然の常識的論理的帰結であろう。
したがって欧米では住民投票や国民投票は珍しいことではない。
日本では国民投票の法律さえ数年前までなかった。憲法に書かれているにもかかわらず。これは民主主義を嫌う官僚や戦時中翼賛議会に参加した政治家たち、そしてその後継者であった大多数の日本の政治家たちが民主主義を心の底では否定したい、政治には民衆を「寄らしめるべきでない」と思っていたからであるのは火を見るより明らかである。
或る名古屋市議が今回のことを受けて、「河村市長の翼賛政治」を危惧する発言をテレビでしていたが、共産党を除いて戦前の大半の政治家は翼賛政治に賛成し、戦後はそれらの人々の後継者や翼賛政治に参加していた人たちが政治家になっている。ことばでは「反省した」と言っているだけである。先の発言をした市議、政治家は翼賛政治に参加した政治家を尊敬する大先輩と扱い、評価する自民党や民主党の政治家でない人であろうか!翼賛政治に反対した人々の後継者であろうか!?