どこへいくのか
せかせかしていつも
ここは都会の一隅だが
木も森もある
しばし、この寒空の下で
ほほをたたいて
笑顔を作り
手に手を取って踊りましょう
たき火をしてもいいですね
お芋を焼いて、火を囲んで踊りましょう
夜が来るまで踊り続ければ
後は闇夜が
火と踊りを助けてくれる
人々は闇と火が
都会の光より
暖かく肉体を起動させるのを知る
体の奥から本能を起動させる。
人々は自由電子になり、
都会というコンピューターは自壊する。
せかせかしていつも
ここは都会の一隅だが
木も森もある
しばし、この寒空の下で
ほほをたたいて
笑顔を作り
手に手を取って踊りましょう
たき火をしてもいいですね
お芋を焼いて、火を囲んで踊りましょう
夜が来るまで踊り続ければ
後は闇夜が
火と踊りを助けてくれる
人々は闇と火が
都会の光より
暖かく肉体を起動させるのを知る
体の奥から本能を起動させる。
人々は自由電子になり、
都会というコンピューターは自壊する。
子供を殴るのはしつけ
子供が暴れるに任せるのが人権尊重
他人を非難中傷してはいけない
地位を利用し、仕事でいじめればストレス解消に役立つ。
黙って法律だからと国民を自由に拘束できるし、
税金だとか社会保険料だとか言ってお金を巻き上げる行政
ニューデール政策で労働権が大幅に認められ、雇用契約の自由は制限された。
日本では、雇用契約の自由が大幅に認められ非正規社員が不況になると大量解雇。
私はなんて美しい日本に住んでいることか。
私はなんと鈍感に育てられてきたことか
学校と社会に感謝してもしきれない。
子供が暴れるに任せるのが人権尊重
他人を非難中傷してはいけない
地位を利用し、仕事でいじめればストレス解消に役立つ。
黙って法律だからと国民を自由に拘束できるし、
税金だとか社会保険料だとか言ってお金を巻き上げる行政
ニューデール政策で労働権が大幅に認められ、雇用契約の自由は制限された。
日本では、雇用契約の自由が大幅に認められ非正規社員が不況になると大量解雇。
私はなんて美しい日本に住んでいることか。
私はなんと鈍感に育てられてきたことか
学校と社会に感謝してもしきれない。
「私、○×区のX教会からきたものですが、教会に拝みにきません、少しここからは遠いけど来ませんか?」
いきなり路上で見知らぬ小柄だがやや太めの熟年女性に声をかけられた。
私は少し微笑の唇を作って、黙って首を横に降った。
「だめですか、…関心ないー」
以外とあっさり私と彼女は反対方向に歩いて別れた。
第一印象の戸惑いが消えた後、私の思ったことは「なんと芸のない、布教活動だ」ということ。宗教団体の宣教活動はいろいろなやり方をする。「あなたは悩んでいませんか」と言うのが多い。十中八九まったく悩みを抱えていない人はいない。仕事や職場の人間関係、家族のこと、健康のこと、「100年に一度の大不況」が来ようというときである。これは、宗教へ誘う導入としては有効な方法である。
詐欺的なのは、キャッチセールスまがいのもの。アンケートと証して、他人に巧みに近づき、サービス・商品ならぬ宗教団体を売りこむ。
この後考えたことは、自分はなぜあの女性の言葉に従わなかったかを整理することだった。
まず、導入の方法があまりに直接的で唐突であった。何か宣伝パンフレットやのぼりなどを持ち、信条を路上で説法するとかすれば、否、やはり私は拒否反応を起こすだろう。
理由は、まず、宗教の思想と宗教団体を分けて考え、宗教思想を宗教団体より重く考え、さらにより理性と人間性、自由を重く考えるからである。私の宗教思想は宗教団体のそれとは根本的に違うからである。
宗教思想の必要性を私は否定しない。人間理性は限界があり、生きていくために絶対の現実の人も物も存在しない以上、われわれは超越的なものにすがったり、依拠せねばならぬ場合もあろう。占いの隆盛はいつの時代も衰えることはないのがそれを示している。
宗教団体はさらに占いより多くのものを与えてくれる。何よりも、孤立した人、孤独な人たちに「救い」を期待させてくれる。その仲間に入って活動し始めれば、生きがいを感じ始め、仮に団体に入って悩んでも、その悩みも救済の一部、信仰の一部になる。根本的な理性的思考は働かなくなり、宗教団体の活動をすることで、多くの仲間と行動することで充実した生活を得ることが出来る。さらに、信者のコネを使って、仕事を見つけたり仕事にプラスになる情報を得たり、人脈も出来よう。現世の利益も転がり込んでくる。
内容よりも、信ずると言うことが重要で、「鰯の頭も信心」ということである。
宗教団体に入った者の義務はなにか?
理性よりも団体の唱える考えと統制と行動をそれが客観的に理性的であろうとなかろうと、理性的なものとして第一に優先させることである。ある宗教団体の人は聖書を科学的な歴史書であると言っていた。これはその特定の宗教団体の保全発展を無条件に優先させ、排他性を強くする。また、この排他性により、周りから反対を受け、孤立すれば、このことで仲間の団結心が強まるという生きがいを感じ、真理を知ったものがこの世の汚さに抑圧されるのだ、という、上から目線の殉教感にうっとりと浸れる。
また、理性の働きは物の扱いにのみ働くようになり、人間性や社会、人間関係、自分の属している団体の統制には働かなくなる。極端な事例はオウム信者である。オウムの信者は理性を働かせて毒ガスを効果的に扱い、多くの人を殺傷するのに成功したが、また高学歴の幹部も多くいたが、人間性についての理性は麻痺していた。
わたしは宗教が必要なことを先に認めたが、宗教団体もこれをまったく無視することも出来ない。どのように宗教や宗教団体と付き合っていったらいいのだろう?
宗教改革や宗教戦争を経験し、宗教戦争を終わらせ、キリスト教神学より下位にあった哲学を復興させた欧米の人たちの信仰のあり方が参考になろう。彼らの多くはキリスト教団体に属し、牧師や神父の説教を、日本人がお経を聞くよりも多く聴いて、多くは宗派・人種に関係なく社会に貢献するチャリティー活動、ボランティア活動に参加している。彼らの宗教に対する態度は基本的には、人間性と、理性を尊重した近代的な市民哲学、市民意識による。この宗教に関する考えに大きな影響を与えた思想の一つにカントの思想を挙げることが出来る。
「神は存在もし、かつ存在もしない」ということを、理性を働かせ、形式論理学的に徹底的に証明した。その上に立って、キリスト教の諸命題に無条件で従えという。(この思想が発表されると、教会の圧力で彼は大学の職を失いかける)ただ、権威ある人から、団体からいわれて、また、団体活動、一般的な慣習から信じるのと、徹底した理性を経て、理性の要請として信じるのとでは大きな違いがある。このような諸思想、哲学、政治活動の実践によって、宗教的寛容、個人の思想・信条・信仰の自由、政教分離の原則が社会に具現化されたのである。
日本人も、時には、日常の習俗・慣習を離れ、徹底的に理性を働かせて、歴史的にも、じっくりと宗教・宗教団体を考えてみるべきであろう。信仰をどう扱うべきか、特定の宗教団体にどう対応するか、特定の宗教団体に入ること、入ってしまっていること(江戸幕府は、すべての日本人を幕府が認める仏教・神道宗派に加入させたから、理性を働かすことなく、いまでも檀家の形で多くの日本人はどこかの宗教法人に属しているはず!)への態度等を、たまには考えるべきであろう。宗教団体は我々や社会に有形無形の影響を与えているのだから。
いきなり路上で見知らぬ小柄だがやや太めの熟年女性に声をかけられた。
私は少し微笑の唇を作って、黙って首を横に降った。
「だめですか、…関心ないー」
以外とあっさり私と彼女は反対方向に歩いて別れた。
第一印象の戸惑いが消えた後、私の思ったことは「なんと芸のない、布教活動だ」ということ。宗教団体の宣教活動はいろいろなやり方をする。「あなたは悩んでいませんか」と言うのが多い。十中八九まったく悩みを抱えていない人はいない。仕事や職場の人間関係、家族のこと、健康のこと、「100年に一度の大不況」が来ようというときである。これは、宗教へ誘う導入としては有効な方法である。
詐欺的なのは、キャッチセールスまがいのもの。アンケートと証して、他人に巧みに近づき、サービス・商品ならぬ宗教団体を売りこむ。
この後考えたことは、自分はなぜあの女性の言葉に従わなかったかを整理することだった。
まず、導入の方法があまりに直接的で唐突であった。何か宣伝パンフレットやのぼりなどを持ち、信条を路上で説法するとかすれば、否、やはり私は拒否反応を起こすだろう。
理由は、まず、宗教の思想と宗教団体を分けて考え、宗教思想を宗教団体より重く考え、さらにより理性と人間性、自由を重く考えるからである。私の宗教思想は宗教団体のそれとは根本的に違うからである。
宗教思想の必要性を私は否定しない。人間理性は限界があり、生きていくために絶対の現実の人も物も存在しない以上、われわれは超越的なものにすがったり、依拠せねばならぬ場合もあろう。占いの隆盛はいつの時代も衰えることはないのがそれを示している。
宗教団体はさらに占いより多くのものを与えてくれる。何よりも、孤立した人、孤独な人たちに「救い」を期待させてくれる。その仲間に入って活動し始めれば、生きがいを感じ始め、仮に団体に入って悩んでも、その悩みも救済の一部、信仰の一部になる。根本的な理性的思考は働かなくなり、宗教団体の活動をすることで、多くの仲間と行動することで充実した生活を得ることが出来る。さらに、信者のコネを使って、仕事を見つけたり仕事にプラスになる情報を得たり、人脈も出来よう。現世の利益も転がり込んでくる。
内容よりも、信ずると言うことが重要で、「鰯の頭も信心」ということである。
宗教団体に入った者の義務はなにか?
理性よりも団体の唱える考えと統制と行動をそれが客観的に理性的であろうとなかろうと、理性的なものとして第一に優先させることである。ある宗教団体の人は聖書を科学的な歴史書であると言っていた。これはその特定の宗教団体の保全発展を無条件に優先させ、排他性を強くする。また、この排他性により、周りから反対を受け、孤立すれば、このことで仲間の団結心が強まるという生きがいを感じ、真理を知ったものがこの世の汚さに抑圧されるのだ、という、上から目線の殉教感にうっとりと浸れる。
また、理性の働きは物の扱いにのみ働くようになり、人間性や社会、人間関係、自分の属している団体の統制には働かなくなる。極端な事例はオウム信者である。オウムの信者は理性を働かせて毒ガスを効果的に扱い、多くの人を殺傷するのに成功したが、また高学歴の幹部も多くいたが、人間性についての理性は麻痺していた。
わたしは宗教が必要なことを先に認めたが、宗教団体もこれをまったく無視することも出来ない。どのように宗教や宗教団体と付き合っていったらいいのだろう?
宗教改革や宗教戦争を経験し、宗教戦争を終わらせ、キリスト教神学より下位にあった哲学を復興させた欧米の人たちの信仰のあり方が参考になろう。彼らの多くはキリスト教団体に属し、牧師や神父の説教を、日本人がお経を聞くよりも多く聴いて、多くは宗派・人種に関係なく社会に貢献するチャリティー活動、ボランティア活動に参加している。彼らの宗教に対する態度は基本的には、人間性と、理性を尊重した近代的な市民哲学、市民意識による。この宗教に関する考えに大きな影響を与えた思想の一つにカントの思想を挙げることが出来る。
「神は存在もし、かつ存在もしない」ということを、理性を働かせ、形式論理学的に徹底的に証明した。その上に立って、キリスト教の諸命題に無条件で従えという。(この思想が発表されると、教会の圧力で彼は大学の職を失いかける)ただ、権威ある人から、団体からいわれて、また、団体活動、一般的な慣習から信じるのと、徹底した理性を経て、理性の要請として信じるのとでは大きな違いがある。このような諸思想、哲学、政治活動の実践によって、宗教的寛容、個人の思想・信条・信仰の自由、政教分離の原則が社会に具現化されたのである。
日本人も、時には、日常の習俗・慣習を離れ、徹底的に理性を働かせて、歴史的にも、じっくりと宗教・宗教団体を考えてみるべきであろう。信仰をどう扱うべきか、特定の宗教団体にどう対応するか、特定の宗教団体に入ること、入ってしまっていること(江戸幕府は、すべての日本人を幕府が認める仏教・神道宗派に加入させたから、理性を働かすことなく、いまでも檀家の形で多くの日本人はどこかの宗教法人に属しているはず!)への態度等を、たまには考えるべきであろう。宗教団体は我々や社会に有形無形の影響を与えているのだから。
鉄製のテーブルとイスが置いてあるベランダで
女は満月を眺める。
椅子に座って、飲み物をだして
女は満月を眺める。
一陣の風が風呂上りの体の下腹部を吹き抜けていくのを感じて
女は満月を眺める。
心の中で何か疼くのを感じて
女は満月を眺める。
月の無慈悲な女王になった自分を思い描いて
女は満月を眺める。
無慈悲な女王は男の犠牲者が必要だ、と思って
女は満月を眺める。
携帯電話をとりだしアドレス表をよびだして
女は満月を眺める。
何年も会っていない男のアドレスを選択して
女は満月を眺める。
この男が「結婚しようと」と言ったが、断ったことを思い出して
女は満月を眺める。
男に電話をかけ、男の「はい、なんですか」という声をきいて
女は一瞬、何かに包まれる。
しかし、直ぐに、いつもの習慣に促されて、
無言で電話を切る。
女は男との今までのことを忘れる。
女は久しぶりに、医者から出された睡眠薬を飲まずに眠る。
女は満月を眺める。
椅子に座って、飲み物をだして
女は満月を眺める。
一陣の風が風呂上りの体の下腹部を吹き抜けていくのを感じて
女は満月を眺める。
心の中で何か疼くのを感じて
女は満月を眺める。
月の無慈悲な女王になった自分を思い描いて
女は満月を眺める。
無慈悲な女王は男の犠牲者が必要だ、と思って
女は満月を眺める。
携帯電話をとりだしアドレス表をよびだして
女は満月を眺める。
何年も会っていない男のアドレスを選択して
女は満月を眺める。
この男が「結婚しようと」と言ったが、断ったことを思い出して
女は満月を眺める。
男に電話をかけ、男の「はい、なんですか」という声をきいて
女は一瞬、何かに包まれる。
しかし、直ぐに、いつもの習慣に促されて、
無言で電話を切る。
女は男との今までのことを忘れる。
女は久しぶりに、医者から出された睡眠薬を飲まずに眠る。
「屈辱と劣等感は成功のばね。
ためるほどよく伸びる。」
以上の言葉は人を勇気付ける。成功した人がよく逆境のときに、屈辱感を忘れずに頑張った、とよく話す。しかし、人間は「易きに流れる」ともいう。昨今、通り魔事件や、無差別殺人事件を見れば、自分の惨めな境遇によって精神のあり方考え方がおかしな方向に向いてしまい、自己の破滅だけではなく、他者への破滅的暴力ともなる。(この十年で通り魔事件の死亡者数は最高)
多くの人が多少なりとも劣等感や屈辱感を感じながらも、他者への暴力へ破滅的に向かわないのは、育った教育による。両親や養育者、学校、地域等の意図的な教育が必要なのである。しかし、子供は、社会や世間の表に現れている全体的なものもはっきり現れないものも、周りの大人が言葉にして言わない社会のありよう、大人たちの行っている言葉の奥のものをも敏感に感じて自分たちの人間関係に反映させて、自分たちの心の習性として身につけ、育っていく。環境の影響であるが、もっと深い社会のありようも学んで実践し始める。「本音と建前の使い分け」を子供たちは自然に学ぶだろう。「大人は汚い」といっていた子供も、大きくなると平気でその汚いことをする。
従って、上記の言葉を使う前提としては、子供の周りの人たちの意図的な教育、つまり、屈辱や劣等感を肯定的に受け取るような教育が意図的に行われると同時に、屈辱と劣等感を成功に結びつけることが出来る、少なくとも表に現れる「社会のありよう」を作らねば成らない。後者は単に政府の施策だけでなく社会一般の習慣の中にもその雰囲気や具体的な習慣、考え方が必要であろう。人々に、多様な意見の表明・議論をする機会が与えられる、社会や集団の高い柔軟性、人間関係の高い柔軟性、社会のセイフティーネットや、仕事で言えば再教育システム、或いは、チャリティー活動、社会の再チャレンジシステム等が社会に広く実現されていなければならない。最低限の生活すらおぼつかなくなりそうな屈辱と劣等感に浸かり切った人には、まず、充実した社会保障制度や社会のチャリティー活動が、成功に向かう人をぎりぎり支えることになる。
ちなみに、アメリカ人がチャリティー活動に寄付するお金は年間20兆円、日本人は年間3000億円で、アメリカの人口は3億人で、日本の約2・5倍である。アメリカ人の楽観的精神の育つ所以ではないだろうか。日本ではチャリティーが育っていないので、社会保障を充実するのが当面できることであるが、これすらかなり不充分なものであるのは、年金制度やその運営をする政府の態度を見れば理解できるところである。
アメリカ人より悲観的性格が社会心理学では統計的に指摘される日本人は、経験から次のように言いかえることも出来る。
「屈辱と劣等感は破滅へのばねにもなる。
ためるほど、自己と他者の破滅にむかって、よくのびる。」
ためるほどよく伸びる。」
以上の言葉は人を勇気付ける。成功した人がよく逆境のときに、屈辱感を忘れずに頑張った、とよく話す。しかし、人間は「易きに流れる」ともいう。昨今、通り魔事件や、無差別殺人事件を見れば、自分の惨めな境遇によって精神のあり方考え方がおかしな方向に向いてしまい、自己の破滅だけではなく、他者への破滅的暴力ともなる。(この十年で通り魔事件の死亡者数は最高)
多くの人が多少なりとも劣等感や屈辱感を感じながらも、他者への暴力へ破滅的に向かわないのは、育った教育による。両親や養育者、学校、地域等の意図的な教育が必要なのである。しかし、子供は、社会や世間の表に現れている全体的なものもはっきり現れないものも、周りの大人が言葉にして言わない社会のありよう、大人たちの行っている言葉の奥のものをも敏感に感じて自分たちの人間関係に反映させて、自分たちの心の習性として身につけ、育っていく。環境の影響であるが、もっと深い社会のありようも学んで実践し始める。「本音と建前の使い分け」を子供たちは自然に学ぶだろう。「大人は汚い」といっていた子供も、大きくなると平気でその汚いことをする。
従って、上記の言葉を使う前提としては、子供の周りの人たちの意図的な教育、つまり、屈辱や劣等感を肯定的に受け取るような教育が意図的に行われると同時に、屈辱と劣等感を成功に結びつけることが出来る、少なくとも表に現れる「社会のありよう」を作らねば成らない。後者は単に政府の施策だけでなく社会一般の習慣の中にもその雰囲気や具体的な習慣、考え方が必要であろう。人々に、多様な意見の表明・議論をする機会が与えられる、社会や集団の高い柔軟性、人間関係の高い柔軟性、社会のセイフティーネットや、仕事で言えば再教育システム、或いは、チャリティー活動、社会の再チャレンジシステム等が社会に広く実現されていなければならない。最低限の生活すらおぼつかなくなりそうな屈辱と劣等感に浸かり切った人には、まず、充実した社会保障制度や社会のチャリティー活動が、成功に向かう人をぎりぎり支えることになる。
ちなみに、アメリカ人がチャリティー活動に寄付するお金は年間20兆円、日本人は年間3000億円で、アメリカの人口は3億人で、日本の約2・5倍である。アメリカ人の楽観的精神の育つ所以ではないだろうか。日本ではチャリティーが育っていないので、社会保障を充実するのが当面できることであるが、これすらかなり不充分なものであるのは、年金制度やその運営をする政府の態度を見れば理解できるところである。
アメリカ人より悲観的性格が社会心理学では統計的に指摘される日本人は、経験から次のように言いかえることも出来る。
「屈辱と劣等感は破滅へのばねにもなる。
ためるほど、自己と他者の破滅にむかって、よくのびる。」
突然君に声をかけると
君はほほを赤く染めて戸惑う
いつまでも仲良くしていようねという時間は
早すぎるほどに過ぎていく
愛してるかいと聞くと
そんなこときかへんとわからないかという
君は突然私の前からいなくなる
別れの手紙には涙はにじんではいなかった
勝手にしやがれと格好つけるのがいいだろう
あいはかげろうらしいから
君はほほを赤く染めて戸惑う
いつまでも仲良くしていようねという時間は
早すぎるほどに過ぎていく
愛してるかいと聞くと
そんなこときかへんとわからないかという
君は突然私の前からいなくなる
別れの手紙には涙はにじんではいなかった
勝手にしやがれと格好つけるのがいいだろう
あいはかげろうらしいから
ある昔のイギリスの首相が、お金を失うのは小さく失うことで、名誉を失うことは大きく失うことだが、勇気を失うことは全てを失うことだ、とか言ったという。まさに至言であろう。
勇気を失って想像されるのは、躊躇している人間、逃げ出すことしか考えていない人間(いったん逃げたとしても戦略的なものならソクラテスの言う如く勇気を失ってはいない)、悲観的なことばかり考えて行動しない人間、信念を持たない人間などだろう。しかし、われわれが勇気持って行動する場面はどんな場合か?自然に向かう冒険家・探検家の行動、未知のものを果てしなく追いかける自然科学者の行動は勇気あるものだろう。しかし大半の場合、われわれが勇気を持たなくてはならないのは、人間に対して、或いは人間の組織、体制に向かう場合であろう。名誉も、御金も人間や人間社会にとってのみ意味をもつものであるからだし。
勇気を失って想像されるのは、躊躇している人間、逃げ出すことしか考えていない人間(いったん逃げたとしても戦略的なものならソクラテスの言う如く勇気を失ってはいない)、悲観的なことばかり考えて行動しない人間、信念を持たない人間などだろう。しかし、われわれが勇気持って行動する場面はどんな場合か?自然に向かう冒険家・探検家の行動、未知のものを果てしなく追いかける自然科学者の行動は勇気あるものだろう。しかし大半の場合、われわれが勇気を持たなくてはならないのは、人間に対して、或いは人間の組織、体制に向かう場合であろう。名誉も、御金も人間や人間社会にとってのみ意味をもつものであるからだし。