あなたがクリスチャンなら、神の子です。子に、父なる神は語られます。
今回、「(思いの内に)神は語られる」という体験をしました。
昨日、長崎市の西坂の丘で、殉教聖会が行われました。
(豊臣秀吉のキリスト教禁教令によって、1597年2月5日に、長崎の西坂の丘で、子どもから大人の計26人が処刑された、日本初の殉教を記念する聖会です)。
そこには天を仰いでいる26聖人のレリーフがあり、「だれでもわたし(=イエス様)について来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」(マルコ8:34)という聖書のみ言葉が刻まれています。(
は新改訳の8:34ですが、レリーフは文語体です)

こういう聖会や教会の集会等の最中や後日、個人的に神が語りかけてくる事があります。
(聖書を読んでいる時に。お祈りしていたら、心に浮かんできたり等・・。但し、本当に神からか吟味する事は必須です。単なる思い込みもあるので)






ここからが本編です。
今年は、コロナ禍により現地参加者数の制限があり、私も自宅からオンライン参加でした。
殉教聖会終了後に、
「わたし(=イエス様)よりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分の十字架をに負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません」(マタイ10:37、38)
という聖書の言葉が脳裏に浮かびましたが、「何だろ?」と意味が分かりませんでした。
という聖書の言葉が脳裏に浮かびましたが、「何だろ?」と意味が分かりませんでした。
そして、その日の夜にわかりました。






毎週金曜の夜は、教会の祈祷会があります。
殉教聖会の夜にも行われましたが、「今週は、確か祈祷会がない日だ」(←毎月1回、休会あり)と勘違いした私。家事をし、一段落してほっと一息。
を飲みながらスカイプを開くと教会からの着信歴が・・(祈祷会終了後30分経過で、途中参加もできず
)。


「もしかして、(心の姿勢を)イエス様から指摘された?」と、しばしモヤモヤしました。
「(26聖人は)イエス様が人一倍大好きでした。だから喜んで教会の働きをしたし、『神を知ってほしい』と人々に伝道しました。処刑される直前まで」という殉教聖会の説教を思い返しながら、ボ~ッとしてるな~・・と反省

神に感謝します。
hiromi