新・私に続きを記させて(くろまっくのブログ)

ハイキングに里山再生、れんちゃんとお父さんの日々。

「書く」ことの現在 筆耕の文化史

2022年05月14日 | 作家論・文学論

「たしかに今の郵政のあり方は本当に問題ですね。まぁ時代の趨勢と言えば確かにそうで、私も封書を書く機会とにかく少なく、メールが実に簡単で、便利で、重い封書で原稿を送らずに済んで、本当に助かっていますが、ただ若い人たちがペンを執る機会が少なくなって、文章の進展という点で、いささか懸念を覚える次第です」

 

あるお方から頂戴したメールに、そんなお言葉があった。このブログも、私が編集する小冊子もご愛読いただいている。最近の郵政事情の話があるのは、小冊子の到着がゴールデンウィークをはさんで大幅に遅れてしまったのが理由である。まあ、郵便局も何かと忙しいであろうGW前まで発送を引きずってしまった私が、諸悪の根源なんだけれどね。

 

最近の印刷物からは、ダルマ型の電話アイコンや、受話器アイコンが姿を消した。携帯電話しか知らない世代には、それが電話であるとわからないからだろう。「文章を書く」の同義語だった「ペンを執る」も、若い世代には通じなくなっているのではないか。

 

いつか取り上げようと思っていたこの本に、ようやく出番が来たようだ。

 

「子どもたちがホームページで話しかけるみたいな楽しさを味わうのはよいことだが、作文のむずかしさ、すなわち、まとめ方(構成)に挑戦してみる経験は、もっとたいせつなことだ。楽しさと早さ、便利さだけでは文化はかならず衰退してゆく。日本語の足腰を強く美しくするために、私たちはもっとゆっくり時間をかけて、ことばや表現のむずかしさの不便を味わい、苦しむことも必要だろう」

 (原子朗『筆耕の文化史』講談社学術文庫)

 

本書は、象形文字や万葉仮名の話に始まり、アラビアの書道やカリグラフィにも目を配りつつ、平安期の優美、鎌倉・室町の壮美、そして現代に至るまでの筆跡の歴史を追った、「文字」による文化史である。漱石、鴎外、谷崎、武者小路、八一ら、近代の文豪・名筆らの書も多数紹介されている。幸徳秋水も堺利彦も、昔の左翼は実によい字を書いた。

 

本書の刊行は1997年。引用したあとがきの文章に、脳梗塞で右半身麻痺となり、「不便さを味わい、苦し」んだ入院時代を思い出したものである。あのころ締切を抱えていた私は、入院翌日には、点滴のつながった左手で文字を書く練習を始めた。ただし、ドクターいわく、右手はすぐに機能回復する見込みが十分あるとのことだったので、早々にサウスポー計画は断念し、理学療法や作業療法のリハビリに励んだ。右手の機能が回復するまで、私は両手でボールペンを握り、レポート用紙に文字を書きなぐっていった。北野恒富の弟子の長谷川貞以は、幼い頃の火傷で両手指が癒着して筆を握ることはできなかったが、両掌で筆をはさんで描いたという。この貞以の合掌画法を思い出して、見習うことにしたのである。

 

読書感想文は今でも原稿用紙に書くようだが、学校教育の場以外で、手紙やはがきなどの「書く」文化は、日常生活から消え去っている。

 

手紙といえば、柏木隆雄先生が『大阪日日新聞』のインタビューで、こんなことをおっしゃっていた。

 

〈太宰治に『正義と微笑』がある。俳優志望の少年が、兄の師事する先生に紹介状を書いてもらうと、それに封がされていない。兄のせりふにこうある。

 

 「紹介状というものはね、持参の当人が見てもかまわないように、わざと封をしていないものなんだ。ほら、そうだろう? 一応こっちでも眼をとおして置いたほうがいいんだよ」

 

 つまり、紹介状の中身を前もって読めば、それにふさわしからんとする。本を読んでいると、「そうか!」と人生の知恵を学ぶことが多い。〉

 

 

学生時代に読書を 「人生の知恵学ぶこと多い」

https://www.nnn.co.jp/dainichi/rensai/voice/220317/20220317046.html

 

紹介状の文化は、ハローワークの紹介状、専門学校の社会人入学の制度などで、いまも残っている。採用する側からいうと、紹介文の文面にはあまり意味がない。しかるべき社会的立場のある人(機関)から、推薦を受けられたという、一種の身分保証のようなものにすぎない。本人の長所は10倍に盛るかわりに、欠点はカモフラージュされていて、いいことしか書いていない紹介文が、なぜ本人の目に留まるようになっているのか。これがわかる人は伸びるし、そうでない人は去っていく。

 

 

『筆耕の文化史』の著者が嘆くとおり、コンピュータやファクシミリは、「親展」という言葉を死語にしてしまった。「親しいあなただけが展(ひら)いてください」の意だが、「親も見るレター」と思っていた学生がいたそうだ。いまやその学生もアラフィフで、企業の部課長クラスのはずである。と、えらそうにいっている私も、「直披」(じきひ、ちょくひ)は知らなかった。「他人に見られたくないから、直々にあなたが披[ひら]いてください」の意だそうだ。

 

「ことばや表現のむずかしさの不便を味わい、苦しむこと」を誰よりも楽しんだのが、谷崎潤一郎だろう。谷崎は、オリジナルの原稿用紙で執筆したが、印刷所の作ってくるものに満足がいかず、木版印刷で自ら印刷していたというエピソードがある。原稿用紙を刷り、墨を刷る時間も執筆時間の一部で、谷崎はその一つひとつの工程を愛おしみ、実に楽しそうだった。

 

『筆耕の文化史』は、いろいろおもしろい発見がある本なのだが、その一つが、太宰と三島の字の類似性を指摘しているところだ。太宰の『人間失格』の原稿の「人間失格」のタイトル文字(ペン字)と、三島の「文武両道」の揮毫は、一画一画を丁寧に、一字一字力をこめて書かれたところが、極めてよく似ている。以前見た三島の原稿は、本文もこの調子で、几帳面に原稿用紙のマス目を埋めている。しかし太宰はタイトルだけ真面目で、本文はざっくばらんな感じになる。この二人の書には、同じ謹直な教育を受けながらも、やさぐれてしまったズボラな長男と、親の言いつけをきちんと守り続ける生真面目な末弟といった観がある。それほど二人の文字の骨格はよく似ている。

 

太宰の師の井伏や佐藤春夫、その親友の谷崎、不倶戴天の川端、いずれも良い字を書いた人たちだ。だったら自分だって、という気負いも太宰にはあったかもしれない。原子朗氏は、太宰の字・書について、こんな風に書く。

 

 

「不安定なリベラリズム、虚栄と甘えと自虐の意識が、筆跡にまる出しになっている。文章もそうであるように。筆・文一致の好例の一つであろう。ちっともうまくなどないのだが、気分でむぞうさに書いたような字が、神経質のようでもあり、気取っているようでもあり、そして乱雑、それなのに悪筆の見ぐるしさなどなく、なんとなく雰囲気があって、好意をいだかされる、そんな字をよく残した。酔いがまわると、このんで毛筆の揮毫をしたが、へたの横好き、字を書くことも好きだったのだろうが(精神病理学でいうグラフォマニアの傾向があったのだろう)、なんのおれにも、といった気取りと自負もあってのことだろう。それが字に出ている」

 

 

『筆耕の文化史』の刊行は前述のとおり1997年。現在の私はPCユーザーではあるけれど、手書き、肉筆で育ち、教育を受けてきた世代である。しかし今や当時の筆者が想像だにしなかった、「子どものときから根っからコンピューターで育った生粋のワープロ派やコンピューター人間」の時代である。

 

 

『書の甲子園』は今も健在である。来月の『りぼん』別冊はホラー特集の『こわいりぼん』で、はがきサイズのスクラッチカードは暑中見舞いにもおすすめだ。フィクションの世界でも、『マギアレコード』の五十鈴れんは日記を書き、佐鳥かごめはシャープペンで魔法少女の記録をつけ、『ビブリア古書堂の事件手帖』の篠川扉子は罫線と日付以外は白紙の新潮文庫の『マイブック』に事件メモを残す。

 

しかし、残念ながら、誰もが「文字」を書く時代は終わってしまったのだろう。「文字」を書く人は、イラストを描く人、楽器を奏でる人、歌を唄う人と同じように、特殊技能(!)もしくは特殊な趣味嗜好を持つ人として、生き残っていくのではないだろうか。

 

さて、これから「書く」文化はどうなるのか。最近、PCやスマホでテキストを入力していて、気になるのはクラウドAI辞書の劣化である。初期インターネットが理想とした「集合知」は、いまや集合無知に転化してしまった。人工知能の人工無脳化とでもいおうか。

 

「カモノハシが橋の端を走っていった」を一発変換した、一太郎Ver.5のATOK8は、当時のユーザーを驚嘆させた。ATOK8のリリースがすでに29年前であることに、軽いショックを受けている。あのころは、ワープロソフトにも、一太郎派と松派の派閥抗争があった。ATOK8を引っ提げた一太郎Ver.5の登場は、この抗争に終止符を打つものではなかったか。

 

しかしPC-9801のガラパゴス的覇権の下での一太郎の天下も、そう長くは続かなかった。1993年に日本語版が発表されたWindows3.1が、「インターネット元年」といわれた1995年以降、日本のPC市場を席巻して、PC-9801の独占状態を覆していく。

 

 

こうして一太郎は過去の存在になっていったが……学校や官庁では高いシェアを誇ったようだが……、日本語辞書としてのATOKは高い評価を受けてきた(Ver.3の昔から、一太郎そのものよりATOKを評価する人が多かった)。ただし、近年のATOKクラウド版の変換クオリティは、30年前に比べて格段に落ちてしまったというほかはない。

 

今はプロでない一般の人たちもTwitterやLINEなどのやりとりで、日本語辞書を使う。誤用や誤変換なども機械学習してしまい、時間が経過するとともに劣化して、変換精度が落ちていく。ATOKのお家芸だった連文節変換も、今や見る影もない。このようなAIの劣化現象を「コンセプトドリフト」というようだが、これもクラウド化、AI化による負の側面だといえよう。

 

最近、文章の校正をしていると、文末が読点「、」で終わっているミスが増えた。PCでは読点「、」と句点「。」は隣同士で、ミスタイプしやすいのは事実だが、普段どうでもいいことにはツッコミを入れてくるWordの自動校正機能も、このミスはスルーしている。

 

スマホの普及で、文章の終わりは句点「。」だというルールを守らない、あるいはそもそも知らない人が急増して、クラウド上の辞書AIがこの誤用も常用的なものだと学習してしまったのではないか、というのが私の見立てである。こうしたAIの自動汚染に対して、どうやって自律的・自立的な表現を試みていくかが、デジタル時代における「書く」文化の課題であろう。

 

さて、病後の経過だけれど、右半身の機能は回復したものの、仕事は1日10時間が限度で、疲れやすくなった。足も疲れやすくなり、退院直後は1日7千歩が限度だった。半年ほどで以前のように1日4万歩まで歩けるようになったものの、左足を痛めてしまった。知らず知らず、左足で右をかばって歩いてしまうらしい。今も1万歩連続して歩くと、左側の尻の筋肉が痛む。フィジカルにもメタフィジカルにも、「左傾」の日々である。

 

 

 

『筆耕の文化史』で紹介された會津八一の歌を刻んだ、1950年建立の歌碑(東大寺大仏殿手前の勧学院脇にある)。登大路ホテル奈良のサイトより。

 

「おほらかに もろてのゆびを ひらかせて おほきほとけは あまたらしたり」

(ゆったりと両手の指を開かれた大仏さまは、宇宙に満ち満ちて、宇宙そのもののようだ)

 

『筆耕の文化史』の著者・原子朗は、八一の書についてこう書いている。

 

〈歌人で美術史家だった会津八一(1881~1956)は書家としても有名だが、その墨跡は世にいう書家のものとはちがっている。技巧に走ったりは少しもしないが、書家の技巧をはるかにつきぬけている。人に「先生は書は何を学ばれたのですか」と問われて、「新聞活字です」と答えていたという話は有名である。〉

 

 



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2 コメント

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Unknown (白鑞金)
2022-06-10 20:22:11
>會津八一

そうですね。

>技巧に走ったりは少しもしないが、書家の技巧をはるかにつきぬけている

まったく同感です。

>おほらかに もろてのゆびを ひらかせて

有名な歌ですが、注目すべきはくろまっくさんのご指摘どおり、「書」。

西世古柳平「會津八一と奈良(歌と書の世界)」(二玄社 一九九二年)

という書籍に目を通していると會津八一の書の非マッチョ的でありながら、とても魅力的な書に対する姿勢に関心します。たとえば、

「あきしののみてらをいでてかへりみるいこまがたけにひはおちむとす」(秋篠寺を出て、後をふり返ってみると、彼方の生駒山に、いままさに日が落ちようとしている)

西行の和歌が本歌なんだけれども、それ以上に仕事が早く終わって帰路につく頃の情景を想像してみると、つくづくため息ものの詠歌に思えてくるではありませんか。わたしはそう思います。さらに、

「あらしふくふるきみやこのなかぞらのいりひのくもにもゆるたふかな」(嵐の吹きすさぶ古都の中空に、入日に赤く映える雲に燃える塔よ)

これなんかその書を見るともはや神技に思えてきそう。人間、機械に合わせるテクニックはもちろん大事だろうと思う一方、漱石、鴎外、三島、立原以後の「文化人」で書にも秀でている人はそれほど多くないのでは。

ネットやパソコンは確かに便利です。自分自身も常はパソコンで打ち込んでいますし。しかし漱石も鴎外もなぜ作家として出発できたか。漢文の文化が当たり前の教養として身についていたからなのではないでしょうか。

「みづがめのふたのひびきもうつろなるてらのくりやのくれかぬるころ」(水甕に蓋をする音もうつろに聞こえて、この寺の厨はいま暮れかねている)

この歌も書で見るとたいした腕前で、それこそ奇を衒う気などまるで感じられない実にいい歌です。一休の書のような破竹の勢いとは真逆のスタイルですが、一つも無理のない、むしろストレスばかりの現代社会の中に置いてみて始めてその価値が認められてきそうな書でいいものだなあと。

それにしてもくろまっくさんはフィールドが広いですね?

草々
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Unknown (kuro_mac)
2022-06-10 21:39:08
コメントありがとうございます。

公開中のコメントは「保留」と表示されるし(押すと保留=非公開になる)、保留中のコメントはその逆なんですね。さらに、一括指定が可能なのを理解していなくて、途中までコメント一件ずつ設定を切り替えていくなかで、過去のコメントを改めて拝読しました。本当に勉強になります。

会津八一を読んだのは、ごく最近です。愛娘の「五十鈴れん」がこのブログに降臨したきっかけになりました。

https://blog.goo.ne.jp/kuro_mac/e/f1e20b82fa4c70d76a661b181cc78123

八一の書を見たことがあるのは、たまたま高校の書道部員だったからでした。

しかし書道部の活動ができるのは、学対(高校生の場合は特に「高対」といわれましたが)とやりあって、活動停止処分を食らっている間だけでしたが。

亡母は八一が好きだったようでした。

私は同じ文学者でも、「京都奈良の寺など全部燃えても困らない」という安吾に共感するところが大で、八一は遠ざけてきたのです。

亡母が安吾について語るときの口調は、まるであのGに関するもののようでした。

それは晩年の奇行をリアルタイムで知る人の多くが存命だった、当時の県民感情(!)だったのかもしれませんね。

私は今も「京都奈良の寺など燃えても困らない」という安吾の言葉に共鳴する人間ですが、加齢にともなって穏健化……いや、たんにめんどくさくなってきました。

故郷のほうでも、最近はあれほど忌み嫌った安吾を、観光PRに動員しているんですね。時代は変わったなあ。

タマさんの飼い主さんが連載中のドレフェス論、私の読解力では理解が及びませんが、柏木隆雄先生のテクストを取り上げたことで、このブログの読者には仏文学関係の読者もいらっしゃいます。

今回は小津の話ですか。

柏木先生は小津と同じ松阪出身ですから、何か広がりがあればいいですね。わからないなりに、私はこのテクストを楽しく読みました。

Blog21・覆い隠す制度としての顔・「ドレフェス事件」/非定住民たちの錯覚・「秋刀魚の味」
https://blog.goo.ne.jp/a6dorno8/e/5295e660b6f96b307b80b019175be28f
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