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最初は何が起こったのかわからなかった――
授業が始まって数分後、事務室のほうから怒声と悲鳴が聞こえた。
驚いて顔を上げるとみんなもお互いの顔をきょろきょろ見合っていた。
斜め前に座る宮島が好奇心丸出しで文也を振り返る。
「なんなんだ、いったい」
河津が参考書を置いてドアに向かった。
立ち上がろうとした文也たちに「君らはじっとしてろ」
と注意して事務室に向かう。
河津が行ってしまうとみんな廊下に出た。
五年クラスからも塚田が出て来て、教室に戻れと一喝し、事務室に走っていく。
誰も言いつけを守らず、五年生たちも合流した。
不安と好奇心が混じり合う視線をみんなで交わし、事務室に駆け込んでいく塚田に集中する。
すぐ塚田のけたたましい悲鳴が聞こえた。
今まで聞いたこともない激しい声に文也の身体は固まった。宮島たち他の生徒もみな同じで茫然自失のまま事務室の入り口を見つめている。
「あっ――」
五年生の一人が指さす。
両手を上げた河津が後ずさりしながらゆっくりと事務室から出てきた。
映画やドラマのワンシーンみたいだと文也は思った。それほど現実味がない。
だが、その後に出て来た追い詰める者を見て文也に震えが走った。
あの赤い目の大男だ。
振り上げた手には大きな鉈を持っていて、すでに全身、血で真っ赤に濡れている。
ぶんっと音を立て河津の頭に鉈が食い込んだ。
絶叫とともに仰向けに倒れ、大量の血飛沫が廊下に飛び散る。
後ろに立つ女子生徒から甲高い悲鳴が上がった。
赤い目がこっちを振り向き、歪んだ笑みを浮かべ河津の頭から鉈を引き抜いた。べったりと刃に張り付いた血と脳の破片が男の足元にぼとぼと落ちる。
「教室に逃げろっ」
誰かが叫ぶと同時にみな四年クラスに雪崩れ込んだ。
宮島が引っ張ってくれたが、金縛りのようになって動けなかった文也は廊下に一人取り残された。急いで入ろうとしたが、ドアの小窓には机や椅子で築かれたバリケードが映っている。
「開けてっ。宮島開けてっ」
文也は必死にドアを叩いた。
鉈を持った男がゆっくりと動き始める。
それに気付き、文也はさらに強く叩く。
だが、男はなぜか事務室に戻っていった。
「野地、ここはもう開けられない。早く二階の先生たちに知らせてきて。俺たちここで110番するから」
ドアの向こうから泣きそうな宮島の声がする。
一人では心細いが仕方がない。
「うん。わかった」
文也は勇気を奪い立たせてうなずいた。
男はまだ事務室から出てこない。
今のうちに二階へ。
文也は階段に向かって走った。
教室の中から「電話が繋がらない」という泣き声がしたが、それは文也には聞こえなかった。
踊り場に駆け上がったと同時に粘着質な足音が事務室から近づいてきた。急いで手すりの角に身を隠し、階下を窺う。
赤い足跡を残しながら男が四年クラスに向かった。
ドアが破壊され、バリケードが壊される激しい音と鋭い悲鳴が耳に届いた。
二階の講師たちが階段を駆け下りてくる。
手すりの陰に座り込んで動けない文也に何かを問いかけてきたが、再び凄まじい悲鳴が一階から聞こえてきて、そのまま階段を下りていった。
止めなければと思いながらも声が出ない。
すぐに講師たちの絶叫が響き、文也は立ち上がると急いで階段を駆け上った。
階段ホールに出て来て階下を覗き込む中学生と六年生を押しのけ三階に向かう。
途中の踊り場で三階にいた講師たちと出くわしたが誰も文也を気に留めず慌てて階下へと下りていく。
文也はもう逃げるだけで精いっぱいだった。
二階で絶叫が起こる。
もうあいつが来たんだ。どこかに隠れないと。
屋上から非常階段で外には出られるが、ドアには鍵がかかっている。その鍵は事務室にあるので無理だった。
ホールに集まった生徒たちの間を潜って文也は男子トイレに駆け込んだ。
二つ並ぶ個室の一つに飛び込んだが、すぐ思い直し一番奥の用具入れに隠れた。
乱雑に詰め込まれたデッキブラシやバケツの間に潜り込み、三角座りして膝の中に顔を埋めた。
すぐそこで大きな悲鳴が上がる。
とうとう三階まで来たっ。
文也は膝をきつく抱きしめた。
助けを求める叫び声と足音が廊下に散らばっていく。
文也は歯を食いしばって悲鳴を我慢した。
あいつがここに来ませんように。
ふと鉈で割られた河津の頭が脳裏に浮かんだ。
みんなあんなふうに殺されたんだろうか。
ううん。そんなことない。きっと誰か逃げてる。
宮島は脚が速いし、あんなおっさんなんかに負けるもんか。それにすぐ警察だって来る。
だが、どんなに耳を澄ませて待っていてもパトカーのサイレンはまったく聞こえてこなかった。
最後の悲鳴が聞こえてからどれだけの時間が経ったのだろう。今どんな状況なのか用具入れに隠れたままの文也には何一つわからなかった。
パトカーも警官も来た様子がない。ということは、誰も通報できなかったのか。逃げ出せた者もいなかったのか。
宮島はどうなったのだろう。真奈香は?
涙が頬を流れる。口を押さえていても嗚咽が漏れ出す。
だが、すぐ近くでびちゃびちゃと足音がして、文也は息を止めた。
きっと僕が最後の一人だ。あいつは僕の顔を知ってるから探してるんだ。
足音はしばらくの間歩き回っていたが、次第に遠ざかり、やがて聞こえなくなった。
ここがばれなかったことに安心したが、これからどうすればいいのか。
あっ――
文也はズボンのポケットに入れていた携帯電話を思い出した。あまりの恐怖で忘れていた。
モップやブラシを倒さないよう注意しながら、そっと電話を取り出すと110番を押す。
だが、受話口からは何の音も聞こえない。アンテナと電池を確認したがどちらも減っていないのでもう一度かけ直した。
だが、何度やっても繋がらない。
110番がだめなら母の携帯番号にとかけてみたが、こっちも結果は同じだった。
二十回目ぐらいにやっと呼び出し音が鳴り始めたが、ノイズ混じりで今にも切れてしまいそうだ。
その音が止み、繋がったとほっとするもいつまでたってもごおおぉと風が鳴るばかりだ。
繋がった先がだだっ広い草っぱらのように思えて電話を切ってしまった。
後でかけ直そうと、今は足音に集中することにした。
かくりと首が落ちて居眠りから覚めた。
あたりは何事もなかったかのようにとても静かだ。
夢でも見ていたんじゃないか、そんなふうにまで思えて来る。
突然、手の中で携帯電話が鳴り出した。
張り詰めた空間に響く音は恐ろしいほど大きく聞こえ、驚いた文也は慌てて送受ボタンを押した。
男の足音が来ないか耳をそばだてて電話に出る。
突風の後、送話口を爪で引っ掻いているようなノイズが聞こえ、その向こうでとても遠い母の声がした。