なまぬるい生活

エホバの証人 元二世のブログ

記念式の服装と身だしなみ

2010年03月29日 22時14分19秒 | 一般記事
ついに3月30日の火曜日は主の記念式ですね。
毎年思うのですが、記念式になるとなぜ着物や派手なドレスをここぞとばかり着飾る姉妹がいるのでしょう。

2010年の招待ビラにあるように「イエスの死の意義を考える集まり」なんですよね。
きちんとした身なりをすることは大切ですが、まるでお祭り騒ぎであるかのような服装をするのはどうかと思うんですよ。

式が終われば、イエスの話なんてすっかり忘れステージに上がって記念撮影。

こんな光景について、ある評論家は次のように述べています。
それと記念式で強調されるのは、神やイエスの愛は二の次。
奴隷級に注目させる話がほとんどである。
記念式で涙が出るほど感動的な話は聞いたことがない。
一般人には理解できない話がほとんど。
記念式を利用して奴隷級との差別を認識させる構造だ。

一方記念式に晴れ着を着てくる姉妹たち。
本来は厳粛なものであるはずなのに、
イエスに注目するより、自分に注目してもらいたいが故の行動。
法事に晴れ着を着ていくバカがどこにいる?
一方愚鈍な兄弟たちは鼻の下を伸ばしてそういう女性の写真を撮りまくる。
毎年展開されるこの醜い光景に誰も疑問を持たないほど
思考力を持たないほど頭脳が腐っている。

2009年の招待ビラでは「本場」アメリカの写真が載っていますが、いつもと同じような服装で、特に派手・変わった格好をしている人はいません。

ベテル見学をする時の服装と身だしなみ」に引き続き「主の記念式の服装と身だしなみ」なんて発行したらいいんじゃないですかね?

来て,わたしと踊りなさい

2010年03月28日 00時01分03秒 | 一般記事

2007年に発行され、現在聖書研究(書籍研究)で使用している「来て,わたしの追随者になりなさい」の表紙って、見るたびに思うんですけど、盆踊りを踊ってるように見えません?

試しに、盆踊りの写真と合成してみました。

…なかなかいい感じに踊っております。

この挿絵は 14ページにもあるのですが、その隣の15ページ 1節にこんな例え話があります。
道に迷ったことがおありですか。友人や親戚のところに行く途中で道が分からなくなった,という経験があるかもしれません。見知らぬ道で,どちらに行ったらいいかをだれかに尋ねたでしょうか。そんな時,親切で思いやりのある人が道を教えるだけでなく,「一緒に行ってあげましょう。付いておいでなさい」と言ってくれたら,どんな気持ちになるでしょうか。本当にほっとするに違いありません。

この例え話を見たとき、今どきこんな人がいたらこえーよ、なんて思ってしまいました。

例えば、
「すみません、○○に行きたいのですが、どう行ったらいいですか?」
「ここをまっすぐ行くとあります。では、一緒に行ってあげましょう。付いておいでなさい。」
こんな状況は、よほどの田舎でもない限りあり得ないでしょう。

こんなことを思うのは僕くらいの者らしく、先週の集会では「道を教えるだけでなく、連れて行ってくれたらほっとするのと同じように、イエスキリストは…」と普通に注解が行われていたようです。

ブログ一時休止のお知らせ

2010年03月22日 21時55分31秒 | 一般記事
報告が遅くなりましたが、
・今週は資格取得のための研修、そして別件での面接
・来月は情報処理技術者試験
があったりで、ブログを更新する時間がありません。
今まで一週間に2件以上の更新を目指してきましたが、しばらく不定期になります。

気晴らしに更新するかもしれないので、たまにのぞいてみてください。

P.S. 2010-03-27 追記
一つ目の資格は無事取りました。

面接の件ですが、一次面接は受かりましたので、来月の二次面接(役員面接)に向けて準備中です。

来月の試験は仕事とは直接関係はなく、単なる趣味で取るだけですので気楽に勉強しています。その試験は受かると思います。

あなたは,反射的に悪を退けますか

2010年03月11日 00時33分47秒 | 一般記事
あなたは,反射的に悪を退けますか

前回のブログに使った画像が思いのほか反応があったので、元画像を掲載しておきます。

ものみの塔 2008年3月15日号の第4研究記事「あなた方の中で知恵と理解力のある人はだれですか」の 24ページにある副見出し「知恵のある人が表そうと努める特質」に関連した挿絵で、「あなたは,反射的に悪を退けますか」という見出しが添えられています。

この記事では定番の「ポルノ」や「背教者のサイト」といったキーワードは出てきませんが、協会が言わんとしていることは、インターネットを利用しているときにいかがわしい画像が出てきたら「反射的に行動する」ということでしょうね。

でも、コメントにもありましたが画像はなぜディスプレイの電源ボタンを押してるのでしょう。テレビと同じ感覚なんでしょうか。

見たところ Windows XP のようですので、「×」マークや「Alt+F4」でウィンドウを閉じるのが「正解」です。

ところで、この兄弟が何を見て「反射的な動き」をしているのか全くわかりません。

心霊術生贄の画像なんかは詳細に載せられるんだから、これもハッキリ載せたらいいんじゃないですかね?

組織を批判する人を批判する人たち

2010年03月07日 22時40分51秒 | 一般記事
ものみの塔 2008年3月15日号 P24

このブログは、僕がそのときに感じたことや前から思っていたことを好き勝手に発言し、見た人は自由にコメントできるというスタンスでやっています。
おかげさまでたくさんのコメントをいただき、とても喜んでおります。

ですが、一部で批判的なコメントを寄せる人がいることは残念だと思っています。
もちろん、どんな批判も一切受け付けないというわけではなく、正論の場合は真摯に受け止めております。

そもそも、こんな大して人気もないブログにわざわざ批判的なコメントをしに来る人ってどんな人なんでしょう。

模範的なエホバの証人であれば、こんなブログは見た瞬間にウィンドウを閉じるでしょうし、まして「悪い交わり」となるコメントをするなんてあり得ないでしょう。

どんな心境なのか、以前の記事でえっち2さんがすばらしいコメントをくださったのでここに引用します。

あなたはこのブログの内容、イヤですか。
であれば見なければいいのに。

イヤだと思っているのについつい「なまぬるい生活」を見てしまっているあなた、そう、あなたです。

あなたは「なまぬるい生活」の周辺にいる連中が気に入らない、と表面では思っている。しかし、心の奥深くでは、整理のついていないわだかまりが渦巻いている。

整理がつかないので苦しんでいます。
いまこそ心を掃除して整理するときではありませんか?

JWに心から満足を得ているなら、ほんとうに楽しくて忙しいはずです。「なまぬる」のブログなど、見ているヒマはないはずです。

自分の心に正面から向き合いましょう。
自分にうそをついてはいけません。
自分の道筋をしっかり定めましょう。 

「自分はこういう人生を生きたいんだ!」と天に向かって宣言してください。

そうすれば、「なまぬる」のブログを見て時間をつぶすのがよいか、他に価値のあることを見いだすか、わかると思います。

それでも何か訴えたいことがあるなら、こんなブログのコメント欄ではなく、ご自分のブログを開設してはいかがでしょうか。
gooブログを今すぐ無料ではじめよう!

「神の組織を称えるブログ」「組織を批判する人を批判するブログ」など…
自分のブログなら思う存分発信できるはずです。

ブログを開設する程のことでもないと思うのであれば、それ程のものではないということです。

統治体の成員のために毎日祈りましょう

2010年03月07日 01時19分20秒 | 一般記事
現代の統治体は長年にわたり、書籍・小冊子・パンフレットなどを洪水のように生産してこられました。

私たちエホバの証人は、神の組織の一員としてそのような備えから個人的に益を得ています。

このことは、神の取り決めに協力するという私たちの決意を強めるはずです。

私たちが統治体と協力していることを表す一つの方法は、毎日の祈りの中でこれら特別な任命を受けた人々のことを思い出すことです。

ですから、災害に遭った人を祈ることも大事ですが、毎日統治体の成員のことを祈りに含めましょう。

エホバ神と主人であるイエス・キリストが、統治体を通して神の民に対する支えを表明しておられるのです。

これは何とすばらしいことでしょう。

信仰において堅くされるために必要なものを、忠実で思慮深い奴隷とその統治体が今後も供給してくださることを確信できます。

私たちは、統治体に協力する者として『地がエホバの知識で満ちる』時に向かって前進して行きたいものです。
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思ってもみないことを書くからぎこちなくなっちゃった。

ちなみに、ものみの塔 1990年3月15日号15ページ「今日の統治体と協力する」と「わたしたちの王国宣教」2010年4月号 3ページを一部引用しています。

90年の ものみの塔はあまりにも理解不能な内容なので、WTLを持っている人はぜひ一度読んでみてください。
祈りの件は18節に書いてあります。ちなみにその節の質問は「わたしたちが統治体と協力していることを表わせる一つの方法は何ですか」です。


この記事が討議されたときは小学生でしたが、理解できなかったのか雑誌にほとんど線は引いてありませんでした。
今読んでも違う意味で理解できませんけど。

賛美の歌が変わってから2ヶ月が過ぎました。

2010年03月05日 22時23分23秒 | 一般記事
王国の歌(賛美の歌)が 1984年発行「エホバに向かって賛美を歌う」から2009年発行の「エホバに歌う」に切り替わってから2ヶ月ほど経過しました。

この歌は 2009年の地域大会で発表されたわけですが、新しい歌に変える理由として「歌いにくい音程がある、今ではあまり使われない表現が歌詞にある、今の理解と合わない歌詞がある」のような内容がアナウンスされていました。

この教理云々の件ですが、聖書に書いてあることをそのまま歌詞にすればいいものを、エホバの証人の教理を歌うからすぐに変更する必要が出てくるんじゃないかとその場で思いました。

で、実際に本を手にして見ると、ずいぶん「詩的な表現」はなくなったなぁと感じました。

「~しよう」「~です」「~します」 …なんだかしっくり来ないんですよね。

それに歌詞は「エホバ神に賛美をささげる」というよりも、メロディーに乗せて教理を歌う「エホバの証人のテーマソング」になってしまった感があります。

84番の「わたしはそう望みます」では「神の良い備え 思慮深い奴隷 彼ら助け支えよう」なんて歌詞がありますが、統治体を賛美してほしいのでしょうか。


1984年の変更でもあったことですが、同じメロディーで歌詞だけ変わっているというのもなんだか妙な気がします。

「世」の昔の名曲を聴くと、ふと口ずさむ歌詞があるじゃないですか。曲と歌詞はそれほど密着しているものなのに、賛美の歌では「現代語にする」とか「聖書の理解が変わった」という理由で歌詞が変わってしまうのは悲しいと思います。

前回の 225曲のうち 93曲が残り、新作の 42曲を加えた 135曲になったわけですが、歌詞を変えるくらいならいっそのことすべて新曲にした方が良かったのではないかと思います。


一部の曲は一部分だけ音程やメロディーが変えられています。
例えば、64番「真理に生きなさい」(旧 191番「真理を自分自身のものとしなさい」)はサビ(?)の前が音程を下げた状態となっています。
(音楽の知識がないのでうまく説明できてないです)

62番「わたしたちはだれのものですか」(旧 207番「わたしたちはだれのものか」)は一部のメロディーが差し替えられています。

また、97番「王国の奉仕者たちよ,進め!」(旧 43番)は途中の数節が別のメロディーに差し替えられていて、まるで芸人こまつのパフォーマンスみたいになっています。

こういった改変もあるので、集会で賛美の歌を歌うとき、1番目は様子を見て小声で歌っている人も結構いるようです。


そして、54番「信仰を持ちなさい」は前作の 144番「まことの信仰を持ちなさい」とそっくりなのに違う曲だという、なんともややこしや~なことになっています。

似ているといえば、111番「神は呼んでくださる」は なんとなくタイタニックのテーマ曲にどことなく似ていると思います。


賛美の歌の変更という新しい取り決めで、熱心な人はあらかじめダウンロードして予習&練習し、集会で得意げに歌っていますけど、僕にはそんな気力はないです。
前の賛美の歌もあまり好きではなかったですし。

なお、前作と新作の一覧表はオフィス・ヤハのトホホな日々の「エホバに歌う」を参考にしてください。

チリで被災したエホバの証人のために祈りましょう

2010年03月01日 01時14分10秒 | 一般記事
現在、南米チリを襲った大地震がニュースになっていますが、日曜日の集会ではこんな注解がありました。

「年鑑によるとチリにも7万人ほどのエホバの証人がおり、今回も被災している兄弟姉妹がたくさんいると思います。そのような兄弟姉妹のために祈りたいと思います。」

また、司会者は「仲間の信者のために祈ることは重要」などと言っていました。

被災した人たちを思う気持ちは大切ですが、エホバの証人はそこにいるエホバの証人が被災したかどうかしか気に留めませんよね。

「被災したすべての人たちが一刻も早く救出されますように」と祈ればいいのに、そのような祈りを聞いたことはほとんどありません。

その根底には、「自分たちさえ救われれば良い」という考えがあるのでしょうか。

災害というのは本当に悲惨なことなのに、「今が終わりの日である証拠だ」なんて喜んだり、災害を話のきっかけにすればもっと雑誌が配布できるなんて会話していたりします。

こういうのを見聞きすると、なんだか感覚がずれてるんだよなぁと思います。


感覚がずれているといえば少し前、仲間を気づかうという内容の研究記事でこんな注解がありました。

「○○地震で仲間のエホバの証人が住んでいる場所が被災したことを知りました。そこで、すぐに電話をかけましたがなかなかつながらず、やっとつながり無事であることを確認できました。これからも仲間のことを気にかけたいと思います。」

これを聞いて、親族でもない者がつながりにくい状況で電話をかけることが本当に気遣いになるのだろうかと思いました。

というのも、実家もある災害で被災し、家が一部損傷しました。
すぐに家族で復旧し始めたのですが、電話がひっきりなしにかかり、応対していたら作業に支障があるので電話線を抜き携帯電話の電源も切っておいたということがありました。

災害が起きると、このようなどうでもいい電話が増え、本当に救助が必要な電話がつながらないという話を聞きます。

地域大会などで急病の人が出たら個々の人が救急車を呼ぶのではなく、救護部門が呼ぶという取り決めがあるように、被災の場合でも一斉に電話をかけるようなことがないように指導して欲しいと思います。