日本書紀 巻第十 譽田天皇 十二
・縫工女を求める
・天皇の問いかけ
・立太子
・天皇の崩御
・間に合わなかった縫工女
三十七年春二月一日、
阿知使主(あちのおみ)、
都加使主(つかのおみ)を
呉(くれ)に遣わして、
縫工女(きぬぬいめ)を求めさせました。
この時、
阿知使主らは高麗国に渡り、
呉に達しようと欲(おも)いました。
それで高麗に至りましたが、
さらに道路を知りませんでした。
道を知る者を高麗に乞いました。
高麗王は、
久禮波(くれは)・久禮志(くれし)
の二人を副(そ)えて、
導者(しるべ)としました。
おかげで、
呉に通(いた)ることができました。
呉王は、
工女の兄媛、弟媛、
呉織(くれはとり)、穴織(あなはとり)
の四の婦女を与えました。
三十九年、春二月、
百済の直支王(トキオウ)が、
その妹の新斉都媛(シセツヒメ)を遣わして、
仕えさせました。
新斉都媛は七の婦女を率いて、
来帰(まうけ)しました。
四十年春正月八日、
天皇は大山守命(おおやまもりのみこと)、
大鷦鷯尊(おおさざきのみこと)を召しだして、
問うて、
「汝たちは、子が愛しいか」
といいました。
答えて、
「たいそう愛しいです」
といいました。
また問うて、
「長と少とでは、どちらが愛おしいか」
といいました。
大山守命が答えて、
「長子におよぶものはございません」
といいました。
このとき、
天皇に不悦の色がありました。
時に、
大鷦鷯尊は、
あらかじめ天皇の色を察し、
答えて、
「長者は多くの寒暑(とし)を経て、
すでに成人となっています。
さらに不安はありません。
ただ、少の子は、
まだその人となりが出来ておらず、
少の子は心配で愛おしいです」
といいました。
天皇は大いによろこび、
「汝の言うところは、
まことに朕の心に合っている」
といいました。
この時、
天皇は常に菟道稚郎子を太子に
立てようとの情(おもい)がありました。
それで二皇子の意向を
知りたいと欲(おも)い、
この問いを発したのです。
こういうわけで、
大山守命の対言をよろこばなかったのです。
二十四日、
菟道稚郎子を立てて、
嗣(ひつぎ)としました。
同日、
大山守命に任して山川林野を
掌(つかさど)らせました。
大鷦鷯尊には、
太子の輔(たすけ)として、
国事(くにこと)を執行させました。
四十一年春二月十五日、
天皇は、
明宮(あきらのみや)で崩御しました。
時年は百十歳。
(一書はいう、大隅宮で崩じた、と。)
この月、
阿知使主らが呉から筑紫に到着しました。
この時、
胸形大神(むなかた)が、
工女らを乞いました。
それで、
兄媛を胸形大神に奉りました。
これが、今も筑紫国にある、
御使君(みつかい)の祖です。
こうして三婦女を率(つ)れて、
津国に至って、
武庫に入ったとき、
天皇が崩御しました。
まにあわなかったのです。
そこで大鷦鷯尊に、
献しました。
この女人らの後が、
今の呉衣縫(くれのきぬぬい)、
蚊屋衣縫(かやのきぬぬい)です。
感想
37年春2月1日、
阿知使主、都加使主を呉に遣わして、
縫工女を求めさせました。
この時、
阿知使主らは高麗国に渡り、
呉に行こうと思いました。
そこで、
高麗に行きました。
しかし、
そこからさらに
呉へ行く道を知りませんでした。
そこで、
道を知る者を高麗に乞いました。
高麗王は、
久礼波、久礼志の二人を副えて、
道案内としました。
おかげで、
呉に到達することができました。
呉王は、
工女の兄媛、弟媛、呉織、穴織
の四人の婦女を与えました。
39年春2月、
百済の直支王が、
その妹の新斉都媛を派遣して、
天皇に仕えさせました。
新斉都媛は七人の婦女を率いて、
来帰しました。
40年春1月8日、
天皇は、
大山守命と大鷦鷯尊を呼びだして問いました。
「汝たちは、子が愛しいか?」
「たいそう愛しいです」
と答えました。
また問いて、
「年長の子と年少の子とでは、
どちらが愛おしいか?」
といいました。
大山守命が答えて、
「長子におよぶものはございません」
といいました。
この時、
天皇に不悦の色がありました。
大鷦鷯尊は、
あらかじめ天皇の顔色を察し答えて、
「年長者は多くの年を経て、
すでに成人となっています。
さらに不安はありません。
ただ、
年少の子はまだその人となりが
出来ておらず、
年少の子は心配で愛おしいです」
といいました。
天皇は大いによろこび、
「汝の言うところは、
まことに朕の心に合っている」
といいました。
この時、
天皇は常に菟道稚郎子を
太子に立てようとの思いがありました。
それで二皇子の意向を知りたいと思い、
この問いを発したのです。
こういうわけで、
大山守命の対言をよろこばなかったのです。
24日、
菟道稚郎子を立てて、
太子としました。
同日、
大山守命に任命して山川林野を司らせました。
大鷦鷯尊には、
太子の助けとして、
国事を治めさせました。
41年春2月15日、
天皇は、明宮(あきらのみや)で崩御しました。
時年は百十歳。
(一書はいう、大隅宮で崩じた、と。)
この月、
阿知使主らが呉から筑紫に到着しました。
この時、
胸形大神が工女らを乞いました。
それで、
兄媛を胸形大神に奉りました。
これが、
今も筑紫国にある御使君の祖です。
こうして三婦女を連れて、
摂津国に至って、
武庫に入ったとき、
天皇が崩御しました。
まにあわなかったのです。
そこで大鷦鷯尊に献上しました。
この女人らの後裔が、
今の呉衣縫、蚊屋衣縫です。
日本書紀を読み始めて、
一年と4ヶ月経ちました。
やっと、
巻第十 終了です。
(やっと三分の一)
この調子で読んでいったら、
読み終えるのは…。
先は長い。
これからも頑張ります。
読んで頂き
ありがとうございました。
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