幼い頃母から聞いた話では、昔ある役人があるカトリック信者に、「目の前にあるこの十字架の上を飛び越えよ、そうしたら許す」と言ったそうです。しかしそのカトリック信者はそれを拒否して、むしろその前で跪いて静かに祈ったそうです。するとその首はその場で切られて転がって行きました。
その殉教者は私の母方の先祖様だそうです。この方(彼女)はこの世より天国を選びました。私たちカトリック信者は最終的には天国に行くことを望んでいます。それよりも行かなくてはなりません。カトリック信者のみならず全ての人間は、天国に行かなくてはなりません。そのように主はお望みです。しかし人間には自由意志があるのと、さらに始末が悪いのは原罪の結果罪に傾きやすく、非常に弱いため自由意志が、悪いほうに悪いほうに向かっていきます。神の恩寵が無ければ私たちはもっと無惨な状態なのです。
現代の日本では命を取られる程の殉教にはならないのですが、神への崇拝や崇敬を表さないように、仕向けられることがあります。むしろその行為を禁止さえするようです。以前私はミサ中に跪いて主に祈っていたとき、教会の年配の(老人の方)男性に跪くことをしないように言われました。私はその人と口論になりたくないのと、祈りの途中でもあったので無視をしました。しかし、ミサ後また呼ばれて注意を受けましたが、口論になりたくないのでその場を静かに離れました。
残念なことです。教会内で主を私が教わった、太古の昔からある崇拝の形を禁止しようという動きがあることを知ったのです。それからしばらくして最近では公に禁止されるようになったようです(実際禁止はされていません)。
しかし私は先述の殉教者をいつも思い出します。十字架の前で跪いて殺された殉教者です。しかし私の前にあるのは、主御自身の御聖体です。私は殉教して殺されるわけではありません。殴られたり拷問をされるわけでもありません。ですからたとえミサの間で跪いたとしてもそれは殉教者の跪きと比べても大したことではなく、主に対する忘恩を償うために私はあえて辱めをうけてもいいように現在でも跪いています。
その殉教者は私の母方の先祖様だそうです。この方(彼女)はこの世より天国を選びました。私たちカトリック信者は最終的には天国に行くことを望んでいます。それよりも行かなくてはなりません。カトリック信者のみならず全ての人間は、天国に行かなくてはなりません。そのように主はお望みです。しかし人間には自由意志があるのと、さらに始末が悪いのは原罪の結果罪に傾きやすく、非常に弱いため自由意志が、悪いほうに悪いほうに向かっていきます。神の恩寵が無ければ私たちはもっと無惨な状態なのです。
現代の日本では命を取られる程の殉教にはならないのですが、神への崇拝や崇敬を表さないように、仕向けられることがあります。むしろその行為を禁止さえするようです。以前私はミサ中に跪いて主に祈っていたとき、教会の年配の(老人の方)男性に跪くことをしないように言われました。私はその人と口論になりたくないのと、祈りの途中でもあったので無視をしました。しかし、ミサ後また呼ばれて注意を受けましたが、口論になりたくないのでその場を静かに離れました。
残念なことです。教会内で主を私が教わった、太古の昔からある崇拝の形を禁止しようという動きがあることを知ったのです。それからしばらくして最近では公に禁止されるようになったようです(実際禁止はされていません)。
しかし私は先述の殉教者をいつも思い出します。十字架の前で跪いて殺された殉教者です。しかし私の前にあるのは、主御自身の御聖体です。私は殉教して殺されるわけではありません。殴られたり拷問をされるわけでもありません。ですからたとえミサの間で跪いたとしてもそれは殉教者の跪きと比べても大したことではなく、主に対する忘恩を償うために私はあえて辱めをうけてもいいように現在でも跪いています。