一カトリック信者(ジュゼッペ)の日々想い

聖ヨゼフを愛する一カトリック信者の日々を綴ったブログです。

祈りの人

2016-10-13 07:31:54 | カトリック
ロザリオの月も半分を経過しようとしています。ロザリオで思い出すことが私にはあります。
学生時代私は新しくなった調布のサレジオ会を訪れたことがありました。
その時一人の老司祭が歩いていました。彼の出で立ちは、まさに真の司祭でした。私はすぐに釘付けになりました。話しかけることさえ憚りました。
私の小学の低学年からの夢は神父になることでした。母がいつも私を司祭になるようにすすめていたこともあったのでしょう。小学校の文集では、毎年必ず将来の夢については「司祭になりたい」事を書いていました。実際は私には召命はありませんでしたが、その時まさにそのような司祭になりたい人物が私の前を歩いていたのです。
私は神父様の後をついていって観察をしました。彼の手には古い木のロザリオを持っておられます。祈られていたのです。その人はまさに祈りの人でした。神父様は部屋に戻られました。
そしてサレジオ会の志願生の一人と司祭館に入りその司祭のもとに案内してくれました。志願生が言うには、神父様はいつも祈っているので誰も話しかけないし、部屋に行くことが出来ないと言いました。それでも私は会いたくなりました。
そして部屋をノックすると、少し間を置いて「どうぞ」と聞こえました。中に入ると案の定ロザリオの途中でした。私は何を話していいか分からず、年を聞きました。耳の聞こえが悪いと言うことで少し大きな声で会話をしました。私が「神父様はとても長生きですね!」というと神父様は片手でロザリオを見せて「もっともっと長生きしたいです!そうすれば神様のことたくさんたくさん考えられるし祈りもたくさんたくさんできるからです!」となまった日本語で返されました。彼の名前はダルクマン神父です。当時彼はサレジオ会員の告解師で私はここにいれば毎日告解が出来るのかとそれはそれは素晴らしく羨ましく思いました。
そして列福されたばかりのピオ神父の御絵を祝別して頂いて名残惜しく部屋を出ました。
 祈りは、カトリック信者の中心です。祈らない人は高慢な人だとある神父様が仰っていました。なぜならば自分の弱さ、非力さを知ってるからこそ祈れるからです。自分で解決できると思う間は祈りすら忘れてしまいます。祈る必要を感じないこともあるのでしょう。お願いだけが祈りではありません。色々な形があります。自分のために、誰かのために、感謝の祈り。このように祈りが生活の一部となれば祈らないことは無いのでしょう。祈りは特別なことではないからです。ダルクマン神父様のように、祈りはご飯を食べたり寝たりと同じように本当に生活の一部でなければいけないと思いました。それももっとも大切な生活の一部です。
ですから聖パウロの言葉のように『常に感謝して、常に祈りなさい』を実行しなければいけません。
私達の体は祈りのためにあると言っても過言ではありません。
しかし直接私達の祈りは創造主に届くのでしょうか。おそらくそれは難しいので、聖母を通して祈るようにしましょう。