今から20年程前の時、母から古いミサの話を聞いたことがありました。
私の父が高校時代、母が中学生になる前にミサが変わったという。古いミサと現代の新しいミサという概念は私も小さい頃聞いた覚えはありましたが、特段関心も無かったのか母から昔の話を聞くまではそんなには意識をしていませんでした。
信仰の話や超自然の話は母がよく言い聞かせてくれていたので、ミサのその話は私に強くインパクトを与えました。
内容といえば、昔はラテン語で司祭が唱えていたということ、司祭が祭壇(御聖櫃)に向かってミサを捧げていたのでまるで、司祭が天使のよう(翼が背中からでてくるよう見えたという例えかもしれません)に見えたことなどを話してくれました。
丁度その頃読んでいたある文献の中で、聖ピオ神父様も認めるイタリアのエクソシストであるカンディド神父が、晩年(1990年代)山の上の修道院で昔ながらの東を向いたラテン語のミサを一人で捧げていたのを見た人がいた、という箇所を見て、現代でもその古いミサが行われているということが分かったのです。
母にもう少しその事を聞くと、新しいミサは古いミサとは全然違う。古いミサは信者を高見まで登らされるというのです。そして最後になぜ廃止されたのかは、自分には分からないしある日突然変わった。そして周りの大多数の人は残念がってたの覚えている。昔は良かったなぁ、と言いました。
続く
私の父が高校時代、母が中学生になる前にミサが変わったという。古いミサと現代の新しいミサという概念は私も小さい頃聞いた覚えはありましたが、特段関心も無かったのか母から昔の話を聞くまではそんなには意識をしていませんでした。
信仰の話や超自然の話は母がよく言い聞かせてくれていたので、ミサのその話は私に強くインパクトを与えました。
内容といえば、昔はラテン語で司祭が唱えていたということ、司祭が祭壇(御聖櫃)に向かってミサを捧げていたのでまるで、司祭が天使のよう(翼が背中からでてくるよう見えたという例えかもしれません)に見えたことなどを話してくれました。
丁度その頃読んでいたある文献の中で、聖ピオ神父様も認めるイタリアのエクソシストであるカンディド神父が、晩年(1990年代)山の上の修道院で昔ながらの東を向いたラテン語のミサを一人で捧げていたのを見た人がいた、という箇所を見て、現代でもその古いミサが行われているということが分かったのです。
母にもう少しその事を聞くと、新しいミサは古いミサとは全然違う。古いミサは信者を高見まで登らされるというのです。そして最後になぜ廃止されたのかは、自分には分からないしある日突然変わった。そして周りの大多数の人は残念がってたの覚えている。昔は良かったなぁ、と言いました。
続く