① 鷹が、八幡の化身であること
② 祟峻天皇の御代に鷹がタタリ神であること
③ 宇佐神宮と関係が深そうなこと
伝承②--辛嶋家主解状(弘仁5年-814-2月23日)--辛嶋氏系
「一曰、大御神は欽明天皇の御世、宇佐郡辛国宇豆高嶋(カラクニ ウズ タカシマ)に天降り、続いて大和国膽吹嶺(イブキ)・紀伊国名草海島・吉備宮神島に移り、そこから豊前国宇佐郡馬城嶺(御許山)に始めて顕現された。
その後、比志方荒城磯辺(ヒシカタ アラキ イソベ、現乙咩社)に移られた。この時辛嶋氏の祖・辛嶋勝乙目(カラシマスグリ オトメ)が大御神の許に参向し、跪いてその命を待った。
一曰、次いで郡の西北角の磯辺(現泉社)の地へ移られ、泉水を掘って口手足を洗われた。その時、豊前国特坐神(モトヨリイマスカミ)崇志津比咩神(タカシツヒメカミ)がこの地の泉水で造った酒を奉った。これにより酒井泉社という。
これより郡の東北角の宇佐河渡社(現郡瀬社)に移られ、更に鷹居社に移られた。この時、大御神は鷹と化して御心が荒々しくなられ、五人行けば三人を殺し、十人行けば五人を殺し給うた。そこで辛嶋勝乙目が、崇峻天皇の治世3年(590)から3年間祈祷したところ御心が和まれたので、そこに宮柱を建てて奉斎した。因って鷹居社と名づけ、乙目を祝と為し、辛嶋勝意布女(イフメ)を禰宜(ネギ、通常は神主の下位、祝より上位の神官だが、宇佐では祝が上位という)と為した。以下略。
伝承①は、大御神が応神天皇であることを明記し、それが欽明天皇の御世に御許山に顕現した。それを大神比義が鷹居社に祀り、後に現在地へ遷した、と簡潔に記すもので、
それに対して伝承②は、大御神の辛国宇豆高嶋への天降りから顕座の経緯およびそこでの事蹟を詳細且つ具体的に書いているが、大御神が応神天皇とは記さず、また大神氏も登場しない。
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辛嶋勝乙目が、崇峻天皇の治世3年(590)から3年間祈祷したところ御心が和まれた
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鷹の羽紋は、秀吉の朝鮮出兵で多くの武将が北九州に集まったときを境に東進が加速したようで、
それまでは北九州一円の武将の多くが「阿蘇神社」の神紋であった
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富山の 立山開山縁起 にみられるように古代、タカは猛々しい果敢な性格から霊界と現世をつなぐ霊媒者とみなしたことと、高い木に巣作りする習性から高い木に宿る神の化身とみなして信仰の対象となった。
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ある時、ラーが自分を崇めない人間に復讐して殺戮させるためにセクメトを地上に送ったが、オシリスらの意見を聞いて後悔する。そこでラーに、血に似せて造らせた赤いビール(ただの酒とも)で彼女を酔わせ、殺戮を止めさせたという神話で知られている。この時からエジプトの砂漠が赤く染まったと言われる。
また、セクメトは伝染病などを司り、人間を殺してしまう病の風を吐く女神とされた。そのため、この女神を鎮められるセクメトの神官たちは、伝染病を鎮める特殊な医師や呪術師とされた。
ラーの片目(右目とも左目とも)から生まれ、ライオンの頭を持つ。頭頂に赤い円盤を載せており真昼の太陽の灼熱を表現している。破壊神にして復讐者であり、王の守護神とされる。
夫プタハ、息子ネフェルトゥムと共にメンフィス三柱神を構成する。
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初期のホルスは太陽と月を両目に持つ天空神とされており、彼は原住民の神と習合されてハロエリス(Haroeris、「大ホルス」の意)または、ハルウェルという名の光の神となった。ハロエリスは、天空に浮かぶ月の神でもあり眼病を癒す神として眼病患者の信仰を集めた。またハロエリスは、エジプトの北と南の両方にある聖域を定期的に往復するとされた。彼はハトホルの息子とされた[3]。
ホルスを崇拝する人々が上エジプトのベフデト(Behdet)にまで広がるとホルスは、ホルス・ベフデティ(Horus-Behdeti、「エドフのホルス」の意)と呼ばれ、ラーの息子とされ、オシリスの敵たるセトを倒す神とされた。主に国家の守護神、外敵と戦う神として信仰される。その姿は、隼の頭をもつ人間あるいは、隼の頭を着けた杖を携えた鷹の頭をもつ人間として表現された
ホルアクティ(Harakhte、「地平線のホルス」の意)の名では、ケプリとアトゥムの性質を帯び、隼の頭をもつ人間の姿で表現され、光の神として毎日東から西へと地平を渡り、太陽神ラーと同一視された。
ハルマキス(Hor-em-akhet、「地平線におけるホルス」の意)の名では、スフィンクスの姿で主に表現された。日の出の太陽とみなされ、復活を象徴する者となり、ケプリとも関連づけられた。また彼は、多くの知恵を備えた者とされた。
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ハルポクラテスに授乳するイシスへの崇拝が、初期のキリスト教徒が聖母子を熱烈に信仰する一因であったと考える人もいる。ハルポクラテスは、また母神イシスの膝に乗った幼児(ホルサイセ・ハルポクラテス)として表現されることもあった。
宿敵セトと戦い、勝利したホルスはホルス・ベフデティと呼ばれ、ラーが各神殿に翼のある太陽円盤を置かせたことからホルス・ベフデティは、その太陽円盤の姿で表現されることになり、さらに戦場のファラオの戦車の上を飛ぶ、王権の殻竿などをもつ隼としても表現された。ここに至ってホルスとラーは同一視され]、習合したラー・ホルアクティ(Ra-Harakhte、「地上のホルスたるラー」の意)となった。
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ハトホル信仰は中心地デンデラの他に、サイス、ヘルモポリス、ヘリオポリス、クサエ、ヘラクレオポリス、エスナを擁し、エジプト国外では、ヌビア、プント、シナイ半島にも及んだ。 時代が下り、ハトホル信仰は、イシスと共にローマ帝国にまで広がり[9]、ギリシアではアプロディーテーと同一視された[10]。
世界を生み出した天の牝牛、鉱山の守護神、ホルスのこの世の姿であるファラオに乳を与える牝牛、妊婦を守る女神などの多様な性格を持っていたハトホルは、オシリスとイシスの伝説の広まりに伴って、オシリス信仰が主流になると、死者を養う女神としての性格も持つようになった。 冥界へ行く者達にパンと水(もしくは乳)とイチジクから作られた食物を与える役割を持ち
父のオシリスはホルスが生まれる前に、弟である悪神セトのたくらみにより命を失いました。悪神セトの目を逃れるために、幼いホルスは母であるイシスとともにケミスの森に身を潜め、父の敵討ちの時を待つことになりました。
やがて成長したホルスは、父の敵討ちの戦闘を開始し、長い戦いの末にセトをうちほろぼし、主神の地位を勝ち取ったのです。
ちなみに歴代のエジプト王はこのホルスの子孫であると称して、現人神として君臨していました。
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真名野長者とは蘇我稲目のことだった! - ウガヤフキアエズ王朝実在論 (jimdofree.com)
『御伽草子』のなかに収蔵された『烏帽子折』には、「用命天皇と真名野長者の娘との間に生まれた子が聖徳太子である」と書かれています。
【原典】https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00013179/explanation/otogi_03
私はこのことが気になって仕方ないのです。
もしこの記述が本当ならば、
真名野長者とは、聖徳太子の祖父にあたる「蘇我稲目」のことになります!
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それで百済の王の臣の明(メイ)は謹んで陪臣(ハベルマヘツノキミ)の怒唎斯致契(ヌリシチケイ)を派遣して、帝国(ミカド)に伝え奉ろうと、畿内(ウチツクニ)に流通(アマネハサム)したのです。仏が『我が法は東に伝わるだろう』
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ただし、通説がその始祖を武内宿禰としていることは、蘇我氏が滅ぼされたあとに、何者かが強引に結びつけたものと考えられます。
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我ながら、嫌になるのは、
蘇我氏が滅ぼされたあとに、何者かが武内宿禰と強引に結びつけた
と、思うのだけど・・・
そうだと、言い切れる根拠をもってない。
で、こういう背のりみたいな事を繰り返してしまう。
まず、武内宿禰が、(と、思っているが)
気比神宮でおこなったことが、事実だと仮定すると
どうも、陰陽師かー饒速日神宝の駆使か
と、思えてくる。
と、すると、曽我氏ではないと思える。
のちの活躍でも、呪術を使ってる様子がないwww
祭祀にかかわっているように思えない。
すると、
陰陽師の登場はもうすこしあとだし・・・
物部氏・・・のほうが、饒速日神宝の駆使できるだろう。
だが、それをあえて、悟らせるような書き方もおかしい。
丁未の乱(ていびのらん)は、飛鳥時代に起きた内乱である。丁未の変、丁未の役、物部守屋の変ともいう。
仏教の礼拝を巡って大臣・蘇我馬子と対立した大連・物部守屋が戦い、物部氏が滅ぼされた。これから先、物部氏は衰退した。
これを逆に手繰ってみても、物部系呪術?を駆使する武内宿禰が蘇我氏の始祖になるとは考えられない。
と、なると、
武内宿禰という名前をかぶった「誰かが」いたとして・・・
この「ナをかえる」儀式のせいと思われる
16代応神天皇の童子・・の、亡霊?怨霊?が
宇佐八幡にでてくるのか?
むしろ、秦氏が、早いうちに渡来し
応神天皇の座をうばい・・・
自分たちの行った儀式を、武内宿禰ー蘇我氏にぬりかえたと考えたくなる。
で、
秦氏の信奉する神、ヤハウェ?の性格を考えたいところだが、
それよりも、その当時の古墳のことを思うと、
どうも、エジプト系ではないかと
秦ー始皇帝-秦王朝に、入り込んだ12支族?のうち、
エジプトで優遇されたものもいただろうし
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ソロモンは、父ダビデが築いた国を継承し、その王国をより強大にするためにもっぱら努カした。
近隣王国と条約を交わし、政略結婚を重ねて自国を強国に育てあげた。
とりわけエジプトに対しては、終始礼を尽くし属国として振る舞い、ファラオの娘を娶ることで良好な関係を築いた。
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エジプト文化に染まったものもいたと思える。
これが、秦王朝に入り込んだのが
どの部族か判らないが
(それより以前に入り込んでいたかもしれない)
その中の1部族?
日本に秦氏として入ってきた。
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このせいか?
奇妙に、ユダヤ式とエジプト式と秦(中国)式と・・
が、入り混じっているように思える。
宇佐神社の鷹の話にしろ
残虐性?
古墳
どうも、秦氏が、話をすり替えっていったか?
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と、なると、
崇神天皇と秦氏の関連が気にもなる。
突如、
- 御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと) - 『日本書紀」
と、成っていて・・・
稚日本根子彦大日日天皇(開化天皇)の第二皇子。母は伊香色謎命(いかがしこめのみこと)で
後の物部氏の系譜に連なる。
異父兄に彦太忍信命(磐之媛の祖)。異母弟に彦坐王(神功皇后の祖)。19歳で皇太子となる。
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武内宿禰が、むしろ、物部系譜と思えるところがあるわけだけど・・・
気比神宮・宇佐八幡の饒速日説を考えると
突如、それを打ち消すがごとくの
秦氏で、
このあたりで、なにかあったと思う。
政権交代?
実際のウガヤフキアエズ王朝滅亡ー征伐??
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前回の
饒速日=ほのあかり=天照=大物主
と、考えると
崇神天皇は 大物主= を判っていて
どうにか、ユダ信仰を建てていきたかった?
(むしろ、隠密にというべきか)
で、あるが、
秦氏は、おおぴらに、皇室の中にーヤハウェ?をとりこもうとした。
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何故、武内宿禰という「謎の人物」を送り込んだのか?
神功皇后も、武内宿禰が暗躍するがために
配置されたとも思えてくる。
真の目的は
応神天皇という名前の「天皇」を作り出すため?
息子の仁徳天皇のほうが、墓、大きいしwww
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