伊木城・北側・登り口
伊木山登り口 登り口説明板
説明板 登り口
登り口 説明板
*伊木山城跡!
住所=岐阜県各務原市鵜沼1492-1
木曽川の北岸に横たわる「伊木山」は、別名「夕暮れ富士」とも呼ばれ、
川面に映える美しい山容で有名です。
山頂(標高173m)からは木曽川を眼下に濃尾平野を一望し、
西方は岐阜城を遠望する戦略的に重要な地でもあります。
この伊木山には、戦国時代の永禄八年(1565)、
「織田信長」が美濃攻めの際に城を築いたとも言われていますが、
江戸時代に書かれた「美濃雑事記」には、「伊木長門守正久」が、
天正年間(1573~1591)に居城していたとされ、あるいはまた、
濃陽志略」という書物では、「池田信輝」の家臣「伊木清兵衛(正久の子)が、
城を築いたと記されています。
こうした伝承・記録から、築城や廃城の時期は不明ですが、
伊木城は江戸時代に「池田家の家老をつとめた「伊木氏」の、
伊木城あったことがわかります。
*伊木氏は、木曽川を基盤として活躍した一族で、
こうした豪族たちは「川並衆」と呼ばれていました。
木曽川の水運と多くの配下を掌握して勢力を振るった伊木氏は、
のちに「織田家」に属して各地に戦い、戦国時代を生き抜いて行きました。
現在、城跡と推定される遺構は明らかではありませんが、
かつて頂上には東西六間(約11m)南北四間三尺(約八m)の、
石垣台形(天守台)がありました。
*各務原市教育委員会 説明板より。
*伊木山城(伊木山ガーデンより遠望)!
*美濃伊木山城!
住所=岐阜県各務原市鵜沼丸子町3-15(各務原森の駅・伊木山ガーデン)
伊木山にあった「伊木山城「砦」も対岸の犬山城(国宝)と鵜沼城(城山)
とのつなぎの城として、重要な働きをもつていました。
永禄七年(1564)織田信長は、東美濃へ攻め込むための足掛かりとして、
この地に攻撃し、勇将・「大沢次郎左衛門(鵜沼城主)を中心とする
「斉藤(美濃戦国大名)方の抵抗にあい苦戦しました。
そこで「織田信長」は策略家であった家臣「木下藤吉郎・(後の豊臣秀吉)」に、
鵜沼城と、伊木山城(城主・伊木清兵衛」の攻略を命じました。
松倉(川島町)から「摩免戸・(前渡)」へ進軍した「木下勢」は、
摩免戸(前戸)で二手に分かれ、一隊の「蜂須賀隊」は木曽川ぞいを
通って伊木城へ向かいました。
この隊の「蜂須賀小六」は「伊木清兵衛」と親しい間柄であっため、
木下藤吉郎の書状を見せて、本意を伝えることで、戦わずに伊木勢を木下勢に、
引き込むことに成功しました。摩免戸(前戸)から内陸道を通って進軍していた木下隊は、
幅上(鵜沼羽場町)で、この知らせを受けたとされています。
その後、勢力の衰えた大沢勢は木下勢に攻め落とされました。
この地域を制した「織田信長」は、伊木山山頂(173m)を、
美濃や尾張地域の見張り場としていた。