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不屈大国

2013-08-14 01:01:02 | 日記

夏の厳しさにも負けず不屈に歩けるのは、雪の日々への想いでしょうか?



奈良時代に来日した中国人僧(日本の律宗の開祖)鑑真の話は日本でも有名です。P

 飛鳥時代、日本に朝鮮半島・百済を通して最初に仏教が伝えられましたが、日本の覇権が朝鮮半島から追われた後、日本は仏教を中国から学ぶことになりました。

 聖徳太子から奈良時代の各天皇まで、日本では仏教を国の宗教として奨励し統治行政の基盤づくりに仏教を取り入れました。聖武天皇の時代には、日本各地に国分寺が建立され、奈良には大仏が建立され、日本は遣唐使をさかんに派遣して、唐に仏教留学生を送り込み仏教教義を日本に取り入れていきました。また、当初は文字文化のなかった日本が漢字を日本の文字として採用して普及して行く過程でもあり、漢字の漢音読みについては、当時の遣唐使や留学僧が学んだ読み方が始まりと言われています。

 当時の日本は唐の『授戒』の仏法儀式を本格導入しようと画策しますが、日本国内には正式な授戒の仏法を知る者が誰もいなかったため、中国の「名僧を連れて来るべし」と朝廷は勅命を出し日本の興福寺から2名の僧侶、栄叡と普照が唐を訪れました。しかし、当時の唐は僧侶も含め唐国民の出国を一切禁じた時期にあたり、密出国の最高刑は死罪とされました。(『唐大和上東征伝』には「日本の君王、先に道士の法を崇めず」と記載されています。唐の玄宗皇帝は道教の道士と同行する条件での出国を認めますが(道教が唐の宗教と定められた時期でした)、日本の朝廷は道教を拒否します。

 しかし、異国の日本の僧から請われた、中国の僧侶・鑑真は唐の国法を破って死罪となることも覚悟の上で来日して仏法を伝えようと決意します。そしてそれは、密航の道でした。最初の密航・渡航から、不運が重なり、何度も何度も渡航は失敗します。

 その間、鑑真は病で失明しますが、絶望せずに生き抜き、再び渡航に挑戦します。鑑真には死罪を恐れなかった勇気だけでなく、失明しても、挫折しても、生き抜いて、初心を貫徹しようと挑戦し、懸命に生きようとした勇気があったようです。

 失敗しても、失敗しても、また渡航に挑戦しました。そして、それは、11年間にも渡る不屈の挑戦でした。6度目の蜜航でようやく悲願の来日が達成されましたが、もう66歳を越えた鑑真は失明のため、美しい日本の景色を見ることも、奈良の大仏を見ることもついに叶いませんでした。

 しかし、結果が人生の全てではありません。来日後、仏法を通して日本人の心に触れることが、鑑真にはできたようです。鑑真の不屈の精神はその後、多くの日本人に尊敬されただけでなく、その生き方は、日本人の心を捉え、大きな勇気さえ日本人に与えました。

 唐招提寺に残る(国宝唐招提寺)鑑真像は日本最古の肖像彫刻とされています。鑑真は仏教戒律の他、彫刻や薬草の造詣が深く、来日後、それらの知識も日本に伝えた他、悲田院(貧しい人や孤児を救うために作られた施設)を作り、死者を弔う仏法だけでなく、厳しい時代を生き抜いていた日本の貧民や孤児の救済に残りの人生を費やしました。

 
 
 
 中国外務省の洪磊報道官は、1978年に日中平和友好条約が締結され8月12日で35年になるのに合わせて談話を出しました。「歴史を『かがみ』として未来に向かうという精神に基づき、両国が直面する問題を適切に処理し、関係の回復と正常な発展を推し進めるべきだ」としています。

 中国国営新華社通信は8月12日の論評で、沖縄県・尖閣諸島の国有化を機に日中関係が「国交正常化以来、最低の谷に陥り、これは完全に日本の責任だ」と非難し、安倍晋三首相が就任して以降、関係悪化に向け「火に油を注いでいる」とも批判しています。


 8月15日の靖国参拝問題が日本では騒がれていますが、アジアにとっては、軍事加害者を英霊の神として祭るものですから、これを許すことは、日本軍国主義の被害に泣いた国々にとっては屈辱です。それは、日本に戦争侵略された国ばかりでなく植民地化された韓国にとっても同様です。しかも、強制徴兵された朝鮮半島出身者の日本軍人も中国(台湾)出身者の日本軍人も、確かにあなたの国では戦争加害者たる日本の英霊として屈辱的に祭られています。P


 靖国や護国神社は、戦死軍人を名誉ある「英霊」として、天皇(神)と同等に祭るものです。一方で大量の戦争被害者は弔いません。軍事のために戦争を遂行した軍人だけが英霊とされるのです。アメリカのアーリントンと同じく千鳥ケ淵戦没者墓地には、戦没者の遺骨が弔われていますが、靖国には遺骨さえなく、慰霊される側の意思さえも、そこにはないのです。実際、厳かなる伝統の靖国に行くと静かな気持ちになりますが、しかし、やはりそこにあるのは、旧日本軍が失ったプライドでしかないような気がします。靖国に祭られる特攻隊員も人間魚雷員もやはり米英と日本軍国主義の犠牲者です。しかし、当時、経済制裁に屈する苦渋の和平の道でなく、自暴自棄の短気と軍部のプライド維持の戦争の亡国の道に走り民衆の命を犠牲にした軍国主義精神は決して美化してはいけないと思います。
(ドイツの戦士追悼の墓:ノイエ・ヴァッヘは、靖国と同様に死没した日本軍兵士、米軍兵士、原爆等で死没した日本の一般戦災等、外国人の追悼もしていますが、靖国と決定的に違い、戦犯者は、「加害者」であるため追悼される「犠牲者」には含めていません。)


 また、8月15日を巡って靖国周辺街道では、右翼の街宣車が騒がしくなっている東京です。P

 靖国は、戦死をするための、精神救済では、イスラム自爆の発想に似ていると言う人もいます。多くの宗教は、死者を弔うだけでなく、今を生きる人々の未来を励ますものです。しかし、靖国は、軍事戦死者を弔い、国のために死のうという精神を美化します。生きることや未来への励ましなどはありません。日本民族が靖国を卒業するのはいつの日でしょうか?。かつて人間宣言をした昭和天皇はその後、A級戦犯合祀以降、靖国を確かに卒業しました。本当に靖国が日本の未来や中韓諸国と共存したいのなら、陛下の参拝を受け入れたいなら、靖国神社、自らが政治家の参拝を拒否し、昭和天皇と同様に人間(平和)宣言をするべきだと思います。

 日本では戦前、見事に戦死することが美化されました。そのために靖国や護国寺は軍国政策で作られました。その背景には、明治政府の天皇の神格化政策がありました。明治元年に神仏分離令の施行後、江戸時代まで日本民衆に広く普及していた仏教を弾圧し神道国教政策が政治的に進められました。明治政府の廃仏毀釈運動により仏像や仏画さえ破却・焼却され、日本で廃寺にされた寺院数は、江戸時代に存在した寺院のほぼ半数といわれています。

 富国強兵政策に伴い、神道国教化政策が推進され、その神道の軍人版として軍部官僚が作ったのが靖国・護国神社の前身でした。明治2年に東京招魂社(幕末に戦死した志士を祀った宗教団体)が建てられ、明治12年西南戦争(西隆盛率いる薩摩軍と明治政府軍との内戦)が終結して、官軍の戦死者を祀る際に「靖国」と改名されました。同年に陸軍卿・山県有朋の主張で戦争武器の博物館「遊就館」も靖国神社内に作られました。そして靖国は戦時中、戦死を美化するために利用されました。

 日本人の心の問題でも私人の問題でもありません。戦前の靖国思想においては、戦死者を美化することは当然のことでしたが、やはり、それは間違ったことでした。決して御国を守るための英雄的行為で戦死したのではありません。終戦間際は、多くは玉砕が美化され自決戦死させられたのです。そして、その最終決戦の自決行為は悲しい事実ですが、敵に恐怖や被害を与えただけで誰も守りませんでした。アメリカの正義は欺瞞でしたが日本の正義は詭弁であっただけでなく悲劇の玉砕への道でもありました。(今日の中国の正義の抗議の焼身自殺もアラーに捧げるイスラム自爆の正義も御国を救う英霊の名誉の日本軍の特攻隊も実は誰も救っていません。決して誇れるものだとは思いません。そして人道の見地から世界はそれをもたらす社会を非難する権利さえ有するのではないでしょうか。)

(当初は日本軍がアメリカ軍に対して優勢でしたが、早くも1942年6月のミッドウエイ海戦では日本のゼロ戦航空部隊が、アメリカの空母部隊に壊滅させられるに至り戦況は次第に逆転して行きます。(米艦隊にはレーダーがあり、日本空母にはないという技術面の大きな差もありました。)しかし、大本営は戦況事実を国民に知らせず偽りました。そのため日本は停戦の和解交渉の機会を失い、その後、国民総玉砕の自暴自棄の道を選んだとも言われます。1944年10月日本社会は、神風特攻隊として最初の自爆攻撃死で戦果をあげた青年達を神鷲として称えました。初陣を指揮した大西中将は「この危機を救いうるものは大臣でも大将でも軍令部総長でもない。それは若い君達のような純真で気力に満ちた人である。皆はもう、命を捨てた神であるから、何の欲望も無いであろう。・・」と無慈悲に自爆攻撃を提案します。爆弾を抱いてゼロ戦で自爆する作戦に集められた青年達は、全員がその場で賛同の挙手をあげました。

 この自爆攻撃を天皇は「誠に遺憾であるが、しかしながら、よくやった」と褒め称えました。天皇のお褒めがあって以降、日本軍は特攻自爆死を当然のこととして、これを恒常的な戦闘行為にしました。しかし、その犠牲になったのは、本来は未来ある16才から23才の軍事訓練中の青少年達でした。政治家も軍人官僚も殆ど自らは、自爆も自決も敗戦までは決してしませんでした。


 大西中将は特攻隊員への訓示で「・・勝算のないものであることは、開戦前から分かっていた・・」と冷静な理性を述べる一方で、1945年3月「多くの敵を殺せ」と戦闘激情を煽り、終戦の一ヶ月前「あと2千万人の特攻隊を出せば必ず勝てる」と狂気の感情発言でポツダム宣言受託の降伏に最後まで反対しました。しかし、8月の玉音放送の翌日には一転して部下の英霊とその遺族に謝び「世界人類の平和」の理性の遺書を書き自決しました。その戦闘と平和の言動は矛盾しており支離滅裂とまで非難する人もいます。しかし、それが戦前の日本人の殆どが染まった靖国の精神でした。降伏の自虐の平和を受け入れて生きることが日本人の恥として否定され、人間として生きることを否定され、英霊の神となるしかなかった矛盾だらけの大和魂が誇る死でもたらす平和でした。今日靖国に参拝する人々の精神も全く戦前と変わっていないと思います。)
 

 日本の戦後は生きることが美化されてもよい時代になりました。人間は戦死するために生まれてきたのではなく、当時の日本軍人も今日の自衛隊員さえも、死ぬために生きているのではありません。名誉の英霊になるより人間であり続けて欲しいと思います。
 
 今と未来を生きるために生まれてきて、平和に懸命に生きていることが、今日の私達日本人の誇りなのです。国のために死ぬことを称えるより、自分と他者を愛し生きる勇気が誇りとして称えられなければ、日本を愛することも守ることもできません。P
 
 「靖国の英霊となるために死ねる」と言う戦前の洗脳的思想を引きずることはもう拒否する不屈の勇気が今日の日本には必要です。
それは、アメリカの核の傘から抜ける勇気、アメリカの同盟を拒否する勇気、日本民族が自主独立する勇気、自立する勇気、謝罪する勇気、対話する勇気、加害者としての歴史を語れる勇気でもあるような気がします。

 今年4月23日の靖国の春の例大祭に国会議員168人が一斉参拝したのは異様でしたが、平成時代になってから最も多い人数で、去年の春の例大祭の2倍以上と言う異常さでした。これを、日本の右傾化と言わずして、なんと呼べばよいのでしょうか。たとえ国のためでも、たとえ天皇陛下のためでも、自殺は絶対美化されてはならず、戦争も玉砕も絶対美化されてはいけないはずです。しかし、未だに、それを美化する日本国民の代表者たる政治家は多く、今日、当然のことだと開き直ってこぞって一斉参拝も始めたのです。終戦の時代、おそらく世界の歴史上でも自殺大国世界一であった日本の不名誉な自決の伝統と靖国を誇りだと信じる日本の政治家達は、憂国者でも愛国者でもないと思います。

 

 

 

愛には真の勇気が必要と歌われますが・・今日では勇気を語ることさえ勇気のいる時代になりました。





 


 


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