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昨日7月28日の中国江蘇省の南通市の地元住民のデモは、尖閣諸島をめぐる日本の対応に重ね合わせ「反日デモ」として批判をエスカレートさせるようなネットの主張が相次ぎました。 日本の王子製紙の中国江蘇省の工場の排水計画をめぐり、環境汚染や健康被害の懸念があると主張する地元住民らが、排水管の建設中止などを求める抗議デモを、6月9日に行ったばかりでした。 南通市当局は王子製紙に協力して廃水を長江(揚子江)下流を通じて海へ流すために、全長110キロの排水管を建設中で、その排水量は別の工場などから出る分も合わせ、1日当たり60万トンに上る計画でした。しかし、南通市の海に面した啓東地域の市民は、廃水には、発がん性物質が含まれるので、生活基盤の漁場の海が汚染されるとして反対運動を始めました。 7月28日のデモに市民が参加しないよう、当局は事前に市民に規制を懸命に行い、当日のデモの報道さえ自粛している様子です。しかし、約1万人以上にも達し加熱した市民デモは、政府庁舎のガラスを割り乱入、路上の自動車をひっくり返す等、暴徒と化してしまいました。 地元当局は、排水管工事計画の撤回を発表しても暴動が続いたため、数千人の武装警察を投入しました。デモを取材していた日本の記者も、暴行を受けただけでなく、当局からカメラと記者証を取り上げられたそうです。
反日デモといえば、2010年よりも、2005年の悪夢の反日暴動が記憶に新しいところです。教科書問題や小泉首相の靖国神社参拝で国民感情が最悪化し、前年の2004年7月の重慶のサッカーのアジアカップ戦等が反日感情をあおりました。反日不買運動が開始され2005年3月下旬に日本の国連安保理常任理事国入り反対署名運動が開始されたところに、韓国における竹島問題の反日運動が中国の世論に悪影響もしました。今回も、昨今の尖閣問題で国民感情が悪化しており、ロンドンオリンピックで高ぶったナショナリズムや不満が、反日に向けられる可能性も、今年は当時と似ているため危惧されています。 2005年に中国全土で吹き荒れた反日暴動の直接のきっかけは、韓国でも中国でもなく、何故かアメリカのカリフォルニアの反日団体が煽動の発信源でした。アメリカの日本の常任理事国反対運動がアメリカ華僑を通じて中国社会に伝わって、中国政府も統制できない暴動に繋がったという人もいます。 2005年当時、日本では、中国の「官製デモか」「中国は民度が低い」「愛国教育の行きすぎか」「国内の不満が反日に向けられた」といった形式的理解の報道が多かったのですが、中国本土の実情と世界に広まった反日報道のスタンスは日本の国内報道とはかなり違いました。 沖縄県の沖縄タイムスでは、「沖縄を中国に返せ」と書かれたビラが中国で出たことまで報道して、沖縄では、アメリカの占領的政策と同盟する日本政府への批判とが、併せて報道されました。 イギリスのフィナンシャル・タイムズは中国の批判をする一方で「日本の戦争中の行為に中国が怒る理由は十分ある」と反日報道をしました。 ドイツのフランクフルター・アルゲマイネ―紙は「日本政府は何が原因でデモが起こったかを無視している」と核心的な批判を報道しました。 インドのヒンドゥ紙は、日本の歴史教科書(「侵略」の文字を消し、侵略行為を正当化するともとれる「進出」に変えました)に反発する中国各都市での反日主張を報道し「相互の信頼を強化し、日中関係の全般的利益を守るためにより一層行動すべき責任が日本にある」と冷静な主張でしたが反日の立場に支持をしました。 国連(ロバート・オア事務総長補)でさえ、「2国間で解決すべきだ」としつつも「日本が微妙な側面に対応するなら、この問題は解決に向かうかもしれない」と間接的ながら日本政府を批判し日本の対応を促します。 韓国では、当然のように中国と一緒になったような市民の感情的な高まりと同調する反応さえあり、暴動被害を受けている日本が一方的に非難されました。 そして、シンガポール政府さえも「日本の当局が、アジアにおける太平洋戦争の奇妙な解釈を承認した事は不幸だ」「(教科書問題が)日本と近隣国、特に中国や韓国との関係を緊張させた。これは地域全体の利益にはならない」とまで述べました。 その結果、日本の国連安保理常任理事国入りの議論は、アメリカの目論見どおり消え去りました・・・。
2005年4月週末に中国各地で反日デモは3週間も続きました。瀋陽、アモイ、広州、深曙V、珠海など全国約10 か所に拡大しました。日本での報道のように、中国当局が取り締まりを強化しただけで沈静化したわけではありませんでした。天安門事件と同様、当局は統制を失い、民衆デモは愛国無罪と主張し次第に暴徒化し、日本系スーパーや日本料理店などが破壊活動の対象になりました。上海では日本人留学生3名が暴行を受け重傷(内1人意識不明重体)となります。 香港紙サウスチャイナ・モーニング・ポストは、反日デモの北京・天安門広場でフィリピン人父娘が中国人の若者に襲われて死亡した事件は、日本人と間違われた襲撃だった可能性を報道しました。
結局、4月22 日に小泉首相がアジア・アフリカ会議首脳会議で「過去の反省とおわび」を表明。4月27日に実施された自民党外交調査会での王毅駐日大使の講演で靖国に関する日中間の紳士協定の存在が1986年から存在したこと等が報道されて、ようやく「五・四運動」記念日までに中国市民の反日デモは沈静化しました。 皮肉なことに先般失脚した、重慶の薄熙来は、当時中国当局の商務部長で「反日不買運動」は日中貿易を妨害しているとし、「日本製品のほとんどが中国から生産された商品であり、不買運動は中国にとって良いものではない」と記者会見で訴え、反日行動を痛烈に批判した数少ない親日で良識ある政治家の一人でした。 2005年