
我是朝鲜族、J
私達は、朝鮮族だと告げるときは、少し自慢げです。朝鮮族は教育レベルも高く、私は中国語もハングルも使えますから。つい自慢してしまいます。
そして、中国人だと告げるときは、とても誇らしい気持ちになります。中国には長い歴史とこれからの発展がありますから。J
あなた達には、誇りと夢がありますね。日本では、やはり特有の閉鎖性や偏見の影響でしょうか。今の日本の若者に欠けているのは、誇りと夢かもしれません。でも、日本の最近の若者は本当の歴史を知りませんし、面倒なことや自分の利益にならないことを学ぼうともしません。P
自分が何者であるのか、どこから来て、どこに行こうとしているのか。過去、現在、未来の自分と、自分の民族のルーツを学ぶことで、どんな屈辱の歴史も誇りに変えることが可能であり、それは、生きる力になると歴史の先生から教わりました。J
北朝鮮の拉致問題などで日本の朝鮮出身者は肩身がせまいのでしょうかJ。よく理解できません。でも、政治の犯罪と民衆の生活は別ものだと思います。日本でも朝鮮出身者は隠すのではなく、自分達のすばらしい民族性やルーツをもっともっと誇って欲しいと思います。日本鬼子の戦争犯罪には今でも一部の年寄りは実際恐怖に震えてしまいますが、それと日本人文化の人気は全く別もので、中国では、親日、愛日、哈日とか、台湾や東北でも実は昔からとても人気があります。朝鮮族の学生の選択する第1外国語は日本語が多いのです。J
1850年頃から豆満江川を越境して清国に朝鮮半島から朝鮮族は移民しました。北朝鮮と中国の国境は、西部が鴨緑江、北東部が豆満江という二つの川で隔てていますが、豆満江の一部は川幅が狭く冬は凍結するので歩いても渡れます。でも、越境が見つかれば、即座に首をはねられたそうです。1860年から1870年頃に干ばつで餓死者も出た朝鮮半島では、豆満江を渡ることが唯一の生きる道とまでいわれた時代があったそうです。でも、首をはねられて死ぬことも恐れず、生きる希望と誇りと勇気を持って新しい地を目指しました。
移住が成功し始める頃、1885年に、清国は越境禁止政策を全廃し朝鮮族移民者による開墾を奨励しました。しかし、移住した朝鮮族は清国社会の中では、最低階層の奴隷状態に属し、とても冷遇されました。
1875年江華島出兵で朝鮮を開国し「日朝修好条規」を朝鮮に押しつけた日本は1894年に、朝鮮に出兵して、清国と朝鮮半島における朝鮮半島での覇権を争い、清国に勝利した日本は遼東半島まで一時占領し、1895年には台湾を植民地にしました(日清開戦を主導した外務大臣陸奥宗光は「日清両国の朝鮮における権力競争」と日清戦争を位置づけて回想しています『蹇蹇録』)。日清戦争を期にして、朝鮮は清国に対する貢・献上・典礼等を廃止し、1897年には国号を「大韓帝国」と改めました。大韓帝国ではソウルにあった清国の皇帝使者を迎える「迎恩門」は破壊されて180度評価が代わった「独立門」として再建築されました。
瀋陽の西塔地域も1900年代初めに(1643年清国時代に瀋陽には東西南北にそれぞれ4つの塔が建てられますが、その西塔のある場所です。1900年頃は未開墾地域で、当時は墓が多かった場所と言われています)朝鮮族の入植が始まっています。そして1913年には朝鮮族のキリスト教会も建てられるまでに栄えました。(瀋陽は清王朝が生まれた後金の首都(盛京)で清国時代も副都として栄え清王朝離宮とされた瀋陽故宮が有名ですが、瀋陽西塔地区も、ロサンゼルスの朝鮮街に次ぐ世界第二のコリアタウンとして発展しています。是非観光の際に寄ってみてください。)
清国内においても、独立意識の高まった朝鮮族は1903年に、朝鮮族が開墾して耕作した土地は、清国のものではなく朝鮮族のものだと主張しました。間島(中国吉林省延辺朝鮮族自治州)という場所です。間島を巡って清国と朝鮮族に争いが生じました。当時、日露戦争に1905年に勝利していた日本は、清国とロシアの支配を排除して実質的に大韓帝国を保護国化し、大韓帝国の皇帝と対立しました。1907年はオランダ・ハーグの万国平和会議に密使事件を機に、伊藤博文は、大韓帝国の皇帝を退位させます。また、日本軍は中国朝鮮族を支援する名目で1907年に、中国の龍井に進駐して、朝鮮統監府「間島」派出所を設置して、中国大陸への進出のきっかけとします。しかし、ロシアから南満州の鉄道施設権を手に入れて「南満州鉄道」を1906年に創設した日本は、吉林と朝鮮の会寧を結ぶ鉄道の敷設権等を手に入れるため、1909年に清国と取引し、間島の領有権を清国側に譲渡してしまうのです。全く裏切り行為ですね。この1909年に清国のハルビン駅で、(韓国併合には反対していた韓国統監でもあった)伊藤博文は安重根に暗殺されます。そして翌1910年には、日韓併合と称して、日本は朝鮮半島を植民地にしてしまいます。この韓国併合から満州進出と進むにつれて、日本はアジアの開放の王道の道を外れ、西欧の真似をした植民地的な領土拡大侵略の邪道に歴史を歩み出して行きます。
一方、大正デモクラシーの自由な時代に、日本では中国からの留学生が2万人を越えますが、中国人の日本留学生の間では、次第に革命思想が浸透します。中国に帰国した留学生らは、中国史上初めての民族民主「共和国」の中国を達成した、1911年からの辛亥革命の実質的な原動力となりました。(しかし、1905年11月、日本国政府は清国からの要請に応じて「清韓日本留学生取締規則」を発布して革命思想を持った中国留学生の取り締まりを開始します。そのため中国留学生は日本政府に憤慨します。怒った多くの学生は、中国に帰国しました。当時、中国留学生を「放縦卑劣」と罵倒した東京朝日新聞の記事にショックを受けた陳天華という中国留学生が、同年12月に大森海岸にて入水自殺するという悲劇の事件もありました。)
アメリカのウィルソン大統領が唱えた「民族自決」の思想により、第一次世界大戦後、世界の植民地において、そして朝鮮や中国の民族も独立を求めて声をあげました。日本国の植民地となった朝鮮半島でも、1919年 3月1日に朝鮮民族の独立を求めた大運動が起こります。タプコル公園から始まった独立運動は、デモ回数1542回、延べ参加人数は205万人に上ったといわれます。しかし、これを日本は軍事鎮圧させました。
同年、中国でも第1次大戦終結で日本がドイツから奪った中国山東省の権益が承認されると、1919年 3月1日の朝鮮の独立運動の影響が中国に波及し、北京の漢民族学生数千人が1919年5月4日に、天安門広場で、ヴェルサイユ条約反対や親日派要人の罷免などを要求したデモ(五四運動)を起こします。J
(そんな民族運動の高まりに、日本政府が畏怖しはじめた数年後、1923年9月1日に関東大震災が起こります。混乱の中で関東の日本民衆は暴徒と化して、日本に居住していた日本国籍の朝鮮人(一部、中国人や地方出身の日本人自身も含まれました)を大量虐殺するという悲劇が発生しています。P)
(1923年9月1日の関東大震災での朝鮮人虐殺については、最近の日本では、南京虐殺と同じ手法で、恥ずべき日本民族の誇り?を回復しようとする動きが出ています。まず虐殺者の集計が不正確なことで、信憑性に疑問を抱かせます。そして、暴徒化した一部の朝鮮人に日本の自警団が暴行したのは、自警団の過剰防衛による殺害で、暴動行為への正当防衛だったので、虐殺行為はなかったと黒を白と逆転させる論法です。2008年から雑誌に連載され2009年にはそれは本にもされました。p)
民衆の自警団の殺戮行為以外でも、殺人・殺人未遂・傷害致死・傷害の4つの罪名で正式に犯罪者として警察に起訴された日本人は、当時の日本警察の記録で362名にものぼり、朝鮮人虐殺死亡233人、朝鮮人に間違われ殺害された日本人が58人、中国人も3人との日本政府自身の警察記録が残っていました。日本民衆の自警団による殺戮の犠牲者の記録を含めると実際には、数千人規模の大虐殺が発生していました。日本では、問題視されてきませんでしたが、日本人の反政府主義者もこの混乱の時期に殺害されています。しかも民衆が官憲に売り渡した事例です。P
民衆が支援したイタリア等のパルチザンなどと日本との大きな違いは、日本の民衆はこの時期早くから、自己陶酔的な軍国主義に染まっていた点です。ナチズムに染まってユダヤ人の虐殺に協力したドイツ民衆にも似た大和民族優越意識のもと、チャンコロ/チョーセンやアカ/非国民たちは虐殺されてもしかたないと日本民衆は当時からすでに洗脳されていたからだという人もいます。日本における当時のファシズム的陶酔の実態は、実は今日においてもなぜか総括されておらず継続しており、亀戸事件など日本人自身の犠牲者の名誉さえも日本では回復されていません。当時の日本のマスコミは、大震災の犠牲に混乱する日本民衆に「震災を利用し、朝鮮人は各地に放火し、不逞の目的を遂行せんとし、現に東京市内に於て爆弾を・・」等と「不逞在日朝鮮人」があたかも放火や暴行や爆弾事件を各地で起こし暴動を起こし、関東震災の被災が朝鮮人のせいであるとしたニセ報道記事を大量に捏造しました。しかし、それは震災で首都圏では想定外の火災が相次ぎ、報道機能さえ失われていたため、実際に取材などされず、地方の報道機関が憶測で書いた新聞が関東に持ち込まれたものでした。
しかし、震災被害でパニックになり、ニセ報道とは逆に暴徒と化していたのは、実は日本の民衆の方でした。横浜の鶴見警察に安全確保のため保護された朝鮮人約300名に対し、地元の自警団約1000人がつめかけ、朝鮮人たちを懲らしめるため(虐殺するため)を差し出せと警察に要望にやってきた事例など、関東各地で日本の民衆は実際暴徒となりました。P
(戦後にもう随分たった、2003年7月に、日本弁護士連合会・人権擁護委員会は「関東大震災人権救済申立事件調査報告書」を発表し、日本各地の裁判所や各地の地方自治体の行政機関に残されていた民衆の自警団による朝鮮人虐殺行為の公的記録を多数公開しました。そして日本政府に「集団虐殺」の加害責任者を日本の国内法により全く処罰しなかった(自警団以外の行為については警察起訴はありましたが)日本政府の国際法上の責任の追求をしました。それは、戦後日本民主主義の到達した良心の証でした。犠牲者の集計数字の違いや暴動行為や当時のパニックの状況等をできるだけ斟酌しても、なお日本民衆が自警と称して犯した行為の内容はあまりも残虐であり、その事実はまだ歴史から忘れ去られるには圧倒的すぎるものです。P)
(日本弁護士連合会・人権擁護委員会は、200数十名を越え750名程度の範囲の中国人についても殺害されたと推定することにに相当の根拠があると判断するとしていますが?。J、朝鮮人のようにデマが発生しなかった中国人までも犠牲になったのはなぜなのでしょうJ.
当時、中国人や訛りがある地方出身の日本人の多くを朝鮮人と間違って、民衆自警団は、相当数虐殺してしまったことが判明しています。しかし、経過も古く氏名確認ができていませんでしたが、今日では地方出身の日本人より中国人犠牲者が多かったと推定されています。)
1912年清国が辛亥革命で倒れます。朝鮮半島においても1919年3月1日に日本からの独立運動が起こります。中国上海では、大韓民国臨時政府が樹立され、中国東北部では、中国朝鮮族が、間島(中国吉林省延辺朝鮮族自治州)で抗日パルチザン運動を展開します。間島パルチザンは、中国だけでなく朝鮮半島の北部に渡ってまで広く抗日活動を行いました。1920年に日本軍は間島に出兵して中国朝鮮族のパルチザンと戦っています(青山里戦闘)。一方、中国上海では、大韓民国臨時政府大統領にアメリカで活躍していた李承晩を向かえます。
(青山里戦闘は、5万の日本軍に対し3千名のパルチザンが勇敢に闘ったと事件と言われます。韓国映画(1983年)でも描かれました。映画で歌われた韓国の有名な歌「先駆者」の歌詞に因んで「一松亭の青松は」というタイトルでした。P)
1926年5月には、朝鮮共産党満洲総局が設立され、中国東北でも朝鮮族独立運動が展開されますが、これに対して日本軍は1927年1月、1928年5月、1930年4月の三次にわたって大規模な弾圧を行なっています。1930年5月には中国共産党との連帯のもとに、朝鮮共産党も独立運動の武装蜂起をします。この蜂起を日本軍は共産党の大暴動として弾圧し、朝鮮共産党の満洲総局は1930年に壊滅させられます。しかし、その大弾圧にも関わらず、間島のパルチザン運動は、不屈にも民衆に引き継がれていました。
満州では、当時、張学良が朝鮮族を日本帝国主義の手先ではないかとも考えるようになり、朝鮮族の弾圧政策を実施しました。そのため「鮮人駆逐令」で朝鮮族は満州から追放されることになり、朝鮮族は行き場をうしないます。その結果、長春の西北の万宝山に入植しようとして朝鮮族は移住しました。その万宝山において、中国から土地を賃借していた朝鮮族農民が用水路を作ったことに反発した一部の中国人農民が朝鮮族を襲撃し、日本の領事館警察官とも衝突する万宝山事件が発生します。それは、関東軍が瀋陽を謀略する満州事変の直前、1931年7月のことでした。当時の朝鮮族と中国の関係は、決してよくありませんでした。
その後、民衆に引き継がれていた間島パルチザンは1933年中国共産党の東北人民革命軍に編入され、1935年には国共合作で東北抗日連軍に編入されました。今日の北朝鮮の創始者の金日成は、実は満州で中国共産党に1933年頃入党しており、1937年に鴨緑江国境の普天堡占領などの活動にも参加したと言われています。J
そのためか、北朝鮮の歴史では、中国朝鮮族の「間島パルチザン」こそが、北朝鮮の建国に繋がる朝鮮革命の起源だとされています。一方、韓国では1919年3月1日の独立運動時に中国上海に成立した大韓民国臨時政府こそが韓国の起源としています。北朝鮮も韓国も起源は、実は中国における朝鮮族の抗日・独立運動にあったのです。
(日本においても、高知県の反戦活動家・詩人の槇村浩がその、中国朝鮮族の不屈の抵抗活動を称えた「間島パルチザンの歌」(1932年)を詠っており、その闘争が、日本でも一部の書物などで紹介されています。まだ、中国、朝鮮、日本の共産主義運動がひとつの運動として共同していた時代の詩でした。P)
満州事変を経て日本が支配した傀儡満州国には、日本が植民地化していた朝鮮半島からの移住者が増えて、中国朝鮮族は、一時約220万人にも増えました。しかし、その後、日本の敗戦・満州国の崩壊で、100万人の中国朝鮮族が朝鮮半島に戻りました。一方、中国に残った朝鮮族は、中国革命にも協力し、1949年の新生中国の建国時に、中国朝鮮族全員が中国国籍を取得しました。その後、朝鮮戦争では、朝鮮族は北朝鮮支援目的で過酷な戦争に女性も中国軍として戦闘参加しました。現在の中国においては吉林省延辺で自治行政も担っており、東北地方を中心に多く居住し、中国各地で漢族とも融合しています。現在の中国朝鮮族の人口は約200万人と言われています。J
私が中国で通った高校は朝鮮族の学校でした。日本の朝鮮学校は、北朝鮮の歴史を教えるそうですが、中国の朝鮮学校では、朝鮮文化やハングルは教えますが、歴史は中国の歴史しか教えていません。従って、金正日崇拝などもないのですよ。
北朝鮮の親戚は、昔中国が飢饉のときに援助してくれたそうですが、何故か、北朝鮮の親戚は今では全く交流が途絶えています。1992年からの韓国国交回復を契機に親戚との交流は盛んとなり親戚や友人には韓国への留学や出稼ぎも結構多いです。
1995年から1998年頃の北朝鮮の干ばつ時期は、特に、命がけで亡命を求めた北朝鮮の越境者が頻繁に中国に入ってくるなど、北の最近の経済情勢は深刻な状況だったそうです。脱北して中国に来た人とも話したことがありますが、もう食べられる生活ができるなら、人間ができることなら、どんなことでもできるし、実際やってきたそうです・・。
北朝鮮文化で尊敬しているのはダンスです。ビデオで見るお手本は、実際北朝鮮のものが多いのですが、すばらしいものばかりです。私は、高校時代、ダンスクラブで活躍しました。瀋陽のテレビでも、そのダンスクラブが紹介されたことがあり、私も写ったので、テレビに出た出た!とよく自慢したものです。
完全なる中国国籍を持ち中国文化を愛する中国国民ですので、日本で聞く「差別」という概念は全く理解できないのです。どうして民族の誇りを感じないのでしょうか(中国の大学進学に際して与えられる少数民族優遇策は、朝鮮族に対しては適用されていません。それは差別ではなく、朝鮮族は漢族より進学率が高く、そもそも小さい頃から教育熱心なので、頭もいいからなのです)。
しかし、子供の時代は漢族とは、本当に汚ない「汚物の言葉」で互いに、ののしりあう程に、とても仲が悪かった記憶はあります。多分その点は日本の在日などもそうなのだろうと理解ができます。でも、中国各界で活躍する朝鮮族は意外と多く、天安門事件で、朝鮮族の崔健(최건チェ・ゴン)の歌った「一無所有」は青年たちの愛唱歌になったと言われる程、崔健の歌は人気があります。いまでは、朝鮮音楽や朝鮮料理や朝鮮舞踊なども人気で、中国での韓国ドラマの人気は、日本アニメ以上かもしれません。中国の漢族は、最近、朝鮮族文化がとても気にいって、朝鮮族も漢民族に同化してきています。
(でも韓国からの旅行者は、中国朝鮮族や北朝鮮の人とは違って、とても威張って礼儀も悪いというような偏見や誤解が、一部に発生しています。)
北朝鮮とは政治や貿易での交流が、中国では多くありますが、北朝鮮料理店もルートや関係者が特定されているようです。韓国や日本には留学や就職や結婚する人まで結構いますが、中国側から北朝鮮に希望する人は身近なところでは、聞いたことがありません。J
今でも、朝鮮族は死んだら、火葬されますが、骨は灰にして川に流されます。これは、祖国の北(朝鮮半島・豆満江川)に帰るという意味もあります。朝鮮半島を半分に分けている、臨津江のことは、よくしりません。J
(臨津江といえばイムジン河という歌が日本では有名です。アリランについで日本ではよく知られている朝鮮由来の歌で、もともとは、日本の朝鮮学校でよく歌われた歌でした。北朝鮮国内では歌われることは殆どなかった様です。1968年に日本のザ・フォーク・クルセダーズが歌い、朝鮮半島分断を批判する日本の歌詞がつけられました。レコード会社の諸般の事情で発売は停止とされました。日本の歌は、在日の朝鮮学校生と日本人学生との友情の中で生まれ、日本詩は南北分断悲劇を連想する内容になっています。最近では映画パッチギの主題歌として注目されました。P
元の歌は、荒れ果てた韓国の地をなげき、北朝鮮の豊かな様子を伝えたいとの思いを託す内容でした。しかし、日本の歌のイムジン河は、南北分断に対する悲しみを訴え、「飛び行く鳥を自由の使者」とし自由への開放を連想する歌詞であり、本来の歌詞とは逆でした。当時、東芝音楽工業に対し朝鮮総連は、これが北朝鮮の歌であることと作詞作曲者名を明記すること、原詞に忠実に訳すことを求めました。また韓国においては北朝鮮の歌が広まることは望まなかったとも言われました。結果、日本において、歌の発売は自粛・停止となり、その後長く放送禁止歌ともされました。
フォーク・クルセダーズ2枚目のシングル曲として当初予定されていた「イムジン河」が発売自粛となったため、それに代わる曲として急遽制作された「悲しくてやりきれない」は「イムジン河」の音符を逆にたどるなかでひらめいたメロディに著名詩人サトウハチローが作詞したと言われています。その後、日本のイムジン河は、放送禁止も解かれ、多くの歌手にも愛され、今日の日本ではアリランに次いで有名な朝鮮半島の歌として知られるようになりました。最近では、韓国でも(韓国版が)歌われるようになりました。P)
【日本の歌・イムジン河】
임진강 맑은물은 도도히 흐르네
イムジンガン マルグンムルン トドヒ フルネ
イムジン河水清くとうとうと流る
물새들 자유로이 모여들고 날아드네
ムルセドゥル チャユロイ モヨドゥルゴ ナラドゥネ
水鳥自由にむらがりとびかうよ
우리 조국 남녘 땅 마음만 아득히
ウリ チョグク ナムニョク ッタン マウムマン アドゥキ
我が祖国、南の地、思いは遥か
임진강 맑은물은 도도히 흐르네
イムジンガン マルグンムルン トドヒ フルネ
イムジン河水清くとうとうと流る
북쪽의 땅에서 남쪽하늘로
ブクッチョゲッタンエソ ナムチョクカヌルロ
北の大地から南の島へ
날아가는 새들아 자유의 천사여
ナラガヌン シェドゥラ チャユエ チョンサヨ
飛び行く鳥よ、自由の使者よ
누가 우리 조국 둘로 갈라는가
ヌリガ ウリ チョグル トゥルロ カルラヌンガ
誰が祖国をふたつに分けてしまったの
누가 조국을 갈라놓았는가
ヌルガ チョググル カルラノアンヌンガ
誰が祖国を分けてしまったの
임진강 하늘 저 높이
イ(ム)ジンガン ハヌ(ル) チョ ノピ
イムジン河空遠く
무지개를 걸어주려마
ムジゲルル コロジュリョマ
虹よかかっておくれ
강물이여 이 내 맘을 전해주려마
カンムリヨ イ ネ マムル チョネジュリョマ
河よ思いを伝えておくれ
고향땅을 언제까지나 잊지않으리니
コヒャンッタンウル オンジェッカジナ イッチアヌリニ
ふるさとをいつまでも忘れはしない
임진강 맑은물은 도도히 흐르네
イムジンガン マルグンムルン トドヒ フルネ
イムジン河水清くとうとうと流る
【北朝鮮の歌・リムジン河】
림진강 맑은 물은 흘러흘러 내리고
イムジンガン マルグン ムルン フルロフルロ ネリゴ
臨津江の清き水はとうとうと流れる
물새들 자유로이 넘나들며 날건만
ム(ルセドゥル チャユロイ ノムナドゥルミョ ナルゴンマン
水鳥は自由に行き来して飛んではいるが
내고향 남쪽땅 가고파도 못가니
ネゴヒャン ナムッチョクッタン カゴパド モッカニ
我が祖国南の地、行きたくともかなわない
림진강 흐름아 원한싣고 흐르냐
イムジンガン フルマ ウォナンシッコ フルニャ
臨津江の流れよ、怨恨を乗せて流るるか
강건너 갈밭에선 갈새만 슬피울고
カンゴンノ カルバテソン カルセマン スルピウルゴ
対岸の葦の茂みで鳥たちは悲しく鳴き
메마른 들판에선 풀뿌리를 캐건만
メマルン トゥルパネソン プルップリルル ケゴンマン
干からびた野原の地で草の根を掘るが
협동벌 이삭마다 물결우에 춤추니
ヒョプットンボル イサンマダ ムルギョルエ チュムチュニ
協同農場の稲穂は波うち踊る
림진강 흐름을 가르지를 못하리라
イムジンガン フルムル カルジルル モタリラ
リムジン江の流れを分けることなど出来はしない
내고향 북녁땅 가고파도 못가니
ネゴヒャン ブンニョクッタン カゴパド モッカニ
我が祖国北の地、行きたくてもかなわない
림진강 흐름을 가르지를 못하리라
イムジンガン フルムル カルジルル モタリラ
臨津江の流れを分けることなど出来はしない
림진강 흐름을 가르지를 못하리라
イムジンガン フルムル カルジルル モタリラ
リムジン河の流れを分けることなど出来はしない
作詞は北朝鮮国歌(愛国歌)【朝は輝け아침은 빛나라】の作詞で知られる朴世永(京畿道出身のプロレタリア詩人)です。