オーランド諸島の風景
第1次大戦後、平和を希求して設立された国際連盟の成立に関わる会議において、日本は、人種差別撤廃を世界で初めて提案した国でした。パリ講和会議の国際連盟委員会で日本は一度ならず、二度に渡る提案の成果、議長のアメリカ・ウィルソンを除く出席者16名の投票が実施され、遂に日本、中国、フランス、イタリア、ギリシャ、ポルトガル、チェコスロバキア、セルブ・クロアート・ユーゴスラビア等の計11名の国際連盟委員の賛成票を得て可決に至ります。確かに多数決のルールによれば可決されたはずでした。しかし、人種差別問題を国内で抱えるアメリカ等は明確な反対を表明していました。国際連盟委員会議長のアメリカ大統領ウィルソンは、採決された後になって、重要事項であるため多数決ではなく、全会一致で決めるべきであると主張します。結局、日本が提案し中国など11名の委員が可決した議案は不成立であるとウイルソン議長は宣言しました。P
国際連盟が成立し、1920年教育者で国際的に著名な日本人の新渡戸稲造が国際連盟事務次長に選ばれました。
今日の日本では、樋口一葉の前の五千円札に印刷された人物としても有名な新渡戸稲造ですが、国際的には、北欧諸島の小国「オーランド諸島」の領土問題を解決した日本人としても有名です。また、『武士道』を英文で著した日本人として有名です。
新渡戸氏の国連時代の功績の一つとして有名なのが北欧諸島の領土問題の解決です。オーランド諸島のフィンランドへの帰属を認めながら、その条件としてオーランド諸島の更なる自治権(民族自決権)の確約を求めた、いわゆる「新渡戸裁定」です。
オーランド諸島は、もともとスウェーデン王国に所属していましたが、スエーデンは、1809年にロシア帝国との戦争に敗れたことから、フィンランドの領域がロシアに割譲されたため、オーランド諸島もフィンランドの一部としてロシア領となりました。1856年のパリ講和条約によって、オーランド諸島は非武装地帯とされますが、ロシアは第一次世界大戦でオーランド諸島を再武装・要塞化しました。
第一次世界大戦末期に、フィンランド本土においては、ロシアからの独立の気運が高まりました。そして、オーランド諸島においてもロシアからの独立を求める声が高まりました。
しかし、フィンランドからの分離独立を望む勢力とスウェーデンへの再帰属を求める勢力が対立し緊張が高まりました。
フィンランドとスウェーデンは、オーランド諸島の領有を巡って、国際連盟に裁定を求めました。「新渡戸裁定」は、まず「大国ロシアを排除し独立を前提としました。」そして、オーランド諸島は「フィンランド領」とすると同時に「民族文化を担う公用語は、スウェーデン語」とする、フィンランドとスウェーデン双方の面子を保った妥協案を提案します。しかも「永世中立・非武装(非武装中立)」の地とする提案でした。
この国際連盟の「新渡戸裁定」をスウェーデンもフィンランドも受け入れました。非武装中立「フィンランド・オーランド自治政府」が1922年に誕生しました。
「北欧バルト海に浮かぶオーランド諸島は、「オーランド海を制する者は、バルト海を制す」とも言われ、その軍事的価値をめぐって、長く関係国の領有権争いが繰り広げられた歴史がありました。しかし、国際連盟で日本人の提案した和の精神が争いの地に平和を実現しました。
その後、1928年8月27日フランスのパリで不戦条約(ケロッグ・ブリアン協定)が締結され、日本、アメリカ、イギリス、ドイツ、フランス、イタリア等が署名し、中国やソ連も含め国際連盟加盟国のほとんど、世界63か国が署名するに至り、平和主義は全世界の共通認識になります。 その不戦条約第一条においては「国際紛争解決のための戦争の否定と国家の政策の手段としての戦争の放棄」が高らかに「各国の人民名で宣言」されました。
(しかし、富国強兵策の下で右傾化した日本は条約署名後、右翼や枢密院等の圧力で「人民のために宣言する」との字句の適用について拒絶するに至ります。
当時、アジアで当初は大きな尊敬を受けていた日本でしたが、朝鮮を植民地併合する挙に出て、一気にアジア全域の人心を失なっていました。その後、満州事変(日本が国内で事変を戦争と呼べなかったのは、不戦条約の成果とも言われています。)を日本は起こしました。
1931年の満州事変に際してアメリカのスティムソン国務長官はパリ不戦条約を根拠に日本の幣原外務大臣に戦線不拡大を要求し、これに幣原大臣は同意さえしますが、当時の軍部の台頭で日本政府は軍事統制を失い関東軍は暴走しました。
満州事変は、国際連盟の調査団報告では不戦条約違反とされ、満州の自治政府化が提案されます。(タイのみが棄権し、反対は日本一国だけでした。)孤立した日本は国際連盟の常任理事国でしたが、国際連盟を脱退してしまいました。日本は満洲「事変」と称して自衛権を偽り、宣戦布告なき武力発動をおこないました。日本軍部の独走による不戦条約の空文化でした。パリ不戦条約を世界で最初に破った国と非難され、世界の人心も失います。その後、ナチスが政権を取ったドイツが日本に追随して1933年に国際連盟を脱退、イタリアが1935年にエチオピアを軍事支配しパリ不戦条約は完全破綻します。満州事変に反対した新渡戸氏は、結果的に日本には帰ることができずカナダで没しています。)
そしてソ連もフィンランドに軍事侵攻し国際連盟を除名されます。しかし、理想論でも楽観論でも空想論でもなく、歴史の事実でした。その後のオーランド諸島の住民(2万数千人)は、非武装の理念を維持し、今日に至るまで、和の精神に導かれた姿を保ち続けて、豊かで平和な国になっています。
日本の平和志向は、戦後だけではなかったのです。日本民族の歴史には「和」を尊ぶ伝統と平和がありました。
日本国内での外国民族との本土戦争は元寇とアメリカ軍との沖縄戦だけで、外国に占領された経験はGHQ以外にはなく「民族自決」を維持した歴史の長さでは、おそらく唯一と言えるほどに幸福な民族です。(同じ島国でもイギリスは何度も異民族の侵略を受けていますし、近年は世界中に大英帝国の植民地侵略を行っています。) 西欧諸国や韓国・中国においては、海外民族からの侵略と本土戦争が何度も繰り返された歴史があるため、「平和」は理想論でしかありません。
それらの国々は「力こそが正義」で善で、軍事力のみが「和平」をもたらすと、未だに信じられています。
外国民族に占領されたことのないアメリカも、イギリスと同様の西欧思想の下にあり、植民地支配と第二次世界大戦後も海外戦争を繰り返しています。
また、中国は異民族支配を何度も長期に渡って受けてきました。辛亥革命で清王朝が倒れるまで、モンゴル系民族の清王朝に征服・支配された漢民族は、服装も日本の着物風からモンゴル系に改めさせられ、文化だけでなく、容姿さえも、260年強要(辮髪:男性の頭部を剃って中央を残した髪を三つ編みにして後ろにたらすモンゴルヘアーを強制され、拒否した者は死刑)された歴史があります。(日本は満州事変で侵略しただけでなく、傀儡政権とは言え満州国を建設して、その旧支配権力の清王朝の末裔を復活させ失敗しました・・。)
しかし、力の正義は常に弱者の犠牲の上になりたつものですから、決して本当の民族の幸福と平和は得れません。欧米や中国のように、無常なる力によって維持する、つかの間の和平と軍事力競争の恐怖の連鎖ではなく、日本には理性に基づいた恒久平和の歴史がありました。それは、建国以来の日本民族の伝統でもありました。そして、それは戦後の「戦争の否定と戦争の放棄」を憲法で宣言した平和国家=日本の受け入れにつながりました。
日本が戦後65年、戦争をしないで済んだのは、アメリカのおかげではありません。朝鮮戦争で、ベトナム戦争で、アフガンやイラクも全てアメリカ軍とその同盟各国は(日本以外は)血を流しています。正確には、日本は兵站部として、これらの戦争に関っていますから、第二時大戦後に戦争に関らなかった先進国で誇れるのは、むしろ永世中立を宣言したスイスやオーストリア等の方かもしれません。
軍事同盟をむすぶ日本は、まだ永世中立でもなく、崇高な理想と目的の実現に至っていないのです。戦争放棄・武力放棄を憲法で宣言しても、中立宣言さえまだしていないのです。(スイスは人口が少ないので徴兵(予備登録)はありますが、核ももたず、軍事費は日本の10分の1程の軍事小国で集団的自衛権を行使しない永世中立国です。オーストリアの軍事費は日本の15分の1で核ももたず軍事小国です。また、オーストリアは日本の自衛隊と同じ志願制の防衛軍で集団的自衛権を行使しない永世中立国です。(2010年ストックホルム国際平和研究所統計)
そして、今日、軍隊を持たない国はもう日本だけではありません。バチカン、モナコ、リヒテンシュタイン、サンマリノ、アンドラ、アイスランド、オーランドも軍隊を持ちません。
日本は倭国時代には百済復興を請われた白村江の戦いまで多くの海外戦争があったとも言われますが、倭国から日本に称号を変え、正式に日本国が誕生してから明治時代まで、国内戦争はあったものの海外出兵した経験は、防衛戦の元寇や琉球や蝦夷を除けばスペインの植民地政策の野望に魅せられた秀吉が唐入を目指して二度に渡る朝鮮出兵をしただけでした。明治以降に近代化した日本は、1879年の琉球併合以来、台湾併合、日露・日清戦争、朝鮮併合・満州占領・中国戦線・太平洋戦争と海外に出兵しましたが、これも、日本民族の本来の和の伝統とは異なり、西欧の植民地政策に追随した軍国主義の思想の下での行為であり、それは本来の日本民族の平和の伝統でもなく、琉球併合からわずか66年程しか続きませんでした。
日本の戦後の豊かな平和の実現は、世界の周知であり、諸外国の憧れであり、日本民族の誇りでもあります。しかし、平和は、戦後だけではありませんでした。日本民族は、秀吉の朝鮮出兵敗戦後の江戸時代で265年も、白村江の敗戦後の平安時代以降で390年強も海外出兵をしませんでした。太平洋戦争敗戦後も平和憲法の下で一度も日本は戦争をしていません。
日本は、渡来人文化の倭国から日本に国号を変えた大宝律令施行の701年から約1300年間以上も(GHQ占領を除き)他民族に占領されず「民族自決権」を守り続けた、世界一平和な歴史を持っているのです。その理由は、日本の軍事力が1300年間世界一強かったわけではありません。(むしろ、戦国の国内戦争を終えた秀吉は国内で武器を禁じ(刀狩り)、徳川時代は海外鎖国さえして、平和を求めました。)それには、建国以来の「和」の思想が大きな役割を演じたのです。日本は植民地にならなかっただけでなく、軍国時代の約100年程(琉球・台湾・朝鮮半島の植民地化、日清・日露の戦争日中から太平洋戦争への時代)と秀吉の朝鮮出兵の失敗や琉球や蝦夷を除けば、約1200年間以上、海外に植民地も持たなかったのです。鎖国政策がよい例で、海外戦争をしないことが最強の日本の防衛だったのです。
もちろん、倭国が弥生渡来人の複合民族であったことや、白村江の戦いや秀吉の朝鮮出兵等、海外出兵の敗戦にも学んだ一方で、度重なる天下統一の国内戦争に明け暮れて国力が疲弊した側面もありました。また、封建制や君主制故の社会制約や戦国時代や幕末戦争や鎖国による海外文明からの遅れ等の弊害がありました。しかし、日本が、建国以来、争いをさけ和を尊ぶことを徳とし、平和を求め続けたことも事実でした。 (「強いて争わず」相手に勝ちを譲った方が、結局は自分に有利な結果をもたらすというとは江戸系いろはがるたの一つの言葉でした。「負けるが勝ち」という、日本民族の偉大な倫理感でもあります。P)
倭国から日本へと国号を変え日本が建国される直前の7世紀(白村江の戦いの前の世代)に大きく活躍したと言われる摂政の聖徳太子は、(遣隋使を派遣し、中国に対等な外交を迫まり、四天王寺や法隆寺を建てて、仏教を定着させたとも言われますが、実在人物でないとの説もありますが、仮に実在しなくとも日本史上、大衆に認知・支持され続けた歴史的人物であることも事実です。)1930年に日銀券の百円に札登場して以来、戦前も戦後も何度も旧紙幣に登場し周知され、日本で最人気とも言われる古代倭国の偉人です。
その聖徳太子は日本書紀において、17条の倭国初めての憲法を制定したことが記載されています。(日本書紀の編纂とともに創作とも言われますが、仮にそれが創作としても、日本史上、日本初の憲法と言われ大衆に認知・支持され続けたのも事実です)。
その17条憲法の第1条は「和を以って貴し」と規定し、第17条では「必ず衆とともに宜しく論ふべし」と規定します。それは、「和を重んじ争いを避け、話し合いを重んじて独断を禁止した」いわゆる統治上の「和の精神」規定ですが、観点を広げて読めば、それは、まるで今日の、平和と民主主義にさえ繋がります。「和」それは、古来から日本民族が尊んできた道徳でもあり、今日の日本が享受して、誇るべき「平和」の原点でした。
オーランド諸島の街
欧州連合(EU)構想の先駆けとなった。青山栄次郎の平和主義・友愛思想も有名です。(リヒャルト・ニコラウス・栄次郎・クーデンホーフ=カレルギー:東京府生れで、母は東京牛込出身の日本人女性青山みつでした。)
1923年に『汎ヨーロッパ主義』を著し、その思想の影響は、国際連盟総会でのブリアン演説(『欧州連邦秩序構想』)に結実しました。
しかし、ドイツのヒトラーにとって「汎ヨーロッパ主義」思想は迫害の対象でした。青山栄次郎は1938年のナチスによるオーストリア併合後、ユダヤ人女優の妻とチェコスロバキア、ハンガリー、ユーゴ、イタリアを経てスイスへ逃避行します。その後フランスを本拠に活動し、1940年にフランスがナチスの手に落ちるとスイス、ポルトガルを経てアメリカに亡命しました。
第二次世界大戦後の1947年には、ヨーロッパ十カ国の国会議員を、グスタードにに114名集め、ヨーロッパ議員同盟(European Parliamentary Union: EPU)創設等の活動も行いました。
1951年にベルギー、フランス、西ドイツ、イタリア、ルクセンブルク、オランダの6か国が署名するパリ条約で欧州石炭鉄鋼共同体が設立され、EUの前身組織が誕生しました。「汎ヨーロッパ主義」の思想は、EU誕生の基本思想に大きな影響を及ぼしました。(青山栄次郎は、アメリカ映画「カサブランカ」の登場人物のモデルとしても知られています。)
青山栄次郎は、1967年10月30日に、日本の鹿島平和財団から第1回「鹿島平和賞」を贈られて訪日し、71年ぶりの日本への帰郷を果たしました。
今年のノーベル平和賞は、欧州連合(EU)に贈られることになりました。
青山栄次郎の友愛思想にも影響された鳩山由紀夫は2009年首相時代に「東アジア共同体」構想を打ち出して、世界中に注目されましたが、アメリカの意向一つで、あえなく構想は頓挫しました。
2009年日本が提案した東アジア共同体構想は、アメリカに潰されましたが、東南アジア諸国連合(ASEAN)のマレーシアのマハティール元首相らは、鳩山構想に、大賛同しました。(マハティール氏は1990年代初めに同様の「東アジア経済会議(EAEC)」を提唱しました。)
「アジア諸国がまとまらなければ、欧州連合(EU)や北米自由貿易協定(NAFTA)による統合が加速する欧米の経済圧力に抵抗できない」「共同体に向け、日中韓は先の戦争の過去を忘れるべきだ」とまでマハティール氏は当時断言します。アジア経済は日本と韓国を手本にすべきで「中国は大国で豊な経済を実現しており、共同体で大きな役割を果たせる。」
「好き嫌いにかかわらず、われわれは中国とともに生きていくしかない」「インドも跡に加えられる」と率直に語ったマハティール氏の自信は、東南アジア諸国連合(ASEAN:6億8千万人)での成功実績に裏打ちされていました。
1995年にASEAN諸国は「東南アジア非核兵器地帯条約」を締結し非核地帯を維持しています。中国、インド、アメリカにも非核を求めており、日本もできないような平和外交を展開しています。経済規模も順調で、今日のASEANのGDPはもう日本の30%に達し、EUをモデルとする「政治・安保・経済・社会文化共同体」を2015年には発足させる予定です。
一方、2012年、日韓中3国間も、10年も交渉が続けられてきた、日中韓自由貿易協定(FTA)がようやく進み初め、いよいよ日韓中3国の自由貿易区がアジア経済成長の原動力になるとも、期待されましたが、今回の日韓中の領土問題で、また、これも先送りさせられそうです。一方、日本はアメリカの圧力でTPPへの参加を強いられています。
もちろん、日本の侵略戦争を理由とした対立が、今日までも根深く韓国や中国にはあります。しかし、それ以上とも言われた欧州には、ホロコーストや虐殺や血に塗られた戦争と対立の歴史があり、戦争犯罪追求に時効はなく、今でも責任が追求されます。若者にも負の歴史が語り継がれています。しかし、戦前の憎しみや民族の対立を乗り越えて、EUによる経済統合を図って、もう久しいのです。
EUはまず、資源の共同管理によって、生産地をめぐる領土問題を終結させることから始めました。戦争の過去を乗り越え、民族の憎しみを乗り越え、各国の市場競争を卒業し、貨幣を統一し、対立から共存への道を経済統合により成し遂げました。
意見の対立には、先進国が粘り強い妥協とイニシアティブを発揮し途上国を支援し、経済の統合が政治の壁を乗り越えました。
しかし、欧州諸国にできたことが、何故、今日の日本・中国・韓国にはできなかったのでしょうか。