学校教育を考える

混迷する教育現場で,
日々奮闘していらっしゃる
真面目な先生方への
応援の意味を込めて書いています。

「とは何か」の問い

2007-04-29 | 教育
プラトンの『メノン』は
「徳は教えられるか」という
メノンのソクラテスへの問いに対して,
徳が教えられるかどうかよりも
「徳とは何か」という問いがまず解決されるべきだと
ソクラテスが主張するところに
対話のひとつの中心的な論題がある。
(ここでの「徳」はアレテーであって,
 いわゆる道徳の「徳」とは意味合いが異なる)

このことは,哲学的にはさまざまな問題を
提起しているのであろうが,
単純に,いまの学校教育に関する論議にあてはめてみると
おもしろい。
どんな問題にせよ,「とは何か」に関しては
全く論議されていないのである。

「どのようであるか」「どうしたらよいか」は議論されるが,
「とは何か」はどこにもない。
「とは何か」を問うても,答えが出るわけではなかろうが,
しかし「とは何か」を問う姿勢のない議論は不毛であろう。

「学力低下」「学校評価」「教員の質の低下」「道徳」,
「基礎学力」,何でもよい。「とは何か」を問うてみたい。

実は,教育論者は「とは何か」については,
明確な認識を持っていないのではないか,
そう思われてならないのである。

このことは,教育がますます悪しきドグマにおちいっていく
ひとつの原因となるのである。

持ち物に名前を書く

2007-04-19 | 教育
4月に学校で子どもたちが行う
大切な作業に,
持ち物に名前を書くということがある。

小学校1年生で教えられた
「持ち物に名前を書く」という習慣が
いつまで生き残っているだろうか?

小学校の高学年は,
みんな教科書に名前を書いているだろうか?
あるいは,傘に名前を書いているだろうか?

中学校ではどうか?
高校ではどうか?
大学では?

ついでだが,学校段階があがると,
教科書に氏名欄がなくなるのである!

自分の持ち物に名前やあるいは
自分のものだとわかる印を書いておくということは,
人が集まって集団になるところでは,
必ず必要になることである。

自分のものと他人のものを区別するということは,
社会生活を営む上では,
とても大切なことなのである。

社会において,
この区別をあいまいにすることは,
トラブルのもとであるし,
極端に言えば,犯罪を誘発することもある。

このような大切な習慣を,
小学校低学年で
社会生活の基本としてきちんと教えているにもかかわらず,
その後の学校生活の中でなおざりにしてしまってはいないだろうか。
あるいは,そんなことはいちいち確認するまでもなく
当然やっていることとされているのだろうか。

一度,教室で確認してみて欲しい。
どのくらいの児童が,生徒が,学生が,
小学校1年生で習ったことを忠実に続けているかを。

そこに,学校教育の大きな問題が隠れている気がする。

授業びらき

2007-04-13 | 教育
私の場合,
なんとなく第一回目の授業は
ぎこちないのである。

新年度になって,授業を聞いている相手も変り,
教室も変り,それでもって,
こちらは,ひとつ年をとっているのである。

己の力不足を棚にあげて言うのもなんなんだが,
授業びらきのときには
つくづく
授業というものは,
教師だけでつくれるものではないと痛感するのである。
うまく言えないが,
教室にいる者すべての心の有り様や
心の通い合いといったようなものが
授業をつくっているのであろう。

授業びらきのときには,
まだそのへんがちぐはぐなのである。

新年度の学校だより

2007-04-06 | 教育
新学期の学校だよりには,
校長先生の所感が載ることが多いが,
いろいろな学校の学校だよりを見ていると,
校長先生が所感ではなく,
新年度に行うことや具体的な到達目標を列挙した
一種のマニフェストタイプのものが多くなった。

本当にこれでよいのだろうか。
もっと幅広く,校長先生の長い教師経験からくる人生観を
背景とした子どもや親への深い語りかけがあるべきではないのだろうか。

どうも最近の学校だよりを読むと,
殺伐とした気分になるばかりで,
豊かな気持ちにならないのである。

学校の「心」が見えてこないのである。


それは果たして教えることができるのか?

2007-04-03 | 教育
新年度がはじまる。

最近の教育論議を聞くにつけ,
なんでも教えれば,教えることができる,
教師さえ有能ならば,教えることができると
安易に考えられているように思われてならない。

また,マスコミに登場する教育カリスマたちが,
「私には教えられる」とやるものだから,
周囲は易々とそれに付き従う。

もしかしたら本当には教えることができないことも
たくさんあると思うのである。

「果たして,本当にそれは教えることができるのか?」と
いちいち問い直す必要があるのではないか。

例えば,
「徳は果たして教えることができるのか?」という
ソクラテスの問いは,未だ解決されていないのである。