プラトンの『メノン』は
「徳は教えられるか」という
メノンのソクラテスへの問いに対して,
徳が教えられるかどうかよりも
「徳とは何か」という問いがまず解決されるべきだと
ソクラテスが主張するところに
対話のひとつの中心的な論題がある。
(ここでの「徳」はアレテーであって,
いわゆる道徳の「徳」とは意味合いが異なる)
このことは,哲学的にはさまざまな問題を
提起しているのであろうが,
単純に,いまの学校教育に関する論議にあてはめてみると
おもしろい。
どんな問題にせよ,「とは何か」に関しては
全く論議されていないのである。
「どのようであるか」「どうしたらよいか」は議論されるが,
「とは何か」はどこにもない。
「とは何か」を問うても,答えが出るわけではなかろうが,
しかし「とは何か」を問う姿勢のない議論は不毛であろう。
「学力低下」「学校評価」「教員の質の低下」「道徳」,
「基礎学力」,何でもよい。「とは何か」を問うてみたい。
実は,教育論者は「とは何か」については,
明確な認識を持っていないのではないか,
そう思われてならないのである。
このことは,教育がますます悪しきドグマにおちいっていく
ひとつの原因となるのである。
「徳は教えられるか」という
メノンのソクラテスへの問いに対して,
徳が教えられるかどうかよりも
「徳とは何か」という問いがまず解決されるべきだと
ソクラテスが主張するところに
対話のひとつの中心的な論題がある。
(ここでの「徳」はアレテーであって,
いわゆる道徳の「徳」とは意味合いが異なる)
このことは,哲学的にはさまざまな問題を
提起しているのであろうが,
単純に,いまの学校教育に関する論議にあてはめてみると
おもしろい。
どんな問題にせよ,「とは何か」に関しては
全く論議されていないのである。
「どのようであるか」「どうしたらよいか」は議論されるが,
「とは何か」はどこにもない。
「とは何か」を問うても,答えが出るわけではなかろうが,
しかし「とは何か」を問う姿勢のない議論は不毛であろう。
「学力低下」「学校評価」「教員の質の低下」「道徳」,
「基礎学力」,何でもよい。「とは何か」を問うてみたい。
実は,教育論者は「とは何か」については,
明確な認識を持っていないのではないか,
そう思われてならないのである。
このことは,教育がますます悪しきドグマにおちいっていく
ひとつの原因となるのである。