学校教育を考える

混迷する教育現場で,
日々奮闘していらっしゃる
真面目な先生方への
応援の意味を込めて書いています。

机の上と足元をきれいにしよう

2007-03-28 | 教育
職場でのストレスを減らす方法をひとつ紹介したい。

職員室の机の上と足元に何もものを置かないことである。

もしも,今,机の上にファイルや書類が山積されているなら,
あるいは,足元にダンボールなどが置かれているなら,
年度末から新学期にかけてのこの時期,
一気に整理されてはいかがだろうか。

難しい場合は,
机の上のものをとりあえず
段ボール箱にすべて放り込み,
机の上に何もない状態をつくるのである。

しばらくはそのダンボールを身近に置いておき,
必要なものだけを取り出せばよいのである。
だいたいは,ほとんど必要のないものばかりである。

そして,数ヵ月後には,そのダンボールの
中身を改めた上で廃棄あるいはリサイクルするのである。

そして,新学期からは机の上に何もおかない状態で
がんばるのである。
デスクマットやレターケースやトレーも置いてはいけない。
デスクマットを置くと,
未処理書類をその下にすべりこませるくせがついて,
いつの間にか,机が平らでなくなる。
レターケースを置くと,
そのなかに未処理書類を入れてしまい,
入れたことを忘れて探し回る。
トレーを置くと,
そのなかに未処理書類がたまって
処理するのを忘れて,「しまった」ということになる。

とにかく机の上にある書類は,
すべてその日のうちに片付けてしまうのである。
どうしても未処理のものは,
机の下の大きな引き出しに入れて
頻繁にそこを見ることにすればよい。
(私は1件ごとにクリアファイルに入れている。
 終了後は必要最低限ファイリングするが,
 時系列で綴じるだけである。
 共有すべきファイル以外は内容で分ける必要はない)

またたくさん配られる書類は,
自分がどうしてももっていなければならない書類を除き,
もらって,チラッと見たあとは,
即座にかつ密かに
「シュレッダー」,「廃棄」または「リサイクル」などと書いた
角2の封筒に即座に入れてしまうのである
(机の一番下の引き出しに入れておくと目に付きにくい)。
その封筒に書類がたまったころ,処分するのである。

とにかく帰るときには
机の上に何も置かないことにするのである。

私の机の上は,
かつては全層なだれを何度も起こすほどの状態であったが,
上記の方法を周りの教師と共に実践し,
1年間を無事経過したのであるが,
全く不都合は生じなかった。
それ以来10数年,
未だに机の上には何も置かない主義である。

要するに,自分が持っていなければならない書類は
ごくわずかであって,だいたい机の一番下の引き出しに
収まる量なのである(もちろん子どもの成果物等,
一時的に保管が必要なものが増えることはある)。

机の上にものがなにもないとストレスが大幅に軽減される。
足元になにもないこともまた重要である。
足が伸ばせるとストレス度がだいぶ違う。

さらに,子どもに整理整頓をいうとき説得力が出てくる。

「机の上ってこんなに広かったのか」と思うほど
 広いのである。

おためしあれ。
(くれぐれも重要書類を捨てないように,念のため)

これからの学校に起こること

2007-03-23 | 教育
これからの学校に起こることで,
まだあまり問題になっていないように思えること。

いわゆる団塊の世代の大量退職によって,
教員の新規採用数が増加し,
教員の年齢構成が,ものすごく若返ってしまうことと,
諸々の教育改革で,
教員の多忙化が進んだため,
ベテランの教員が若手教員に指導のしかたを
教えるというような時間も機会もなくなっていることにより,
学校内部にあった教員の互助的なシステムが完全崩壊するということに
まだあまり一般には気づかれていないようである。

年齢が若い教員には,
理想に燃えている反面,現実が見えていないことがあったり,
また,日々起こってくる教室の諸問題に対して,
指導をためらったり,あるいは指導を急ぎすぎたりという
経験不足からくる未熟さがどうしてもある。

それを,励まし,なだめ,支えているのが
枯れた風情を漂わせているベテラン教員であって,
学校の教員の微妙なバランスの互助的な関係があったのであるが,
それが,なくなってしまうのである。

文部科学省や教育委員会や,
あるいは外部評価機関がいくらがんばっても,
学校内部のこのようなシステム崩壊が
不可逆的に起こっている状況では,
学校は,荒れることはあっても,
よくなることはないのである。

いまのところ,改善策は見当たらない。

義務教育は画一的であれ

2007-03-18 | 教育
義務教育は,
全国どこの学校でも全く同じように
授業が行われているのが望ましい。
地域の気候風土にあわせて,
多少の違いはあったとしても
極力画一的であるべきである。

それでこそ,
地域間格差も解消され,
学校間格差も解消され,
国民の基礎的な学力レベルが
平均的に維持できるのである。

そして,どんな教師が教えても
一定の効果があがるような
詳細な教授マニュアルが必要であるし,
教科書ももっと記述量を増やし,
親が読んでも,子どもに教えられる程度の
解説を盛り込んでおくべきである。
教科書さえ読めば,学校に行かなくても
授業内容については,意欲さえあれば,
十分学習できるだけの
内容と体裁を整えるべきである。
それでこそ,
多様な個性をもつ子どもに対して,
一定の基礎的学力をつけることができるのである。

ところが,現在の教育改革の方向性,
すなわち多様化や特色化,個性重視の方向性は,
義務教育が維持していたわが国の学力水準を
換骨奪胎して,ふにゃふにゃにしてしまう可能性が大なのである。

義務教育は,国民だれもが全く選択の余地なく,
どこの学校に行っても,どの教師に教わっても,
必ず身につく学習が行われる必要があるのである。
あくまでも,画一的に没個性的に行われるべきである。

義務教育の段階で,
優秀な才能などを見出す必要はないのである。
確実な基礎固めに徹すればよいのである。

ごく一部の優秀で独創的なエリートを見出すために
多くの子どもたちを愚鈍なままに放置したり
無意味な競争的環境に置いたりする
亡国的な教育政策は今すぐ辞めるべきである。

自分こそ優秀で独創的なエリートであると思い込んでいるような
政官学財界の連中の議論に決して耳を貸してはならない。
彼らこそ亡国の徒なのである。

義務教育段階に選択の自由などを導入することは,
選択の自由を享受できない大多数の子どもたちの
犠牲を生むだけだということに
もういい加減,気づいてもいいのではないか。

とにかく,少なくとも義務教育は画一的であるべきである。




「おかしも」と非常口

2007-03-12 | 授業の雑談
学校で火災などが発生したときの
避難の原則は,
「おかしも」であることはよく知られている。
つまり,押さない・駆けない・喋らない・戻らないである。

避難訓練などのとき,
その原則を守りつつ,非常口までくると,
非常口を示す緑色の絵文字(ピクトグラム)の人は,
非常口に駆け込んでいる姿なのである。

これを見て,
「こりゃたいへん,走らなきゃ」と思ってしまう
子どもはいないだろうか?
ちょっと心配である。

卒業式と礼法

2007-03-02 | 教育
卒業式のシーズンである。

卒業式となると,さまざまな礼法が問題になる。

国旗と校旗を掲げる場合には,
どちらを向かって右にするかとか,

卒業式を授与する場合は,
どちらの手から卒業証書を取り上げるかとか,
生徒はどちらの手からもらうかとか,

送辞や答辞を書いた奉書のさばき方とか,

式花の大きさはどの程度が適当かとか,

そういうことをその学校の伝統に従って,
自信をもって,
納得できる理由を添えて
答えられる教師がいる学校は
よい学校である。