学校教育を考える

混迷する教育現場で,
日々奮闘していらっしゃる
真面目な先生方への
応援の意味を込めて書いています。

キャリア教育を考える

2010-03-31 | 教育
キャリア教育の充実が必要だと言われている。
子どもに正しい職業観や勤労観を教育するのは,
とても大切なことである。
しかし,この場合の職業観とは,
「職業に貴賤なし」という言葉に
象徴されるような職業観であって,
決して,ある特定の職業に憧れを持つように
しむけるものであってはならない。
また,勤労観については,
どのような職業に就こうとも,
真面目に誠実に働くという意味での
勤労観でなくてはならないと思う。

すなわち,キャリア教育とは,
子どもの全人的な発達を促す教育でなければならず,
早くから自分のなりたい職業を決めて
それに向かって,すなわち夢に向かって
努力しようなどと呼びかけるような
浅薄なものであってはならないのである。

なぜなら,職業選択というものは,
子供たちの将来を考えた場合,
自分の意志で選び取ることができる場合というのは,
むしろ,まれであって,
その人を取り巻く諸般の状況が,
ある職業へと,その人を導いていることが多いのではないか。
西欧語で,callingとかvocationとかBerufという言葉のニュアンスが,
まさに職業というもののもつ特質である。
自分にはあずかり知ることのできない力によって,
導かれた場所こそが自分の場所であると考えて,
与えられた職業に専心することが大切なのである。

職業とは,
自分の意志だけで「選択」できるものではないのだということを
子どもたちに理解させ,
どんな場所でも力を発揮できるように準備させることが,
キャリア教育にとって
もっとも必要なことである。

そう考えてみると,
とりたててキャリア教育などと言う必要はなく,
人格形成を含めた学校教育の充実こそが,
真の意味でのキャリア教育をも包含するということになるであろう。


自分の言葉で語ること

2010-03-26 | 教育
教室で,
本当に自分の言葉で語れているだろうか。

その話は,どこかから借りてきたものではないか。
その話は,誰かが別のところで話していたことではないか。

自分の内面から自ら紡ぎだす言葉を
本当に持っているであろうか。

自分の言葉で語れる教師でありたい。

切に思う今日この頃である。


春休みにやるべきこと

2010-03-26 | 教育
春休みに入ると,
やれやれ今年も無事に終わったということになって,
終業式に,
子どもたちにありがとうございましたなどと言われていると,
今年度もなんとかうまく乗り切れたような気になって,
次の年度のことに頭が行ってしまう。

来年度はこうしよう,ああしようと,
新たな気持ちで,
さまざまに思い巡らすのは楽しいことである。

しかし,本当に大切なのは,
今年度一年間を本当の意味で振り返ることではないか。
今年度苦しい思いをしたことやうまくいかなかったことを
もう一度じっくりとかみしめることなしには,
本当に来年度やるべきことは見えてこないのではないだろうか。

国立大学法人附属校の意味

2010-03-14 | 教育
国立大学法人附属の学校というのがいくつかある。

これらは,
いわゆる大学の教育学部附属の実験校である。

その実験は,
先進的な学校教育の在り方を模索するための実験であろう。

しかし,その実験の成果を生かす場が,
果たして本当にあるのだろうか。

一部の実験目的が特殊化した学校を除いては,
これらの学校に通う児童生徒のレベルは,
極めて高い。
なぜ,そのようなレベルの高い児童生徒を集めるのか,
理解に苦しむ。
レベルの高い児童生徒が集まったのでは,
エリート教育の実験をするのでなければ,
実験は全く無意味なものとなる。

にもかかわらず,
全国の学校に,
それらの学校で実験した成果を
普及させようとでも思っているのであれば,
事実,そうでなければ,
これらの学校の存在意義はないのであるが,
これらの学校での実験結果をふつうの学校に適用するのは,
はなはだ無謀である。

これらの学校でうまくいったからといって,
ふつうの学校ではうまくいかないのである。

それらの学校で成功した新しいやり方が
学習指導要領などに盛り込まれた例がいくつかあるが,
それらが,
ふつうの学校にとって如何に負担であり,不合理であったか,
冷静に考えてみれば,
その功罪は明らかである。
このような実験は,
一般の学校でやるほうが
よっぽど意味がある。

もし,それでも国立大学法人附属の学校で
全国の学校に普及させるための実験を
行いたいのであれば,
ただちに,
入学試験を撤廃し,
一般の公立学校と同じように,
その学校付近の子どもたちを
無差別に受け入れるべきである。

それができないのであれば,
国立大学法人附属の学校やその教員を
少なくとも
学習指導要領や教科書の編纂に
関わらせるべきではない。
教育感覚が一般とはずれているからである。

国立大学法人附属の学校は
何のために存在しているのか,
果たして,いまのかたちで
税金を投入してまで維持する必要があるのか,
もう一度考え直すべきであろう。