学校教育を考える

混迷する教育現場で,
日々奮闘していらっしゃる
真面目な先生方への
応援の意味を込めて書いています。

センター試験の不思議

2010-01-22 | 教育
もう大学等進学率が5割を超えて,
大学の多様化や個性化が唱えられているのに,
1980年代の共通一次試験から連綿と続く伝統を誇るセンター試験が
いまだにおこなわれているのはとても不思議である。

あれは,もともと大学入試の難問奇問を避けるためや
過酷な入試競争の緩和のために構想されたものではなかったか。

もう,あのような統一テストの必要な時代は去ったのではないか。

いまは,当初の理念をはなれて,センター試験は便利に使われている。

センター型入試などといって,
センター試験を受けて,大学に願書さえ出せば
判定されるというのがそれである。
センター試験さえ受験生に受けさせておけば,
大学は,自前で入試を作成し管理する手間を完全に省くことができる。
便利な制度である。

大学が個性を出したいのであれば,
広報や宣伝にばかりお金をかけるのではなく,
独自の入試のやり方で,
大学の教育理念をアピールするべきではないだろうか。

それでは受験生が集まらないというのであれば,
すでにその大学の存在価値は失われているのである。


連携?

2010-01-11 | 教育
最近は,校種間の連携論議が盛んであるが,
この議論もまた危ういものである。

幼保連携,幼小連携,小中連携,中高連携,高大連携,
幼小中連携,中高大連携などなど,
連携も出尽くした観がある。

学校を分けたのは,それ相当の考えがあって行われているもので,
歴史的な背景があって決まってきているものであり,
また,義務教育であるかそうでないかなど,
制度的な制約もあって決まってきているものである。

どちらかといえば,教育的な理由で決まっているというよりも,
制度的な枠組として設定されてきたものだと考える方が自然であろう。

この制度的な枠組を,
教育的な観点から乗り越えようとする連携論議には
正直言って無理がある。

このような連携論議は,現場に負担を強いる結果になるに過ぎない。
どのような校種間であっても,連携すればそれなりの成果がでるであろう。
例えば,誰も提案しないが,保大連携など極めて有効であろう。
保育園は大学生のマンパワーを利用でき,大学生は子育ての擬似的体験ができる。
若者が幼児に接することは,少子化対策にも有効かもしれない。
というように,連携は,どんな連携であっても,その成果を認めることはできる。

しかし,連携のために割かれる時間的あるいは労力的な教員の負担によって,
従来の教育に割かれていた時間あるいは労力は減少するのは道理である。

例えば,さきほどの保大連携にしても,その欠点を指摘することは容易である。

どうしても,連携が必要なものが果たしてあるのであろうか?

最近話題になっている小1プロブレムの解消のための,
幼小連携についても,論理の立て方がおかしくはないか。

なぜ,現在小1プロブレムということが問題化しているのか。
もし,かつてはそのような問題がなかったというのであれば,
学校は,かつてのやり方に戻せばよいだけである。

社会的な環境が変わったというのであれば,
社会全体で対応するべきであって,
施設についても人材についても,
潤沢な支援が与えられているわけでもない学校に
その対策を求めるのは無茶というものであろう。
それに,学校が連携等の対策をとったとしても,その成果は限定的であって,
(ただし,その成果は大規模に宣伝されるであろうが)
本質的には,社会的な問題全体を解決する力には成り得ないであろう。

現在,連携が必要とする議論は,
すべて校種間の接続に問題があるとするものであるから,
論理的にみて,その問題を解決する手段は,
目指すべきは「連携」などではなく,「一体化」である。
校種さえなければ,接続には問題は起こらない。
つまり,保幼小中高大を一つの学校にしてしまえばよいということになる。
それができないというのであれば,
校種間の接続などを「連携」などという問題に帰着させるべきではない。
それは,「連携」の問題ではなく,各学校種内部で解決すべき問題に過ぎない。

それを「連携」などという目新しい用語で対策を立てようとするのは,
その裏に教育的ならざる要因が隠されているからではないかと
勘ぐりたくなるのである。