学校教育を考える

混迷する教育現場で,
日々奮闘していらっしゃる
真面目な先生方への
応援の意味を込めて書いています。

世界史未履修問題を考える その4

2006-10-30 | 教育
世界史未履修,
いわゆる履修漏れあるいは履修逃れといわれている問題についての
論調のなかに,
学校週5日制になったことと,
総合的な学習などが増えたことで,
学習指導要領に従ったカリキュラムの実施が困難であるかのような
発言が見られる。

摩訶不思議な発言である。

現在の学習指導要領は,
学校週5日制でかつ総合的な学習を組み込んだことを
前提としてつくられており,
学校の自由裁量も大きく認められている
とても柔軟性の高い学習指導要領なのである。

時間割上で,
世界史をはずさなければならないほどの窮屈さは
全くないはずである。
受験対応も,学習指導要領の範囲内で
十分にできるはずである。
さらにやりたければ,放課後の補習でもなんでも組めばよい。

したがって,「受験のため」でもなく,
カリキュラム編成上の不都合でもなく,
さらに以前述べた地歴科のパワーバランス問題でもなければ,
要は,
「受験に必要のないものは学びたくない」という馬鹿げた風潮を
学校が追認してしまっただけのことではないのか。

にほんブログ村 教育ブログへ 人気blogランキングへ
応援してくださる方は,上のふたつのクリックをよろしく!



世界史未履修問題を考える その3

2006-10-29 | 教育
報道を聞いていて,情けないと思う。

なぜ履修漏れがあるのかというと,
「受験のためによかれと思って」という理由なのだ。

これは責任転嫁である。

教育課程というものは,
その学校に通う生徒を最大限成長させるために
学校が心血を注いでつくりあげるものである。

校長は,たとえそれが無茶な理屈であったとしても,
「本校は,この教育課程が今でも最善であると信じている。
 したがって,学習指導要領に反しているといわれようとも
 本校の教育はこれでよいのである」
と,言い切るべきである。
そう言い切って,すべての責任や非難を負うべきである。

見つかったら頭を下げなければならないような
卑屈な教育課程は,
最初からつくるべきではなかったのである。

にほんブログ村 教育ブログへ 人気blogランキングへ
応援してくださる方は,上のふたつのクリックをよろしく!



「受験」を考える

2006-10-29 | 教育
生徒にとってみれば,
「受験」ということは重大なことであろう。

しかし,生徒にとって重大なだけで,
その生徒の通う学校にとっても,保護者にとっても
本当は重大な問題ではないのである。

受かっても落ちても,それなりに人生は開けていくものであるし,
最終的にどちらがよかったかなどは,案外わからないものだということを,
長い人生経験から大人は知っているであろう。

学校や保護者は,受かったらともに喜び,
落ちたら,励ましてやればよいのである。

要は,受験というものは,
受験した学校側が,
その生徒のその学校に対する入学適性をはかっているに過ぎない。

受験する者の心得としては,

落ちたときには,
その学校にご縁がなかったというにすぎないのである。
視点を変えれば,自分を合格にしないような見る目のない学校は
こちらからお断りという気分でいるとよいのである。

受かった場合でも,
自分は受かったけれども落ちてしまった人がいるのだから,
あるいは,受験したくても,
さまざまな事情で受験すらできなかった人もいるのだから,
その人の分までしっかり励まなければならないと
気をひきしめるべきである。

ともあれ,
受験を一歩下がってみていることが,
実は,大人の役割なのではなかったか。

ところが,受験の成果が学校間競争の材料となり,
学校までもが受験の合格を最大目標とするようになってしまうことで,
今回の未履修問題のような馬鹿げたくだらないことが起こるのである。

保護者にしても,自分が競争の主体ででもあるかのように
血眼になって受験の合格をめざして行動してしまうのである。

学校も保護者も,競争の当事者になるべきではない。
受験で競争しているのは,生徒だけである。
声援を送るものは,レースに参加してはいけないのである。

学校には学校として為すべきことがあり,
保護者は保護者として為すべきことがある。
それは,決して受験の主体となることではないはずである。

にほんブログ村 教育ブログへ 人気blogランキングへ
応援してくださる方は,上のふたつのクリックをよろしく!




世界史未履修問題を考える その2

2006-10-27 | 教育
世界史未履修問題が拡大の様相を見せている。

別の面から,この問題を考えてみたい。

高等学校の地歴科(もと社会科)教師は,
それぞれ,日本史が専門とか世界史が専門とか地理が専門とか,
自分の専門分野をもっているものである。
ときには,専門外の科目を受け持つことがあったにせよ,
それは普通かなりの苦痛を伴う。

世界史が必修になる前の学習指導要領は,
日本史も世界史も地理も仲良く選択科目であった。

その意味では,均衡がとれていたのである。

世界史必修化は,この地歴科(もと社会科)教師の
パワーバランスを崩したのである。

世界史教師は「当然のこと」とうなずき,
日本史教師は憤慨し,
地理教師はためいきをついたものである。

この力の均衡を崩すことを避け,
平和を保つためには,前の学習指導要領の方式のほうがよいという
判断にひっぱられることにもなろう。

これに,受験というファクターが加わって,
今日の問題につながっているのではないか。

それにしても,
世界史が必修になったのはずいぶん前の話である。
なぜ今,この問題が浮上しているのであろうか?
この問題は,最近起こったことなのだろうか?
謎である。

とにもかくにも,この問題をきっかけに
世界史必修はやはり無理があったという論調にでもなり,
やはり,必修は日本史に限るという議論にでもなるのだろうか??

地理教師は,またもためいきをつきそうである。

にほんブログ村 教育ブログへ 人気blogランキングへ
応援してくださる方は,上のふたつのクリックをよろしく!

世界史未履修問題を考える

2006-10-25 | 教育
昨日来,高等学校における世界史の未履修問題が
報道されている。

どうやら,受験科目にしぼって
合理的に学習させるためだったようである。

高等学校とは,もっと誇り高いところではなかったか。

高等学校は,
受験に有利か不利かなどという姑息なことに
惑わされるものではない。
受験などしたければ,勝手にするがよい。
高等学校は,もっと意味のある教養を身につけるところ。
受験科目か否かに関わらず,あらゆる科目を学ぶべし。

それが,かつて高等学校が標榜した
教養主義の姿ではなかったか。

受験予備校と化した高等学校は,
高等学校の看板を下ろすべきである。

学校がいじめに対してできること

2006-10-23 | 教育
学校として,いじめと対応する方法を考えてみた。
ひとつの可能性として提示するだけなので,鵜呑みにしないでいただきたい。
また,この方法は,教員集団のチームワークがとれており,校長あるいは管理職の
指示が的確に教員に浸透するような学校,教師と生徒と保護者の基本的な
信頼関係が築かれている学校でなければできない方法である。

まず年度当初が肝心である。
職員会議,保護者会などで,校長は以下にあげることを,
教員・保護者・生徒に共通理解させなければならない。

1 いじめとは何か。すなわち,いじめの定義。
2 いじめは常に起こりうるということ。
3 学校は,「いじめは加害者が100%悪い」という方針をとること。
  いじめられる側にも問題があるという発言を絶対にしないこと。
4 学校管理下におけるいじめは,加害者および学校の責任であること。
5 いじめを疑わせる兆候を発見した段階で,保護者と連携をとること。
6 いじめが犯罪を構成するレベルのものであった場合には,
  すみやかに警察と連携をとること。
7 いじめに対する指導の方法は,保護者の希望を優先すること。
  ただし,教師の適切な介入なしには,いじめは解決しない。
8 学校の生徒の机,ロッカーその他については,学校の管理下にあること。
  したがって,教師がその中を点検する権利があること。
9 いじめの加害者については,重い懲戒が加えられること。
10 それでもなお,学校も保護者も気づかないいじめがありうること。

そして,日常的には,教師は,学校の環境整備や美化に努め,
生徒の所持品,服装等の変化,友人関係の変化について,
敏感でなければならない。また,いじめは許さないということを
常日頃から言い続けていなければならない。

さらに,いじめの発生を疑わせる兆候があったとき,
あるいは,保護者からいじめがあるのではないかと相談があったときは,

1 できるだけ事実を収集する。
  被害者と思われる生徒への面談が主になるが,この段階で安易に
  他の生徒に聞くことには慎重でなければならない。観察によって,
  事実を収集することが望ましい。この段階から,休み時間等も
  生徒が教師の目を離れるすきがなくなるように,教員集団は
  シフトを組んで対応する。
2 すみやかに保護者といじめに対する対応を協議する。
  その際,保護者が,「いじめがエスカレートするといけないので,
  学校は何もしないで見守ってほしい」と言うことがあるが,
  その方法では,いじめは解決しない可能性が高いこと,なにもしないで
  見守るという対応で,いじめが悪化した場合,学校としては
  責任をもてないことをはっきりと伝える。
3 いじめ対応は,被害者対応が主となる。少なくとも被害者が信頼している
  教師がケアを担当する。担任に不信感を抱いている場合は,他の教師,
  管理職などが担当することが適当である。毎日の面談等が有効である。
  なお,さらに担当する教師には,学校において生徒から権威者として
  認められていることが必要である。
  被害者である生徒には,毎日いじめの有無を報告させる。今度いじめが
  あったと認められた場合が指導のチャンスである。
  (この段階で,いじめが終息していくケースもある。)
4 被害者に対して専門的な精神的ケアが必要な場合には,保護者の了解の下,
  すみやかにカウンセラー,医師等と連携をとる。
5 加害者に対する指導は,事実を正確につかんでからが望ましい。
  中途半端に指導にはいってしまうと,逆効果である。
  事実を明らかにし,その事実を認めさせたうえで,
  加害者には所定の懲戒を行う。その際,加害者に弁明の機会を
  与える必要がある。懲戒については,必ず懲戒権者である校長が行う。

この方法は,いじめが発生した段階において,生徒自身が話し合い等で,
自主的あるいは民主的に解決していく力があるということは想定していない
方法である。

いじめが発生したときは,初期の対応の遅れが状況を悪化させる。
それゆえ,民主的あるいは自治的な方法をとることができないのである。

いじめ対応は,学校事故・事件対応に準じて行われるべきものだと
私は考えている。

すべての子どもに高い学力??

2006-10-21 | 教育
安倍首相が所信表明演説で語ったフレーズがどうもひっかかる。

いろいろひっかかってはいるのだが,
いちばんひっかかっているのが,
「すべての子どもに高い学力と規範意識を身につける機会を保障するため、
 公教育を再生します」というくだりである。

そのなかでも特に,
「すべての子どもに高い学力」というのがひっかかる。

まず第一に
「高い」という形容詞であらわされている学力レベルは,
いかほどのものなのか,全く分からない。
極めてあいまいな表現であってその意図する内容が不分明である。

通常の感覚でいうならば,
すべての子どもに「高い」学力を身につけさせることは不可能である。
したがって,そのような機会を保障することも不可能である。

すべての子どもは,教育基本法では,
ひとしく,その「能力に応ずる」教育を受ける機会を保障されているのであって,
「高い」学力を身につける機会を保障されているわけではない。

耳ざわりのよい言葉なので見逃されがちであるが,
「すべての子どもに高い学力」という言葉は,
空虚な宣伝文句としての意味しかもたず,
もしそうでないとすれば,
教育というものの機能を根本的に読み誤った言葉である。

さらに「すべての」子どもの所与の資質が,
「高い学力」でくくられるものではないことに対する
想像力が全く欠如している。

「高い学力」はせめて,
「生活に必要な最低限度の基礎学力」程度が限界であろう。

とにかく,このような雑駁な考えで
公教育をいじるのはやめてもらいたい。

にほんブログ村 教育ブログへ 人気blogランキングへ
応援してくださる方は,上のふたつのクリックをよろしく!

美しすぎる学校

2006-10-19 | 教育
これは,近未来予想のパロディーである。
ご容赦願いたい。

20××年,ついに美しい国の美しい人づくりをめざす
美しすぎる学校が誕生した。

美しすぎる学校の美しすぎる入学式における学校長告辞

「本校は,美しい人づくりをめざす美しすぎる学校であります。本校に入学できるのは,美しい人になる可能性をもった人だけであります。皆さんは,美しい人になる可能性をもった人たちなのです。今年も,本校の評判を聞いて,多くの保護者の方々が,教育バウチャー券を手に,本校に押し寄せていらっしゃいました。しかし本校では,美しくなりそうにない方の入学はお断りしております。また入学を許可された方でも,美しくなりそうにないことが判明した場合には,即座にお引取り願うことになっております。本校は,美しすぎる学校ですから,その美しさと競争力を維持するためには,美しくない要素は徹底的に排除せざるを得ないのであります。学力につきましては,生徒の皆さんに美しく学力をつけていただくために美しい教師陣をそろえております。しかしながら,その美しい教師陣の力をもってしても美しくならない生徒さんには,本校の美しさを損ない,他の美しい生徒さんの不利益になるおそれがありますので,お引取り願います。もちろん,バウチャー券はお返しいたします。また,美しいということは,人に見られてはじめて美しいという評価をいただけるわけであります。したがいまして,このほど義務化されました奉仕活動につきましても,本校では,美しく映える,目でみて美しい奉仕活動に限定させていただいております。誰も見ていないところで奉仕の精神を発揮するなどということは,誰も美しいかどうかの判断ができませんので,本校においては全く意味をもたないのであります。とにかく,美しくなければならないのです!人に美しいと評価されたものが勝ちなのです!競争には勝たなければなりません!そのためには,美しさを追求しなければなりません!本校では,美しくないものは徹底的に排除します!ただし,例外として,美しくないものでも,将来美しくなりそうなものは一定限度まで許容しています。なぜなら,こつこつまじめにやりつづける目立たない生徒よりも,一回ぐれてそこから立ち直ってめざましい進歩をとげる生徒のほうがより美しく見えるからであります。さらに,教師にしても,最初から教育職に身を投じ専門職としてこつこつ目立たずやってきた先生よりも,何らかの異業種で成功をおさめ,教育に問題を感じてしまってちょっと教育に物申してみようかというような方のほうが,より美しく見えますので,そのような先生を優先的に採用しております。とにかく,本校においては,美しく見えるということが最高の価値であります!本校にお集まりの保護者の皆さん,生徒諸君,みんな今日は本当に美しい!美しすぎる!これから,より美しくなっていきましょう!以上!」(万雷の拍手)

にほんブログ村 教育ブログへ 人気blogランキングへ
応援してくださる方は,上のふたつのクリックをよろしく!

いじめと自殺

2006-10-19 | 教育
いじめは絶対にいけない。

自殺は絶対にいけない。

そのことを今,
大人は子どもたちに真剣に伝えなければならない。

理屈ではない。

にほんブログ村 教育ブログへ 人気blogランキングへ
応援してくださる方は,上のふたつのクリックをよろしく!

へたくそ

2006-10-16 | 教育
教師がどんなにまずい授業をしたとしても
子どものなかには,そのまずい授業のなかから
成長の糧をみつけて,伸びてゆく者が必ずいる。

しかし,その成長は,授業のよさとは関係ないのである。

単に,授業のまずさに
子どもの成長する力が勝っていたということである。

長年教師をやっていると,
これを誤解して,
授業がうまくなったと錯覚してしまうことがある。

冷静に考えてみると,
確かにある面ではうまくなったのかもしれないが,
ある面ではうまくなくなったところもあるのである。

「いい先生」と呼ばれ,「先生は授業がうまい」と
言われるようになったなら,
これは悪魔のささやきと心得るほうがよい。

基本的には,昔も今も,そうかわりはなく,
やっぱり「へたくそ」なのである。

にほんブログ村 教育ブログへ 人気blogランキングへ
応援してくださる方は,上のふたつのクリックをよろしく!

入学試験,旗色を鮮明に

2006-10-15 | 教育
ひところ,大学生の学力低下が話題になったことがある。
分数計算ができない大学生がいるというような話であった。

このことを入学試験のあり方という観点から
ちょっと立ち止まって考えてみたい。

そのような大学生も入学試験で合格しているのである。
つまり,大学自らがその学生の学力を,
大学教育に耐えうる学力であると認定しているのである。

大学生の学力低下を嘆くのであれば,
それよりも先に
大学自らが,自らの入学試験における選抜能力のなさをこそ嘆くべきである。

昨今,入学試験が,
入学試験本来の機能を見失っているような気がしてならない。

入学試験というのは,
校種を問わず,第一義的には,
その受験者が,
その学校で学ぶ力があるかどうかを判定するためのものであって,
入学人数調整のために行われるものではない。

もしも,学力が低下することがいけないというのであれば,
入学定員充足というようなことは度外視して,
ある一定の満足できる基準で,合否を決めるべきである。
その結果,「入学者なし」とか「1人」とかいうこともありうるわけである。
このような態度で入学試験を行う場合のみ,
入学者が減少したことをもって,
世の学力低下を問題視することができるのである。

もしもそれが経営的な面その他の理由で不可能であるというのならば,
学校が,学力の不足した受験生をあえて受け入れたわけであるから,
少なくとも,その学校自身は学力低下を嘆くわけにはいかないはずである。

筋を通すということが,学校には必要ではないだろうか。

入学者の質を維持することが大切なのか,
入学者を確保することが大切なのか,
二兎を追うことはできない。

入学試験を行う学校は,旗色を鮮明にすべきである。

にほんブログ村 教育ブログへ 人気blogランキングへ
応援してくださる方は,上のふたつのクリックをよろしく!

「問い」に「答える」

2006-10-11 | 教育
一般的に授業では,教師が問い,子どもが答える。

しかし,今,本当に「問い」に「答える」ということが
教えられているであろうか。

「問い」に「答える」とは,
問われていることに対して,答えるということである。

問われていることでないことを,子どもが発言した場合でも
それを容認していないだろうか?

問われていないことを,子どもが発言した場合は,
きちんとそれを制するべきである。
たとえ,それがとてもよい着想をもつような発言であった場合でも
制するべきである。
あるいは,「それは,いま先生が聞いていることとは違いますが」
と言ってから取り上げるべきである。
ただ「いい考えですね」と言ってしまってはいけないのではないか。

問われていないことを答えるのは,
問われていることが何か分からない場合か,
もしくは,問われていることはわかっているけれども
それよりも言いたいことがある場合である。

前者の場合は,分かるように教え考えさせる必要があるが,
後者の場合は,単なるわがままである。

この後者のケースが問題なのである。

せっかく子どもが考えたことだからなどと
このような発言を容認していると,
ひとりよがりな発言をしてもよいのだということを
子どもは学習してしまう。

このような習慣を子どもが身につけてしまった場合には,
話し合いにおいてもルールが成立しなくなり,
そもそもコミュニケーション自体が成立しなくなるのである。

コミュニケーションとは,
言いたいことを言うことで成立するのではなく,
相手を慮り,
相手の問いに正確に答えようとすることによって成立するのである。

厳密に,「問い」に「答える」ことを教えることが
今,必要ではないだろうか。

にほんブログ村 教育ブログへ 人気blogランキングへ
応援してくださる方は,上のふたつのクリックをよろしく!

「生き残り」をめざすあさましさ

2006-10-08 | 教育
少子化がすすみ,
かてて加えて学校選択制などが大幅に導入されるようになると,
どうしても,「ひとりでも多くの生徒に来てもらえる学校を!」
「危機感をもて!」「生き残りをかけてがんばろう!」などという
声が聞こえてくるようになる。

あさましいことである。

しばらく立ち止まって考えてもらいたい。
よい教育をするのは,生徒を集めるためだろうか?
生き残るためだろうか?

学校の栄枯盛衰には,複雑な要因が作用している。
必ずしもよい教育をしている学校が栄えるとは限らないのである。
「時に利あらず」ということもあるのである。

ともあれ,生徒が集まるかどうかは,結果に過ぎない。
いま学校にいる生徒の成長のためによい教育をしたいというのが
学校の願いであり目的なのである。

この目的と結果を混同したとき,教育は腐敗する。

考えてもみよ。
本当なら今いる生徒の教育に使われるべき資金や労力が,
どれほど生徒募集のためにさかれなければならないのかを。

ある先生から教えてもらったことで,
感銘を受けたことがある。

曰く,
「その学校自らが信じたよい教育を実践して,
 それが世に受け入れられないときは,
 その学校の社会的使命が終えたにすぎない。

 学校が生き残るかどうかなどが問題なのではない,
 ただひたすら目の前の子どものために
 正しいと信じた教育をするのが,
 教師本来の姿である。」

にほんブログ村 教育ブログへ 人気blogランキングへ
応援してくださる方は,上のふたつのクリックをよろしく!

「教師の質の低下」論のトリック

2006-10-08 | 教育
「最近の教師は,質が低下している。」
と聞くと,誰もがそういえばそうかもしれないと思ってしまう。

ところが,「最近の○○は,質が低下している。」の
○○の部分にいろいろな職業を入れてみてほしい。

ほとんどの場合,
なるほど,そういえばそうかもしれないと思えてしまうのである。

これは,一部の事実を全体に敷衍して捉えやすい,
また,過去の事象を現在の事象よりも美化して捉えやすい人間の精神性を
利用した一種の論理のトリックである,とも考えられるのである。

にほんブログ村 教育ブログへ 人気blogランキングへ
応援してくださる方は,上のふたつのクリックをよろしく!

選択科目という不思議

2006-10-06 | 教育
選択するという行為は,
通常,自分がよりよいと判断したものを選び取る行為である。
だとすれば,AとBというふたつからAを選択する場合,
AがBよりも選択者にとってよいという判断が働いたことになる。
なぜそのような判断ができるかというと,
AとBについての知識があり,
Aの特質とBの特質を比較することが可能だったからである。

たとえて言えば,目の前に出された饅頭と煎餅のうち,饅頭を選んで
手を伸ばし,うまいうまいと食べることができるのは,
饅頭の味と煎餅の味をあらかじめ知っていることが前提となる。
そして,その味を比べて,いまは饅頭の味を欲したわけである。

ところが,選択科目というものは,
選んでみなければ,その内容がわからないのである。
選択に際しての簡単な説明を聞いてわかるくらいなら,
わざわざ選んで学ぶ必要はなくなってしまう。
たとえば,高校の世界史Aと世界史Bは
歴史の捉え方自体が異なっているのだが,
その内容というよりも,単位の数や受験での優位性というような
本質的ならざる部分で選ばれていくのである。
また,最近の大学の選択科目は,
科目名に学問の名前がついていないことが多い。
多岐にわたるユニークな名前がついていて,
内容が想像しにくいのである。
畢竟,単位のとりやすさや
時間割にまとまった空き時間をつくれるかどうかというような
本質的ならざる部分で選ばれていくのである。

選択科目を選ぶという行為は,通常の場合の選択とは異なり,
内容の本当には分からないものの中から選ぶという極めて
冒険的な行為なのである。
饅頭のように甘いものだと思って選んで口に入れたところが,
煎餅のように固くてしょっぱかったということがありうるのである。

よって,選択科目を増やすということは,
個性に応じた教育でもなんでもなく,
選択の能力のない者に,選択を強いているに過ぎず,
結果的には,
学ぶべきものを学ぶチャンスを減らすにすぎない。
教師は,学ぶべきものを,きちんと必修として
選択の余地なく,与えていくべきである。
それが本当の生徒への愛情である。

できれば,高校段階までは,選択科目を極力減らし,
必修科目を増やすべきである。

大学生でさえ,科目の選択に際して
「こんなはずじゃなかった」ということは
ままあるものなのである。

にほんブログ村 教育ブログへ 人気blogランキングへ
応援してくださる方は,上のふたつのクリックをよろしく!