教育とは,
子どもに内在する可能性を引き出す営みであるという
言説が,あたかも絶対の真理であるかのように
浸透しているが,ここに誤りはないのだろうか。
子どもが,さまざまな面に関して可能性をもっているのか,
もっていないのかは,その可能性が実現しない限り,
わからない。
ある能力が開花した場合,もともとその子どもに
その能力を開花させるべき可能性があったのだということが
追認できるとしても,
開花していない能力の,可能性があるかないかを
判断することは無謀である。
ましてや,子どもがあらゆる可能性を秘めているのだと
考えるのは,ファンタジーに過ぎない。
とすると,
学校教育において教師は,
子どもの可能性に依拠した教育はしてはならないと
いうことになる。
そして,義務教育においては,
子どもの可能性の有無にかかわらず,
社会生活に必要な必要最低限度の
知識を身につけさせることが
第一の役目であるということになる。
そして,その教育方法は,
子どもの主体性を重視した「支援」などではなく,
子どもの主体性の有無にかかわらず,
「指導」することであるということになる。
子どもの可能性が明らかになり,
子どもの主体性も明らかになり,
そして,その可能性を伸ばす段階,
すなわち高等教育の段階にまで至れば,
「支援」もよいであろう。
しかし,初等中等教育においては,
「指導」が必要なのである。
初等中等教育における
「支援」という言葉の跋扈が,
学力保障を難しくしているのではないだろうか。
子どもに内在する可能性を引き出す営みであるという
言説が,あたかも絶対の真理であるかのように
浸透しているが,ここに誤りはないのだろうか。
子どもが,さまざまな面に関して可能性をもっているのか,
もっていないのかは,その可能性が実現しない限り,
わからない。
ある能力が開花した場合,もともとその子どもに
その能力を開花させるべき可能性があったのだということが
追認できるとしても,
開花していない能力の,可能性があるかないかを
判断することは無謀である。
ましてや,子どもがあらゆる可能性を秘めているのだと
考えるのは,ファンタジーに過ぎない。
とすると,
学校教育において教師は,
子どもの可能性に依拠した教育はしてはならないと
いうことになる。
そして,義務教育においては,
子どもの可能性の有無にかかわらず,
社会生活に必要な必要最低限度の
知識を身につけさせることが
第一の役目であるということになる。
そして,その教育方法は,
子どもの主体性を重視した「支援」などではなく,
子どもの主体性の有無にかかわらず,
「指導」することであるということになる。
子どもの可能性が明らかになり,
子どもの主体性も明らかになり,
そして,その可能性を伸ばす段階,
すなわち高等教育の段階にまで至れば,
「支援」もよいであろう。
しかし,初等中等教育においては,
「指導」が必要なのである。
初等中等教育における
「支援」という言葉の跋扈が,
学力保障を難しくしているのではないだろうか。