ここのところ、戦前の教科書などをいろいろと見る機会があったのだが、現代の教育にはやはり足りないものがあったのではないかと思うようになった。
それは端的に言うと、教育の伝統の継承が行われていないということにある。まず何のために学ぶのか、という意味付けが現代の教育は弱いのではないかと思われるのである。
日本の歴史をたどると、勉強や学問は人格の陶冶と直結している。学ぶのは己を人格的に鍛えるためである。そして、勉強の成果は、刻苦勉励の証とされていたように思える。すなわち、どんな人も人格の陶冶をめざして努力精進するそのことが大事だということである。
昔の日本には、孝義録と言われるものがあった。そこには、名もない市井の人々の善行が集められており、功成り名を遂げた人物だけでなく、貧しくても能力がなくても善い行いをした人物が讃えられるべきであるとする思想を見ることができる。
能力よりも努力を、学力よりも人格を、成果よりも過程を重視する思想が、日本には昔からあったように思われるのである。これは長い歴史のなかで育まれてきた知恵であろう。
現代の教育や社会風潮をみるにつけ、いかに学力を伸ばすか、いかにこれからの社会にとって有用な人材をつくるかというような卑小な事柄に教育論議の焦点がおかれ、能力が高く成果をあげた人間が尊いかのような考え方が露骨になってきたことをみるにつけ、何だか薄っぺらい時代になってしまったなと感じる今日このごろである。
老人の戯言と聞き流していただきたい。
ブログの内容から外れてしまいすみません。
親も薄っぺらい表面上の成果主義社会にどっぷりつかり、毎日、子どもそっちのけで「忖度」に邁進。
メディア(テレビや漫画・雑誌)でも、自由をはき違えた「暴力はカッコいい」「ルールを破るのはカッコいい」という、誤った低俗な情報を、子どもたちに布教しつづける。
一方で、こういった「メディア」や「親」は、自分の子どもが思い通りにいかないことを「教員が悪い」と、己の所業を顧みず、平気な顔して文句を言う。(そんな親だから当然でしょうが。)
この「人任せ、無責任教育」を思想こそが、私も含む日本人全体が目を背けている現実ではないかと。
「教育」は、本来「協育」であって、『子供の人格は、地域・社会全体が育てる』と言う考え方に、日本人全員が変えないと、子どもは、学校より家にいる時間が長いのですから。
だから、文句を言う「メディア」や「親」にこそ伝えたい。(まず考えてほしい)
・「メディア」は、学校の悪いニュースを出す前に、「くだらない情報を布教しない」と言う努力をしてはいかがでしょうか?
・「親」は、リモートワークは「子供が暴れて大変だ」「面倒くさい」などよく聞くが、それを躾けるのが親の仕事。その努力をしてはいかがでしょうか?
また、子どもが学校に通うまでに、「学ぶ姿勢」を、身に付けさせましたか?
「それができないのが、現代でしょう?」と。
学校は、託児所ではなく、学びの場。 先生方は「学びのプロ」であり、託児のプロではないのです。
親が「学校は選べない」。
はい、今の日本の義務教育はそうですね。
ただ、学校だって「子どもを選べない」。
先生だって、親に対して「リコール請求したい子ども」は、きっと沢山いるでしょう。
ただ、学校も変わらないといけないのは事実です。
「無駄な家庭訪問はなくす。」「電工掲示板で情報共有し、朝礼は廃止する」など、おそらく、
今、これを見た学校(教員~校長)のほとんどが、「そんなの無理に決まってるでしょう??」と思われたかもしれません。
それこそが、教員の「思考の停止」であります。
狛江第三小学校のように、上記の取り組みをされている学校もありますよ。
だから無理ではないのです。
https://president.jp/articles/-/46072?page=4
文部科学省もこういった取り組みを使用とされています。
とは言え、そこに当然「忖度」はあるのでしょうか。
現代の教育は本当に難しいですよね。
本当の戯言でした。