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なかなか勝てない馬がいる。今日もその馬が走る。
がんばれ、と声が出る。
まなざしは、ゴールの先を見つめている。

ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅 下巻 

2021年03月21日 09時10分45秒 | 読書・文学


「その時以来、われわれの文明についての根本的な前提は、もはや自明のものではなくなった」アウシュヴィッツ収容所を生み出すに至った行政システムと加害者たちの心理構造。

第8章 移送(上巻より続く)
第9章 絶滅収容所
第10章 考察
第11章 影響
第12章 その後の展開

~~絶滅収容所の起源~~
絶滅過程の最も秘密の働きは、ポーランドにあった6つの収容所のなかで展開された。
3年間に入ってきた人数はユダヤ人300万人に達した。
絶滅収容所は迅速に効率よく機能した。
朝、汽車から降りた人物があったとすると、彼は夕方には死体となって焼かれ、その衣服は船積みされてドイツに向けて運ばれた。
その働きはいくつかの点で、近代工場における複雑な大量生産方式に似ている。
かつて史上、人間がベルトコンベアー的に殺害されたことはない。

ガス殺害装置の導入;化学専門家カルマイヤー博士
安楽死術医;エーベルル博士

ロシア人捕虜をシアン化水素で殺害した。
ヘスは死体を観察し、収容所医師の説明を聞いた。
彼は確信した。犠牲者たちは苦しんで死んでいったのではない、と。
ガスによる死は血を流さず、部下たちの大きな心理的負担を軽くする、と。

アウシュヴィッツが選択された諸要因のひとつは、鉄道に近いという立地条件にある、と。

シアン化水素すなわちチクロンは強力な致死剤であり、それは人体1kgあたり1mgが致死量であった。チクロンはかんを開け、部屋のなかへ小丸を投げ入れて簡単に使用できた。
欠点は容器のなかで3ヶ月で変質するので、取り置きができなかった。

ガスを供給していたのは化学系企業であった。
それらの企業は毒ガスによって「害虫駆除」を専門的にやっていた。
ドイツ側の宣伝のなかで、ユダヤ人はしばしば害虫になぞらえられていた。
フランクやヒムラーは、ユダヤ人が害虫として駆除されるべき寄生虫である、とくりかえし言明してきた。アウシュヴィッツへのチクロンの導入によって、そうした思考が現実になった。

ドイツ害虫駆除会社;デゲシュ
ガス室の人体はチクロンBで殺害された。

すぐに死体を細かく切断して馬肉と混ぜ、煮込んで石鹸にした。

最初の数錠がガス室の床で昇華すると、犠牲者たちは叫びはじめた。
断末魔の苦しみはおよそ2分間続いた。
そして悲鳴はおさまり、息も絶え絶えの人々は倒れていった。
15分以内にはガス室内の全員が死亡した。

30分後には扉が再び開かれた。
遺体は塔のように積み重なっており、座ったままの状態の者や、中腰の者もあった。
下のほうには子供や老人の死体があった。ガスが入れられたところでは、犠牲者があとずさりして誰もいなくなった場所があり、恐怖に駆られて外に出ようと男性の遺体は、ドアに押しつけられていた。
遺体には緑色の斑点があり、肌はピンク色になっていた。
口から泡を吹いている遺体や、鼻血を出している遺体もあった。排泄物と尿にまみれた遺体もあり、妊娠中の女性のなかには、出産が始まっている場合もあった。
ユダヤ人の特別作業班がガスマスクをつけて、通り道を作るためにドア近くの遺体を引きずり出し、死者にホースで水をかけ、同時に遺体のあいだに残っている毒ガスを洗い流した。特別部隊はそれからやっと遺体を動かすのだった。

遺体の穴という穴が、貴重品が隠されていないか調べられ、死者の口の中から金歯が抜かれた。
焼却所では、歯の詰め物や金歯ーーあごの固着していることもあった。--は、塩酸のなかで洗浄され、中央収容所で溶解されて、金の棒にされた。
アウシュヴィッツでは、女性の髪は死んだあとに切りおとされた。
それは、塩化アンモニアで洗われて梱包された。
その後にやっと遺体は焼却されたのである。

遺体の処分には3通りあった。
埋葬、焼却炉での焼却、戸外での焼却である。
「黒い、嫌な臭いの物質が大量ににじみだし、近郊の地下水を汚染した」
暑さに墓が隆起し、死体から出る液体が虫を集めて、むかつくような臭いが充満した。

骨粉砕機
穴の底から人間の脂肪がバケツで集められて、焼却を早めるために火に注がれた。
ときには子供たちが生きたままでこの地獄に投げおとされたと、生存者は報告している。
腐った遺骸は、一度にまとめて火炎放射器で始末された。

残存していた焼却所は、ユダヤ人の作業班によって隅々まできれいに清掃された。
別の作業班は、煙突内の40cm以上の厚さにもなる脂肪を落とさなければならなかった。
しかし、アウシュヴィッツはまだ存在しており、何万人という囚人をかかえ、2ヶ月間、ソ連軍が侵攻するのを待っていた。

1945年1月17日夜には、アウシュヴィッツでも砲兵隊の砲撃の音が聞こえた。
1月17日の夜、最後の点呼が行われた。
その数は、31,894人、外部の衛星収容所を含むモノヴィッツで35,118人であった。

その日、囚人を避難させることが決まった。
50キロ歩ける者と、アウシュヴィッツ駅までしか歩けない者、およびまったく歩けない者とが分けられた。病院にいる囚人は命令どおり出ていくか、最後の瞬間に親衛隊に殺される恐れがあるが留まるか、の選択を迫られた。
次の2日間で、58,000人が厳冬のなか、数人を除いて全員徒歩で収容所を出て行った。

1月20日に、シュマウザーSS大将は、残っている囚人を片付けるように命令を出した。
ユダヤ人女性200人を射殺し、第一、第二の焼却所があった建物を爆破した。
ソ連砲兵隊がアウシュヴィッツに砲撃を加えたとき、収容所職員はすでに逃亡していた。
2つのソ連師団がアウシュヴィッツに侵攻中だった。
絶滅収容所が戦闘の前線になった。

ソ連軍が入ってきたとき、35棟ある倉庫のうち29棟は焼け落ちていた。
焼け残った6棟の倉庫で、解放軍は収容所の遺品の一部を発見した。
紳士用背広36万8,820着、婦人用コートとドレス83万6,255着、婦人靴5,525足、カーペッ13,946枚、大量の子供服、歯ブラシ、義歯、深鍋、鍋などである。放棄された鉄道貨車からは何十万着という衣服が見つかり、なめし革工場では、7トンの毛髪が発見された。
7,000人以上の囚人がまだ生きていて、解放者を迎えたが他方、何百という死体が放りだされたままだった。

食料の配給はとまり、点呼も行われなくなり、飢えた囚人はほったらかしにされた。チフスや下痢が手のつけられないほど流行し、遺体が棟の中や、人糞の山の上で腐敗した。まだ生きている囚人にネズミが襲いかかり、遺体は飢えた囚人によって食べられた。

その間に、戦争の勝利をとっくにあきらめたヒムラーは、人生最大の譲歩を行った。
何千人という囚人がスイスとスウェーデンへ出国することを許可したのである。
また、赤十字社のトラックがいくつかの収容所で食料を配給することを認めた。
さらに、収容所からの強制的な撤退を中止させ、囚人をそのまま連合国側に引き渡すように命じた。
ヒムラー自身は、単独でドイツ国内を彷徨い歩いた。
お尋ね者になっていた。彼もまた発見されて捕らえられ、服毒自殺した。

アイヒマンは、国家の敵を500万人も殺したことに大きな満足を感じているので、笑って墓に飛び込みたいくらいだ、と語った。しかしアイヒマンは墓に飛び込むことはせず、身元を知られずにアメリカの捕虜として数か月過ごしたのち逃亡し、痕跡を残さずに姿をくらませた。
彼は15年後に、アルゼンチンでイスラエルの工作員によって逮捕された。

ヒトラーは専用の防空壕の中で、1945年4月29日の早朝に政治的遺書を書いた。
「この熾烈な闘争の真の犯人、ユダヤ民族がその責任を負うのだ。
自分の自由な意志によって死を選ぶことを決意したのである」

「われわれは、われわれを抹殺しようとしているこの民族を抹殺するという道徳的な権利をわが民族に対してもっている」

「ユダヤ教の儀式殺人」

物理的には、ユダヤ人人口が激減し、その分布と性格までもが変化した。
世界のユダヤ人人口は3分の1を失った。
1600万人以上という最高水準から1100万人に減少したのである。
ナチ政権掌握以前には、ユダヤ人の人口、富、力の大半は、ヨーロッパに集中していた。
ドイツが粉砕されたとき、世界のユダヤ人の半分近くは合衆国に居住しており、ユダヤ人の富もほとんどここに集中していた。

統計を比較すると、ヒトラーのヨーロッパで殺されたユダヤ人の数は、戦死したアメリカ人の数の22倍にもなる。

アウシュヴィッツとトレブリンカの意味を記録しようとする努力もあまりなされなかった。
少しずつ資料が集められ、本が書かれ、そして20年後にユダヤ人の絶滅に1つの名前が与えられた。ホロコーストである。

1978年には、アメリカ行政命令によってホロコーストに関する大統領委員会が設置され、この諮問機関は議会法によって、アメリカ合衆国ホロコースト記念評議会になり、博物館の設立と設立と研究や教育プログラムの作成を行うことになった。

~~戦犯裁判~~
連合国の指導者は1943年秋に、敵の枢軸国を戦後どのように扱うかを検討し始めた。
連合国の恨みの主たる標的であったこれらの最高首脳は、処刑されることになっていた。
検討の余地があった唯一の問題は、即決で処刑するのか、裁判によって処刑するのかであった。

1943年10月に開催された戦争犯罪者に関するモスクワ会議で、アメリカ国務長官ハルは、「戦地臨時軍法会議」が望ましいと言明した。枢軸国の「無法者たち」のために、なぜ「ぜいたくな裁判」を実施するのかわからないというのである。ソ連の代表は「大声で賛成」を表明した。しかし、イギリス外相イーデンは反対を唱えた。

ルーズヴェルト大統領は個人的には銃殺刑を望んでいた。
「自分のためにこの問題を研究する」ように命じた。
その間に、ソ連も裁判を行う方向へと転換した。
ソ連の独裁者は、世界が即決裁判から誤った結論を引き出すかもしれないと考えたのである。

15回も修正されたのち、法廷は次のような罪で被告を裁く権限を与えられた。
《人道に対する罪。すなわち、民間人に対して戦前・戦中に行われた殺人、絶滅、奴隷化、移送、その他の非人道的な行為、あるいは犯行が行われた国の国内法に違反するか否かを問わず、本裁判所の裁判権が及ぶ犯罪の実行過程で、もしくはこれに関連して行われた政治的・人種的・宗教的理由による迫害。》

ニュルンベルクで国際軍事法廷の審理が開始された。
被告、証拠物件、証人の大半は、アメリカから提出された。
主要被告人の筆頭はゲーリングであった。
ナチ党からはヘス、ライ、シュトライヒャーが選ばれて起訴された。
シャハト、フンク、フリック、リッベントロブ、フォン・パーペンが閣僚の中から起訴された。

ガスで殺された者の死体の口から金を回収していた歯抜きのポークを弁護するために、弁護士のラッツ博士は独特の弁護を行った。
「死体はもはやいかなる種類の権利も有しておらず、誰もまた死体に対して権利を有していません。法的な観点から言えば、いわば死体は天と地のあいだを浮遊しているのです」

実際、主席検事テイラーは最終報告書に、全般的に
「時間の経過につれて、判決が軽くなった」と認めざるをえなかった。
親衛隊に対する訴訟では、判事が直接的に情状酌量せずに殺人を認定し、最も厳しい判決が下された。医師裁判、行動部隊指導者裁判、強制収容所官僚裁判の3つの裁判だけが、死刑判決を出した。法務省の何人かの被告は終身刑の判決を受けた。
法廷は次のような声明を出して、この不愉快な感情を発散させた。
「戦争目的を遂行するために司法制度を悪用することは国家悪であり、一般的な残虐行為には見られないものである」

35人の被告人には無罪が、97人には25年までの有期刑が、20人には終身刑が、25人には死刑が宣告された。
しかし、判決がだされるとすぐに、減刑への道が開かれた。
医師裁判の7人の有罪犯はすでに絞首刑に処されており・・・

イギリスの軍事法廷は軍人によって構成され、弁護側もイギリスの将校であった。
親衛隊員のうち11人が絞首台に送られたが、その中で有名なのはクラーマー、クライン、ヘスラー、イルマ・グレーゼであった。
チクロンBを提供したブルーノ・テシュ博士も絞首刑にされた。

死刑に処せられた対独協力者の中には、フランスのラヴァル、スロヴァキアのティソ大統領、ブルガリアのバグリアノフ、ルーマニアの2人のアントネクス、ハンガリーのストーヤイらがいた。

遺体は脂肪や石鹸、潤滑油に利用されているという。
▲石鹸の噂はきわめて根強かったようである。
ポーランド人住民は、石鹸の製造に人間の成分が使われていると信じたため、石鹸を実際に買わなくなった。
「シュトゥットホフ収容所からもってきた遺体を利用していた石鹸工場が発見されました。
そこには、ポーランド人とソ連人囚人の遺体350体がありました。さらに、ゆでた人肉のかけらの入った大釜、加工された人骨を入れた箱、脂肪を取り除かれた手足や人間の皮の入った籠が発見されました」
石鹸の噂は、戦後になっても続いていた。
死んだユダヤ人の脂肪から作られたと言われる石鹸の固まりは、イスラエルでもニューヨークのイディッシュ文化学術研究所でも保存されている。▲


「これまでの歴史は、人間の生命のこのような絶滅に類することを経験したことがない」
アウマイヤーSS大尉は、絞首刑と射殺を担当している。
女性の看守マンデルは、悪の化身と呼ばれている。

絶滅施設の爆撃は、「犠牲者の救出にはあまり役立ちそうもないが、ドイツ人へのメッセージにはなるだろう」
1944年5月から11月にかけて、アウシュヴィッツでは50万人のユダヤ人が殺されていた。

最終的には、25万人のユダヤ難民が、次のような国に、安住の地を見出した。
イスラエル;142,000人
アメリカ;72,000人
カナダ;16,000人
ベルギー;8,000人
フランス;2,000人
その他;10,000人


1956年のハンガリー動乱は、18,000人のユダヤ人の即座の出国を引き起こし・・・


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