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徹底管理された市民生活と青少年教育、プロパガンダであり戦争対策でもあったスポーツ振興、産業の発展や景気復興策とともに行われたユダヤ人虐殺や異民族差別…。戦時下ドイツのさまざまな局面を280点におよぶ貴重写真とともに紹介。
1929年10月、ウォール街大暴落。
ナチスは1928年の選挙では獲得票数が81万票だったが、1930年の選挙では実に640万票を獲得し、大躍進を果たした。議席数は107議席になり、1932年7月の選挙では230議席にまで伸ばした。
このとき1370万人の国民がナチスに票を投じている。
ヒンデンブルグ老大統領はヒトラーを「ボヘミアの伍長」と呼んで蔑み、パーペンの提案を拒んだ。そして1933年1月、ヒトラーが右派政権の首相に指名され、ヒトラー内閣が誕生した。
新しい連立内閣にナチスから入閣したのは、フリックとゲーリングの二人だけだった。
しかしナチスは、パーペンの思惑に反し、たちまち彼らの手に負えない存在となった。
その大きな理由は、フリックがヒトラー内閣内務相に、ゲーリングが最大州プロイセンの内務相に就任し、警察犬を握ったためである。
ナチスはその警察権を利用し、政敵を次々に追放して議会の主導権を掌握した。
なお政敵の追放には、党の防衛組織である突撃隊;SAも重要な役割を果たしている。
政権に就いてから半年後の1933年7月、ナチス党以外の政党を解散に追いこみ、ナチスの一党独裁体制を確立する。かくして、ナチス・ドイツの時代が始まったのである。
▲ヴォルヘルム・フリック
1924年5月、国会議員選挙に出馬し初当選。1943年までヒトラー内閣内務相を務める。ニュルンベルク裁判において死刑判決を受け、1946年絞首刑に処せられた。
ジョージ・オーウェルはファシズムのことをこう表現した。
「ファシズムとは、人間の顔を何度も何度も靴で踏みつけるものである」
ナチスが政権についてからの数ヶ月間、警察や突撃隊の活動は極めて暴力的だった。
「ときどき周辺の森で、死体が見つかるようになった。
人がある日ふっと姿を消すようになった。
その人がどこへ行ってしまったのか、尋ねる勇気を持たなかった。
毎日の交通事故に対するほどの関心さえ寄せようとしなかった」
ナチスの攻撃によって国会議員80人が命を落とし、160人が議会から追放された。
前首相のヨーゼフ・ヴィルトとハインリヒ・ブリューニングは亡命し、シュライヒャー将軍派要職にとどまるものの後に殺害された。
1933年2月、国会議事堂放火事件が起こると、国民の自由を制限する法律が制定された。
「民族と国家防衛のための緊急令」
この法律は、ヴァイマル憲法が保障していた集会や言論の自由といった権利を国民から剥奪した。国家による手紙や検閲や電話の盗聴、あるいは令状なしの家宅捜査や逮捕も可能となった。
この緊急令のもと、警察や突撃隊は、共産主義者や社会主義者、キリスト教徒、エホバの証人の信者といったナチスが敵と見なす者たちを次々に逮捕していった。
「自由な性格を著しく失った社会」
ヒトラーには実現すべき目標があった。
それはドイツ民族の純血を守り、国家社会主義のもとに国家調整を行い、民族共同体を建設することである。民族共同体にふさわしくない者を取り締まる必要があった。
新たな法律の制定の結果、1939年までの間に、死刑に処せられる罪は3つから40以上に増えた。
子供の誘拐などヒトラーがとくに嫌悪していた犯罪はまっさきに死罪とされている。
1919年から1932年までのヴァイマル共和政権には1,141名が死刑判決を受け、そのうち184名に対して刑が執行されている。一方、ナチス・ドイツ期は、1939年までの間で見ると、死刑を宣告された者のうち80%以上が処刑されている。
民族共同体では個人の権利よりも共同体全体の利益が優先される。またナチスが「劣等民族」と見なすユダヤ人やジプシー;ロマ人、または反社会分子や同性愛者、働かない者、身体障害者などはとくに厳しい取締りを受けた。
親衛隊;SSは第二次世界大戦が始まる1939年には25万人まで増加した。
親衛隊は血統を認められた者のみで構成される「エリート集団」だった。
血統は18世紀まで遡って調べられた。
とくにユダヤ系の先祖の有無が厳しく問われ、また隊員の結婚相手も純粋なドイツ民族であることが求められた。
警察権力を握ったのは、親衛隊長官ハインリヒ・ヒムラーである。
「我々は、ドイツ帝国総統アドルフ・ヒトラーに忠誠と勇気を誓う。
我々は総統と総統に任じられた上官に死の時まで従うことを誓う。
神よ我らを守りたまえ」
わたしたちはなぜダッハウ強制収容所で、夫が死亡したのか理由を尋ねました。
返ってきたのは簡単な言葉でした。
「規律を乱したからである。以上で対面を終了する」
議会に野党が存在せず、政権に対する不満を公に口にすることが許されない社会。
ゲシュタポとSSが共産党本部を襲撃して幹部を逮捕し、党員と献金者についての膨大なリストを手に入れた。このリストをもとに魔女狩りが行われ、共産分子が一掃された。
8,000人ほどは海外に逃れたが、ナチスの手に落ちた者には拷問や処刑、ダッハウなどの強制収容所での生活が待っていた。
1945年までにおよそ3万人が犠牲となっている。
スパイの最後というのは往々にして悲惨なものだが、「赤いオーケストラ」のメンバーもその例にもれない。メンバーのうち118人が裁判にかけられ、そのうち8人が絞首刑に、41人が斬首刑に処せられた。残りの者は強制収容所へ送られ、その後例外なく処刑された。
スウィング・キッズとエーデルヴァイス海賊団は、ヒトラー・ユーゲントらに反抗的な若者らのグループである。「白いバラ」はベルリンの大学生によるグループで、非暴力的な抵抗運動を行った。彼らの主な目的は、ナチスの残虐行為をドイツ国民に知らせることだった。
1943年2月20日、ハンス、ゾフィー、それにクリストフ・プローブストは人民法廷に引きだされ、ヒトラーお気に入りの悪名高きローラント・フライスラー裁判長から斬首刑を言いわたされた。そしてこの名ばかりの裁判から数時間後に刑は執行された。
処刑場へ向かう前のゾフィーの強さと純粋さの交じり合った言葉は心に響く。
「今日はとても良いお天気ね。
でもわたしはもういかなくてはならないわ。
戦場では今もたくさんの人が死んでいる。
未来のある若者が死んでいる。
そしてわたしも死ぬけど、惜しくはないわ。
わたしたちは、たくさんの人に警告することができたのだから」
ドイツを破滅に向かわせようとしている政権に与(くみ)することなどできるはずもなかった。
暗殺未遂後、ヒトラーは報復に出た。
陰謀に関わったとしておよそ200人が捕らえられ、処刑された。
シュタウフェンベルクら4名は当日の深夜銃殺された。
他は絞首刑に処せられた。
絞首刑は、肉を吊るす鉤とピアノ線を使用する方法で行われ、ヒトラーはその処刑の様子をフィルムに記録するよう指示し、後に自ら観たともいわれている。
ドイツ文学を代表する数々の名著もすべての図書館から消えた。
ドイツの偉大な詩人ハインリヒ・ハイネの詩集も、彼がユダヤ人であったため灰となった。
フェリックス・メンデルスゾーンはユダヤ人の血が混じっている作曲家であるとして、音楽学校とオーケストラから彼の楽譜が回収され、燃やされた。
ナチスが特に重視したのはラジオである。
ナチスは政権に就くと帝国放送協会を国営化し、ラジオによるプロパガンダ放送を開始した。
しかし、当時ラジオはまだそれほど普及してはいなかった。
そこで工場や公共の場所に拡声器を設置し、放送が多数の国民の耳に届くような環境を整えた。宣伝省のゲッベルスはラジオのことを「最先端大衆感化装置」と表現したが、その普及をめざし、廉価なラジオ受信機の開発に乗り出した。そして生まれたのが「国民ラジオ301型」である。
ラジオ同様、テレビ放送の分野でもナチスは先駆者である。
1935年、ドイツ・テレビ放送局がイギリスやアメリカに1年先がけて、世界初となる一般向けの定期放送を開始した。
定期放送の一番の目的はもちろんプロパガンダ放送を行うためだったが、音楽や料理、園芸、主婦向けの番組など娯楽番組も放送された。
その後、設備や放送技術の向上とともに番組内容も広がり、ドラマやニュース番組、さらにベルリン・オリンピックやヨーロッパ・ボクシング選手権のようなスポーツ大会の中継も行われるようになった。
英国放送協会;BBCは戦争が始まるとテレビ放送を休止したが、ドイツは1944年まで放送を続け、その過程で技術革新も進んだ。
映画の振興にも力を入れた。
ゲッベルスは、映画は「感情を動かし、理性を止める」ものであると述べている。
映画製作にも多額の資金が投入され、ナチス・ドイツ期に製作された長編映画は1,094本。
施設整備にも大きな予算がつけられ、1933年には5,071館だった映画館が、1942年には7,042館に増加している。入館者数も、延べ2億4,500万人から10億人にまで伸びた。
あからさまなプロパガンダは行わず、映画上映の前に流すニュース映画にナチスの思想を少々織り込む程度にとどめた。1,094本の映画のうち、941本はコメディやミュージカル、探偵もの、冒険ものだった。潜在意識に訴える程度にとどめられていたため、国民は純粋に映画を楽しむことができた。
映画史に名を残すような上質な映画も生まれている。
ひとつは1934年に開かれたニュルンベルク党大会の記録映画『意志の勝利』である。
ナチスの団結を強調した迫力のある映像は、国民と世界にドイツの新しい指導者たるナチスの力を印象づけた。
もうひとつは1936年のベルリン・オリンピックを記録した2部作映画『オリンピア』である。
巧みなカメラを使い、光と影の演出、引き込まれるような映像美で、いまなお多くの映画製作者たちを魅了している。
その一方で『永遠のユダヤ人』『ロスチャイルド』『ユダヤ人ジュース』
といった悪質な作品も現れた。
とりわけ『ユダヤ人ジュース』は悪名高く、主人公のユダヤ人金貸しヨーゼフ・ジュース・オッペンハイマーを、ユダヤ人の典型としてたいへん悪辣に描いている。
ナチスはこの映画を親衛隊に見せてユダヤ人への憎悪を誘い、それから東ヨーロッパでのユダヤ人殺害の任務にあたらせていた。
ヒトラーは、ドイツ民族の生存と発展のためにはより広い土地が必要であり、その土地は、東ヨーロッパを征服を征服して「劣等民族」であるスラブ人から奪取すべきであると考えられていた。
『ヒトラー青年』は代表的なプロパガンダ映画だ。
ヒトラー・ユーゲント(14歳から18歳まで)
ドイツ少年団(10歳から14歳まで)
ドイツ少女団
ドイツ女子青年団
団員数は飛躍的に増え、1932年12月時点で10万8,000人だった団員は、1933年末には一気に220万人に増えている。1934年末には360万人、1935年は400万人、1936年には540万人に達した。
そしてこの年には、ヒトラー・ユーゲントへの参加が法律によって義務づけられ、団員数は最終的に700万人を超えるに至った。青少年の大々的教化が可能になった。
ボクシングは、青少年の攻撃性を引き出す目的でしばしば行われた。
またキャンプや遠足といった野外活動である。
教育を受けた女性、夫や子供を蔑ろにして働く女性、ズボンをはき、タバコを吸う女性、売春婦、同性愛者、権利を主張する女性、家事をおろそかにする女性をナチスは嫌った。
ヒトラーは演説でこんな見当違いのことも語っている。
「女性の解放などというものは、ユダヤのインテリどもが言い出したたわごとである」
「男性は勇気とともに戦場で戦わなければならない。女性は自己を犠牲にし、苦痛に耐えて戦わなければならない。出産とは戦いである。国民の存在のために行わなければならない戦いである」
人工中絶を禁止し、中絶専門医院を閉鎖した。
中絶した女性には罰を与えた。
また避妊方法を教えたり、避妊具を配布したりする活動を取り締まった。
また結婚と出産を促すために、1933年6月、結婚資金貸付法を制定した。
#子供を多く産んだ女性に授与される十字メダル
6人以上産んだ女性を表彰するために金銀銅のメダルを用意した。
「性交渉は、子供を産むことを目的とするものでなければならない。それは国家の力を維持するためのものであり、個人の楽しみのためであってはならない。しかし十分な数の子供を産み、国全体を見ても十分な数の子供が生まれ、国家の存続と拡大が確かなものとなったなら、そのときは、性的欲求を満足させるために性交渉を行ってもよいこととする」
★11万人の観客で埋まるオリンピック・スタジアム。
世界49カ国から4,000人以上の選手が集まったベルリン・オリンピックでは、見事に演出されたセレモニーが行われた。
2万羽の伝書鳩をヒトラー自ら空に放ち、その上空では長さ300mのツェッペリン飛行船が大きなオリンピック旗をなびかせて旋回した。
他国を大きく引き離す33個の金メダルを獲得した。
ナチスはアーリア人の優秀性が証明されたことに満足した。
しかし気に入らないこともあった。
そのひとつは、フェンシングでヘレーネ・マイヤーが銀メダルを獲得し、さらに金と銀のメダルもユダヤ人が獲得したことである。フェンシングのような兵士の戦いと思わせる競技でユダヤ人がメダルを独占するというのは、ヒトラーにとっておもしろくないことだった。
ヒトラーがとりわけ不愉快だったのが、アメリカが全部で56個のメダルを獲得し、 さらにそのうちの14個を黒人選手が獲得したことだった。とくに黒人陸上選手ジェシー・オーウェンスは目を見張るような活躍ぶりで、100m走、走り幅跳び、それに400mリレーで金メダルを獲得した。ヒトラーはオーウェンスや他の黒人選手と握手することを拒んだ。
一方のアメリカでは、オーウェンスの勝利は民族差別を行うナチスへの一撃だと讃えられた。
そして1945年5月、戦争に敗れ、かつて威容を誇ったオリンピック・スタジアムも、連合国軍の空爆と砲撃によって無残な姿へと変わり果てたのだった。
■ドイツ労働戦線;DAF
ナチスは、賃金や労働力の配置、労使交渉、労働時間、生産量、諸手当、社会保障など、労働に関するあらゆるものごとを管理していた。政権に就くと、それまで存在していた169の労働組合をすべて非合法化し、2,080万人の労働者を新たな労働組合組織、ドイツ労働戦線;DAFのもとにまとめた。
歓喜力行団は、フォルクワーゲン購入のための積立制度を設けた。
フォルクスワーゲンは、一般大衆にも手の届く夢の国民車として開発された車である。
呼びかけにより、数十万の労働者が1週間に5マルクの積立を行った。
しかし1939年に工場の生産がフォルクスワーゲンから軍用車の生産へと切り替えられたため、以後車が労働者に届くことはなく、また積立金が戻ってくることもなかった。
1939年の女性労働者の割合は37.4%だったが、1944年には50.7%に増え、人数にすると1,450万人に達した。またナチスは占領地域から多くの外国人を連行し、労働に従事させた。
その数は1939年が30万1,000人、1944年には529万5,000人で、戦争捕虜も183万1,000人を働かせている。外国人労働者は全労働者の24%を占め、2万ヶ所に外国人労働者用の宿泊所が建設されていた。外国人労働者のうち150万人はポーランド人で、そのうちの80%が農村に送られた。
鉱山や農村、建設現場の労働者は粗末に扱われた。
またユダヤ人やスラヴ人労働者の扱いは例外なくひどかった。
食事を例にとると、昼は根菜の薄いスープが2杯、夜はパン1個で、1週間に一度小さな一切れの肉がつくくらいだった。みな栄養失調に陥り、それに過酷な労働が加わるため多くの者が死んでいった。
例えば軍用機の生産は1939年が8,295機、1944年には39,807機、
戦車は1940年が2,200両、1944年には27,300両が製造されている。
~~大量虐殺~~
「生きるに値しない生命」である障害を持つ子供たちを殺害する計画。
「医師の診断の結果、治る見込みがないと判断された患者には、人道的な観点から慈悲による死を与えること」
「安楽死計画」
「世界の害毒である国際ユダヤ人集団と徹底的に戦うことである」
ナチスは、領土を拡大すればするほどユダヤ人を抱え込むというジレンマに陥った。
順調に勝利を重ねていたヒトラーは、戦いの最後をソ連戦の勝利で飾りたいと願っていた。
ソ連に勝利するということは、ボルシェヴィキ共産圏とそれを操る「国際ユダヤ人集団」に対する勝利を意味するものだった。
この時点で殺害対象になったのはソ連のユダヤ人であるが、その後ヨーロッパ中のユダヤ人が殺害対象となっていく。
「・・・処刑は滞りなく終了した。
リトアニアで処刑したユダヤ人は71,105人である」
ヴァンゼー会議ではまず、この1,100万人のユダヤ人をすべて殺害することを目標として掲げた。大量殺害計画はラインハルト作戦と名づけられた。
強制収容所の焼却炉は企業が競って開発を行っており、焼却炉には各企業の商標を浮き彫りにしたプレートが誇らしげに取り付けられている。
同性愛者はピンク色の逆三角形の印を囚人服に付けさせられ、看守や他の囚人から日常的に恥辱的な虐待を受けた。
ベルリンは空爆によってすでに多くの建物が瓦礫と化していたが、市街戦によってさらに破壊が進んだ。砲兵隊による援護のもと赤軍の兵隊が街に入り、建物ひとつひとつに侵入し、そこに潜むドイツ兵士と苛烈な白兵戦を繰り広げた。ベルリン市民も多くがその戦闘に巻き込まれて死亡した。赤軍は8万人、ドイツ側は民間人を含む32万5,000人が犠牲になった。
■反ユダヤの週刊新聞『シュチュルマー』のダンツィヒ支社。
発行人のユリウス・シュトライヒャーは戦後連合国によって死刑に処せられた。
彼が最後に口にしたのは「ヒトラー万歳」という言葉だった。