父は、大正12年11月28日生まれ、83歳。
実のちゃんと呼ばれ、多くの方に愛され、とても豊かな長い長い人生の幕を閉じました。
「お父さんは、働き者だった。真っ黒になっていつも働いていた。」どなたにもそう言っていただきます。
「お酒がとても好きだった。」酔っ払って寝転んでトロリーバスを止めてしまったことも聞きました。
頼まれればどんなに遠くても、たとえ数が少なくても、炭や氷を届けに行ったと聞きました。
自転車で渋谷や池袋の方までも行ったんだよと聞かせてくれました。
体のつくりと運がとても強くて、都バスとぶつかったときも、
小学生の弟と一緒に連れて行ってもらった福島の田舎で、田んぼの中に
車ごとに落っこちて、逆さまになってしまったときも、
古い家の倉庫の中二階から足をすべらせてコンクリートの上に落ちてしまったときにも、
ちょっとばつがわるそうに笑って、「怪我ひとつしなかったよ」と言っていました。
だから、具合が悪くなるなんて、思いもよらないことでした。
お箸を持つ手が自由にならなくて、「どうして動かないのかなあ」と言った顔が
忘れられません。
10年ほど前に、「少し動いただけでも苦しいんだよ」と言い始め、
心臓にペースメーカーを入れました。
(お花に囲まれているのは、亡くなった父の体から取り出されたペースメーカーです。)
5年ほど前に、仕事をやめて弟に継いでもらってからは、安心したのでしょうか、
体は少しずつ少しずつ動かないところが多くなりました。
おしゃべりが大好きで、車に乗って、みなさんのところに行っては、おしゃべりをしていたのですが、
車に乗れなくなってからは、自転車でおしゃべりしにいきました。
自転車も乗れなくなってからは、犬のタロとメルを引っ張って歩きでおしゃべりに行きました。
でも、とうとう自分の足では歩けなくなってきました。
古い家は、段差だらけで靴をはいてお風呂に行かなくてはならなかったので、
家を建て直すことにしました。ちょうど借り家に移るころには階段も上れなくなり、
母と私は、父と一緒に階下の板の間のお勝手に、布団を持ってきて寝たことも何度もありました。
ようやく、父が車椅子でも生活できる家ができあがり、
それから今日までの2年半、父とともに家族みんなで過ごしてきました。
トイレにも一緒に行きました。お風呂も入れてあげました。
喉につかえてしまうからと、食べ物は細かく刻んで食べてもらいました。
これ食べる?と聞くと「ひとつもらおっか」と言ってくれました。
水は肺に入ってしまうといけないから、とろみをつけて飲んでもらいました。
でも、ほんとうは、父はそのままごっくんごっくんと飲みたかったんです。
夜、パジャマに着替えさせて、おふとんをかけて、おやすみねというと、
「はい、ありがとう」と言ってくれました。
病院から帰るときには、「気をつけて帰るんだよ。ありがとね」って、言ってくれました。
いつも言ってくれました。
そして、嬉しそうに笑ってくれました。
何度か入退院を繰り返した父のそばから離れなかったのは、80歳になる母でした。
ほとんど毎日、車で臨海病院へ行き、何時間もの長い間そばにいて、
入院が長くなったときには、母まで一緒に入院をしてしまうことが、2度もありました。
けんかもいっぱいしていたようだけれど、仕事がひといきついてからは、
母とふたりで日本中、旅行に出かけ、
夜中に心臓が苦しくなるときには、「お母さん、お母さん」と呼んでいました。
父の老いていく日々を、一緒に悲しんだり、苦しんだり、
そして、楽しんだり、いっぱい笑ったりしながら、生きてきた3年余。
炭やガスや石油や氷の商売をずっと続けていた父は、このごろはときどき、
「ガスの倉庫を閉めてきてね」とか、「氷の配達に行かなくちゃ」と言うことがありました。
一生懸命に仕事をしてきたから、体にしみついているのだと思います。
ようやく、老いることを受け入れられるようになったのに、
体がよくなったら、おうちへ帰ってみんなに来てもらおうね。いっぱいお話してもらおうね、
そう言っていたのに、
秋の日の朝、父は、ペースメーカーの鼓動だけを残して、静かに静かに息を引きとりました。
お父さん、これからは、お水も好きなだけ飲めるよ。
ご飯もいっぱい食べられるね。
そして、大好きな兄弟のみなさんや、お父さんのお母さん、お父さんと、
そして、たくさんのお友だちと、思う存分おしゃべりできるね。
お父さん、優しいということ、みんなと仲良くするんだよということ、
教えてくれてありがとうございました。
どうぞ安らかにおねむりください。
父を愛してくださったみなさんに、
そして、体の動かなくなった父が、人として生きて行くための介護を手伝ってくださった
ケアマネージャーさんやヘルパーさん方に、
心からの感謝を申し上げます。
実のちゃんと呼ばれ、多くの方に愛され、とても豊かな長い長い人生の幕を閉じました。
「お父さんは、働き者だった。真っ黒になっていつも働いていた。」どなたにもそう言っていただきます。
「お酒がとても好きだった。」酔っ払って寝転んでトロリーバスを止めてしまったことも聞きました。
頼まれればどんなに遠くても、たとえ数が少なくても、炭や氷を届けに行ったと聞きました。
自転車で渋谷や池袋の方までも行ったんだよと聞かせてくれました。
体のつくりと運がとても強くて、都バスとぶつかったときも、
小学生の弟と一緒に連れて行ってもらった福島の田舎で、田んぼの中に
車ごとに落っこちて、逆さまになってしまったときも、
古い家の倉庫の中二階から足をすべらせてコンクリートの上に落ちてしまったときにも、
ちょっとばつがわるそうに笑って、「怪我ひとつしなかったよ」と言っていました。
だから、具合が悪くなるなんて、思いもよらないことでした。
お箸を持つ手が自由にならなくて、「どうして動かないのかなあ」と言った顔が
忘れられません。
10年ほど前に、「少し動いただけでも苦しいんだよ」と言い始め、
心臓にペースメーカーを入れました。
(お花に囲まれているのは、亡くなった父の体から取り出されたペースメーカーです。)
5年ほど前に、仕事をやめて弟に継いでもらってからは、安心したのでしょうか、
体は少しずつ少しずつ動かないところが多くなりました。
おしゃべりが大好きで、車に乗って、みなさんのところに行っては、おしゃべりをしていたのですが、
車に乗れなくなってからは、自転車でおしゃべりしにいきました。
自転車も乗れなくなってからは、犬のタロとメルを引っ張って歩きでおしゃべりに行きました。
でも、とうとう自分の足では歩けなくなってきました。
古い家は、段差だらけで靴をはいてお風呂に行かなくてはならなかったので、
家を建て直すことにしました。ちょうど借り家に移るころには階段も上れなくなり、
母と私は、父と一緒に階下の板の間のお勝手に、布団を持ってきて寝たことも何度もありました。
ようやく、父が車椅子でも生活できる家ができあがり、
それから今日までの2年半、父とともに家族みんなで過ごしてきました。
トイレにも一緒に行きました。お風呂も入れてあげました。
喉につかえてしまうからと、食べ物は細かく刻んで食べてもらいました。
これ食べる?と聞くと「ひとつもらおっか」と言ってくれました。
水は肺に入ってしまうといけないから、とろみをつけて飲んでもらいました。
でも、ほんとうは、父はそのままごっくんごっくんと飲みたかったんです。
夜、パジャマに着替えさせて、おふとんをかけて、おやすみねというと、
「はい、ありがとう」と言ってくれました。
病院から帰るときには、「気をつけて帰るんだよ。ありがとね」って、言ってくれました。
いつも言ってくれました。
そして、嬉しそうに笑ってくれました。
何度か入退院を繰り返した父のそばから離れなかったのは、80歳になる母でした。
ほとんど毎日、車で臨海病院へ行き、何時間もの長い間そばにいて、
入院が長くなったときには、母まで一緒に入院をしてしまうことが、2度もありました。
けんかもいっぱいしていたようだけれど、仕事がひといきついてからは、
母とふたりで日本中、旅行に出かけ、
夜中に心臓が苦しくなるときには、「お母さん、お母さん」と呼んでいました。
父の老いていく日々を、一緒に悲しんだり、苦しんだり、
そして、楽しんだり、いっぱい笑ったりしながら、生きてきた3年余。
炭やガスや石油や氷の商売をずっと続けていた父は、このごろはときどき、
「ガスの倉庫を閉めてきてね」とか、「氷の配達に行かなくちゃ」と言うことがありました。
一生懸命に仕事をしてきたから、体にしみついているのだと思います。
ようやく、老いることを受け入れられるようになったのに、
体がよくなったら、おうちへ帰ってみんなに来てもらおうね。いっぱいお話してもらおうね、
そう言っていたのに、
秋の日の朝、父は、ペースメーカーの鼓動だけを残して、静かに静かに息を引きとりました。
お父さん、これからは、お水も好きなだけ飲めるよ。
ご飯もいっぱい食べられるね。
そして、大好きな兄弟のみなさんや、お父さんのお母さん、お父さんと、
そして、たくさんのお友だちと、思う存分おしゃべりできるね。
お父さん、優しいということ、みんなと仲良くするんだよということ、
教えてくれてありがとうございました。
どうぞ安らかにおねむりください。
父を愛してくださったみなさんに、
そして、体の動かなくなった父が、人として生きて行くための介護を手伝ってくださった
ケアマネージャーさんやヘルパーさん方に、
心からの感謝を申し上げます。
とてもうれしかった。
父さんと一緒に行ったときのこと、私もよく覚えています。
舞台が終わって、お風呂から出てきたりえちゃんのほっぺは、真っ赤で、とてもきれいだった。
父さんも、喜んでくれていました。
もうすぐ6月ね、また、舞台があるのではないかしら。
教えてね。会いに行きます。応援しているからね。
先生。私、お通夜も告別式も伺えませんでした。
ごめんなさい。
子どもの頃、氷屋さんの先生のお宅に遊びに行った時に笑顔で出迎えて下さったお父さん。
あったかい介護をされたご家族。
車椅子で国立劇場まで舞台を観にきて下さった時はすっごくうれしかったです。
間宮先生のご家族は、いつもいつもあったかい笑顔でいっぱいですね!
そして、必ずいつもお父さんがいらっしゃいました。
だから、ありがとう、ってお伝えしたかったのだけど。
どうしてもくるった予定が戻せず、気持ちを伝えにいけませんでした。ごめんなさい。
ずっとずっと気になっているのですが。
せんせい大丈夫ですか?
ブログを見る限り、相変わらず先生らしくって安心しました!
だいぶ遅くなってしまったけど、いつかお礼をいわせて頂きたいと思います。
お母様にも元気で頑張っていただけますよう、お伝えください。
それにしても、由美さんは、葬儀の翌日から議会活動とのことで、大変だったことでしょう。
お父さんを惜しんで、とてもたくさんの方々が葬儀においでくださったようですが、お父様のお人柄を目の当たりにする思いでした。
お父さんのお元気なとき、商売抜きで遠方まで氷を配達した話、また、大変従業員思いのお父さん、50年前の従業員の方がお父さんの話をして下さいました。
すばらしいと言う一語に尽きるお父さんでした。
そして、お母さんがとても優しい人で、由美さんは優しいご両親の申し子のような方です。由美さんと活動していると、由美さんの優しさをそこここに感じます。政貴さんが、また優しい人で、由美さんは幸せ者だなあといつも思います。
優しさは人間の大きな取り得です。人間性として大切な資質です。春の区議選での4000票を越す得票、由美さんの優しさ、強さ、そしてがんばり、この人ならばと皆さんが由美さんのお人柄にほれ込まれた結果だと思っています。
まだまだ葬儀の直後でもあり、お骨納めが終わらないうちは、落ち着いた気持ちにはなれない毎日でしょう。私もまたお焼香に伺います。
由美さん、政貴さんにとっては大きい人生の節目、ひと段落つきましたら、また、われわれの大きい目標に向かって、がんばろうではありませんか。
お父さんに一人の娘、子どもになって話してるのがたまんなくて、
私のお父さんのことを考えてました。
悲しいですネ!好きな人が見えなくなっちゃうのは…
本当なら泣きじゃくりたいだろうに、気丈に、まわりに気を配り、
そんな間宮さんを、苦しいだろうなぁとも思ってます。
体調を崩さないように!
とても温かいご家族ということが改めて解りました。
お父様はとても優しくて気丈な方ですね。
母と最期のお見送りさせて頂きました。
心からご冥福をお祈りしております。
儀式はひとつずつすぎていくけれど、心はしばらくいたいよね。
涙はながしたいだけいっぱいながしてね。
けっして父さんは悲しまないし、
空に父さんを感じられるようになるには時間がいっぱいかかるよ。
体も疲れているから旦那さんのそばでゆっくりおやすみね。
少しおちついたころ会いにいくからね。こころのそばにいつもいるよ。
あんなに悲しそうな間宮さんを見た事に私もショックでした。
いつも明るい笑顔で私達に接してくださっていたから
私達との長い時間を もっとお父様との時間に費やせてあげられてたらと
今こうして安心している気持ちだから思えます。
本当に貴重な時間を 私達にありがとうございました。
ブログ拝見しました。以前見た時は書いてなかった私達の事…
1番大変な思いをしたのは 私達ではなく間宮サンなのに
始業日も気にしてくださって…
涙がでそうでした。
お父様は 間宮サンが娘で幸せでしたね。
きっと遠い空から いつも見守ってくれる事でしょう。
これからも 頑張ってくださいね。いつも 応援しています。
無敵の由美さんが初めて困っているときに、何もできてない、私。
でも、もう、多くの人に励まされて、元気を取り戻しているやもしれない。
それでもたぶん、ふとした時に気が抜ける、時があったら、私はこの五年、
「ここにあなたがいないからじゃなくて、ここにあなたがいないと思うことが
自分を切なくさせる」という歌でしのいできました。
耳をすませば、声がきこえ、雲のすきまからこちらを見ているような時もあります。
匂いも思い出すし、温かさも思い出す。何も変わっちゃいないさって、
自分に言い聞かせるけど、悲しいときは、相変わらず悲しい時も。。。
そんな時はその気持ちをバネにして、お母さんを、周りの人を
大事にしてあげることで、救われる思いがいたします。
素敵なお写真でしたね。いちばん嬉しいことがあった日のお写真ですね。
おじさんの膝掛けが落ちて、私が拾ってあげた時と同じ笑顔だった。
そんな記憶に残るような笑顔で感謝したら、相手がどんなに心地がよいかと
教えて頂いてましたよ。
非科学的ではありますが、いつもそばにいると思いますよ。
おじさんの志をどうぞ、つないでください。
昨日、改めて気が付きました。
まみちゃん、悲しみや寂しさは無くなるものではないと思うけれど、
お父さんとの思い出やお父さんの望んでいた思いを胸に
まみちゃんは、前を向いてがんばってね!
悲しい時、寂しいとき、辛いとき、受け止めて、泣かしてくれる(だろう)人も居るし、
まみちゃんを頼りにしている人達の為に、生きてくださいね!
お通夜のお清めの席で隣になった若いお母さん達も、まみちゃんに中学生の息子さん達の事で、
とてもお世話になったと話していました。
この3人のお母さんたちとまみちゃんを囲んで飲みましょう!と盛り上がってしまいました。
私は次の選挙ではみんなで、お揃いのウィンドブレーカーを着て
応援しましょうね!っと再会を約束しました。
まみちゃんは誰にたいしても、心を砕いて正直に暖かく接しているから、
私も、初めて会った方たちでも、安心して、
まみちゃんの話しも自分の話しも出来てしまいます。
まみちゃんのお父さんを亡くした悲しみを埋める事は出来ないけど、
まみちゃんとまみちゃんのお父さんのお陰で、
また素敵な人たちと出会う事ができました。
お通夜の報告でした。ありがとう。元気だしてね!
まみちゃんの結婚式や、コンサートに来てくれた時の事を思い出してしまって、
泣きそうになっちゃった。
親孝行なまみちゃんによくしてもらって、お父さんも幸せだったと思うよ。
お母さんは大丈夫かな?そしてまみちゃんも私は心配だよ。
ちゃんとご飯は食べてね。