◻️250『岡山の今昔』岡山人(20世紀、坪田譲治)

2019-06-08 22:10:06 | Weblog

250『岡山(備前、備中、美作)の今昔』岡山人(20世紀、坪田譲治)

 坪田譲治(つぼたじょうじ、1890~1982)は、御野郡石井村島田(現在の岡山市北区島田本町)の生まれ。生家は、島田製織所といって、ランプ芯を作っていた。

 少年時代に、父が亡くなり、兄が家業を継ぐ。譲治は、石井小学校から金川中学校へすすむ。やがての1908年(明治41年)には、早稲田大学大学に入学する。学費は、家で出してくれたようだ。

 早大在学中から小川未明に師事する。やがて、子供の登場する私小説を書くようになっていく。そして迎えた1926年(大正15年)には、小説「正太の馬」をあらわす。

 それから、鈴木三重吉にも師事して「赤い鳥」に童話を発表する。1935年(昭和10年)には、「お化けの世界」で世に認められる。つづいて「風の中の子供」や「子供の四季」を発表、こちらは、広く読まれる。
 大まかにいうと、純真で天真爛漫な子供の世界を描く。そこで詳しく描こうとするのは、無邪気に遊ぶ彼らの姿であろうか、そこはかとない世界なのであろうか。大人の現実世界と対照的に描いた。

 ふるさと岡山を愛し続け、その風物を反映させながら書いた、とも評される。とにもかくにも、「遊べや遊べ」というのなら、ありがたいではないか。

(続く)

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


◻️251『岡山の今昔』岡山人(20世紀、木山捷平)

2019-06-08 21:19:58 | Weblog

251『岡山(備前、備中、美作)の今昔』岡山人(20世紀、木山捷平)

 木山捷平(きやましょうへい、1904~1968)は、小田郡新山村(現在の笠岡市)の生まれ。やがて、矢掛中学校(現在の県立矢掛高校)へとすすむ。その頃から、文学に目覚めたらしい。果たして、時間ゆっくりで、熟成していったのだろうか。

 その後、姫路師範学校(現在の神戸大学)へ行く。さらに1923年(大正12年)、ここを卒業し、小学校の教員となる。ところが、その2年後の1925年(大正14年)には、それをやめて東洋大学文化学科に入学する。けれども、ここもやがて中退するのだが。

 1929年(昭和4年)には、詩集「野」を出版する。1933年(昭和8年)には、同人誌「海豹(かいひょう)」を太宰治(だざいおさむ)らと創刊する。飄逸(ひょういつ)な作風の文を書いて、読者を獲得していく。

 1939年(昭和14年)には、処女小説「抑制の日々」を発表する。以後、短編を書いていく。私小説のためか、弾圧されなかったようだ。 

 1944年(1944年)には、「満州」へ開拓を目指す。中国の長春では、日本の農地開発公社の嘱託するよ社員として働く。1945年(昭和20年)には、現地で召集され、兵役に就くのだが、ほどなく日本敗戦となり、命拾いしたようなのだ。

 日本に帰国してからは、東京に住み、まずは1949年(昭和24年)、「耳学問」を発表する。また、戦争体験をもとにした長編小説「大陸の細道」を書き、これを1962年(昭和37年)に発表する。一躍、戦後の人気作家の仲間入りした。

(続く)

☆☆☆☆☆☆☆☆☆


◻️210『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、綱島梁川)

2019-06-08 20:10:57 | Weblog

210『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、綱島梁川)

 綱島梁川(つなしまりようせん、1873~1907)は、上房郡有漢村市場(現在の高梁市有漢町)の生まれ。宗教思想家、倫理学者で知られる。本名は、綱島栄一郎。

 1886年(明治19年)に、地元の知新小学校を卒業、同校の代用教員となる。ところが、父が死んで、ショックをうけたようだ。1890年(明治23年)には、高梁教会でキリスト教に入信する。

 1892年(明治25年)の19歳の時には、一念発起であろうか、上京する。東京専門学校(現在の早稲田大学)に進学する。母の勧めであったという。専修英語科であった。後、文科に転じる。

 その在学時から文学に傾倒する事甚だしく、「早稲田文学」に関わる。それにあきたらずか、哲学へも傾倒していく。文学は坪内逍遙の家に下宿したり、哲学は岡山県出身の西祝(にしはじめ)から教えてもらう。

 卒業後間もなく肺病となり、以後、闘病生活を続ける。当時は、よくあることであった。そんな中でも、ひるまず、宗教的思索を深めていく。神戸での療養中に、「空想的に神を考えず、人格的神の自覚」に思い至ったのだという。

 1905年(明治38年)には、自身の宗教的体験を綴った「予が見神の実験」を発表する。また、「病閒録」を著す。厳しい中なのに、その情熱は冷めることがなかった。1907年(明治40年)には、「回光録」を刊行する。類いなき、努力が必要であったろう。日露戦争が終わって、つとに時代がかわる節目、かれの文は大いに読まれる。いまも読み継がれているところでは、他に、「病間録」「労働と人生」が有名だ。

 故郷は、いまも、この思想家を忘れていない。高梁市有漢町に梁川記念碑(有漢社会教育センター:旧有漢高校内)と生誕地碑が立ち、また有漢生涯学習センターの一室には梁川記念室が設けられていて、往時の日記や原稿などを展示している。いずれも、ひたむきな精神の源流がここにあることを告げているかのようだ。

(続く)

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆