◻️8『岡山の今昔』倭の時代の吉備(吉備の大古墳)

2019-06-25 16:40:54 | Weblog

 8『岡山(備前・備中、美作)の今昔』倭の時代の吉備(吉備の大古墳)

 いずれにせよ、当時の首長達が一般住民・大衆を動員して造ったものだ。畿内を中心に列島各地の有力な首長層が競って、またこぞって採用したのは、疑いのない歴史的事実である。その数は、実に多い。分布も広範囲にわたっている。

 これらのうち初期のものは、2世紀後半から3世紀前半の弥生時代晩期、「楯築墳丘墓」が知られるものの、その築造年代の確かな証拠は見つかっていない。被葬者が誰なのかも、はっきりしていない。

 その後の、いわゆる古墳時代に入ってからの前方後円墳の中では、浦間茶臼山古墳と備前車塚古墳は最も古い時期(古墳時代1・2期)の建造とみられている。
 やがては、吉備地方の古墳の中でも、後期の造立と考えられるものに入ってくる。ざっと西の方から当時の海沿いに来て、高梁川、足守川、笹ヶ瀬川、旭川、砂川、そして吉井川が海に流れ込む、瀬戸内の名だたる沖積平野に、実に十数基もの古墳が築造された。

 すなわち、西の方から東にいくと、高梁川河口部には作山(古墳時代5・6期)と小造山、足守川河口部には造山(つくりやま、古墳時代5・6期)、佐古田及び小盛山、笹ヶ瀬川の河口には丸山と尾上、旭川の河口部には神宮寺山と金蔵山、砂川の河口部には雨宮山、西もり山、及び浦間茶臼山(岡山市浦間)、備前車塚古墳(岡山市中区湯迫・四御神)、そして吉井川河口には新庄天神山と花光寺山の古墳がそれぞれ発掘されている。

 これらのうち、最も大きいものとしては、5世紀初めの造立だと推定される造山古墳だが、全国第4位の規模だというから驚きだ。その被葬者が誰なのかは皆目見当がつかないようなのだが、盗掘か破壊された可能性が高いという。ある一説には、雄略大王との関係を取りざたする向きもあるものの、憶測の域を出ないのではないか。

 ここでは参考までに、当時のを振り返り書かれたという「日本書記」吉備に関わる、当該の部分を、しばし紹介するにとどめよう。

 「八月庚午朔丙子、天皇疾彌甚、與百寮辭訣並握手歔欷、崩于大殿。遺詔於大伴室屋大連與東漢掬直曰「方今、區宇一家、煙火萬里、百姓乂安、四夷賓服。此又天意、欲寧區夏。所以、小心勵己・日愼一日、蓋爲百姓故也、臣・連・伴造毎日朝參、國司・郡司隨時朝集、何不罄竭心府・誡勅慇懃。義乃君臣、情兼父子、庶藉臣連智力、內外歡心、欲令普天之下永保安樂。不謂、遘疾彌留至於大漸。此乃人生常分、何足言及、但朝野衣冠、未得鮮麗、教化政刑、猶未盡善、興言念此、唯以留恨。今年踰若干、不復稱夭、筋力精神、一時勞竭、如此之事、本非爲身、止欲安養百姓、所以致此、人生子孫、誰不屬念。

 既爲天下、事須割情、今星川王、心懷悖惡、行闕友于。古人有言『知臣莫若君、知子莫若父。』縱使星川得志、共治國家、必當戮辱、遍於臣連、酷毒流於民庶。夫惡子孫、已爲百姓所憚、好子孫、足堪負荷大業、此雖朕家事、理不容隱、大連等、民部廣大、充盈於國。皇太子、地居儲君上嗣、仁孝著聞、以其行業、堪成朕志。以此、共治天下、朕雖瞑目、何所復恨。」一本云「星川王、腹惡心麁、天下著聞。不幸朕崩之後、當害皇太子。汝等民部甚多、努力相助、勿令侮慢也。」

 是時、征新羅將軍吉備臣尾代、行至吉備國過家、後所率五百蝦夷等聞天皇崩、乃相謂之曰「領制吾國天皇、既崩。時不可失也。」乃相聚結、侵冦傍郡。於是尾代、從家來、會蝦夷於娑婆水門、合戰而射、蝦夷等或踊或伏、能避脱箭、終不可射。是以、尾代、空彈弓弦、於海濱上、射死踊伏者二隊、二櫜之箭既盡、卽喚船人索箭、船人恐而自退。尾代、乃立弓執末而歌曰、(以下、略)

 要は、雄略大王の死後直ぐこと、星川皇子(ほしかわのみこ)が母である吉備稚媛(きびわかひめ)の言によりそそのかされて反乱を起こす。そして、これに吉備上道臣(きびかみつみちのおみ)が加勢しようとの動きがあった、というのだが。

 また、備前茶臼山古墳(びぜんちゃうすやまこふん)は、備前平野の東の端(旧上道郡)、吉井川を少しさかのぼったところの西岸、砂川の西岸にあって、その規模は全長138メートルというから、これらの川の中州から眺めるとさぞかし壮観だったのではないか。4世紀前半に築造されたといわれるのがもし本当なら、当時の個の列島、倭国レベルでもかなり大きかったのではないか。

 それにしても、この弥生時代に続くのがどのような社会であったのかは、今日どのくらいまで明らかになっているのだろうか。事実というのは、その時々もしくは後代の政権(権力者)によってその内容が惑わされて述べられるものであってはなるまい。

 事実とされるのは、事実でないことを事実とするような権力の所産であってはならないのである。解き明かすべきは、その国家なり共同体の上部構造のみでない、下部構造の基本的理解が肝要となろう。
 5世紀になると、高梁川の支流小田川の形成した沖積平野を眼下に、天狗山古墳が造営された。こちらは、岡山大学によって発掘がなされ、その調査報告書がまとめられているという。

 6世紀末ないしは7世紀初頭になると、日本列島の首長たちは前方後円墳に一斉に決別し、方墳や円墳を築くようになる。きっかけは、有力豪族の蘇我氏が中国から方墳を持ち込んだともいわれるが、確かなところはわかっていない。政治的な背景として、蘇我氏が大層のさばって来て、大王家にたてつこうとしてきたことを挙げる向きもあるが、果たしてどこまでが本当なのだろうか。

(続く)

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◻️7『岡山の今昔』古墳時代の吉備(楯築墳丘墓から前方後円墳へ)

2019-06-25 08:27:07 | Weblog

7『岡山の今昔』古墳時代の吉備(楯築墳丘墓から前方後円墳へ)


 弥生時代の終了年代については、弥生時代後期の楯築古墳から発展したと考えられる前方後円墳が、日本列島の各地で築造されるようになってからと考えて差し支えないだろう。そしてこの列島での古墳時代とは、概ね3世紀末もしくは4世紀初頭から、7世紀までをいう。

 因みに、古墳時代は、普通には次の3つの時代に区分されてきた。前期とあるのは、2世紀後半以後、特に3世紀後半から4世紀後半とされる場合が多い。中期とは、4世紀後半から5世紀後半というところか。そして後期とされるのが5世紀後半から6世紀末頃(7世紀早早も含む)である。

 ただし、例えば畿内にある箸墓古墳(纏向(まきむく)遺跡の中にある)など古墳時代初期の前方後円墳については、3世紀中葉から後半等々に至るまで諸説紛々、説が割れている。被葬者が誰(卑弥呼か、その跡を継いだ台与(とよ)か、はたまた後続の男王などか)かが明らかでなく、そのゆえに築造年代が特定できない状態が続いている。
 果たして、この時代における古墳の造営は、ここ「吉備国」(きびのくに)では、他の地域に先駆けて始まった。この地方国は、おそらく3世紀前後から6世紀頃までは、かなりの勢威を誇ったと見える。したがって、大和政権がまだ成立していない時期から、この地域では首長国家であった。

 それというのも、この地域においては、今日「楯築弥生墳丘墓」と呼ばれる、前方後円墳の前の形態の墳丘墓が存在するのだ。

 現在の倉敷市にある弥生時代後期の墳丘墓の大きさは、高さ約5メートル、直径43メートルの円形の墳丘だ。その両側に小さな突出部があるため、全長は80m弱にも及ぶという。頂上と斜面に立石が並ぶ。

 墳丘の中央部には榁(むろ)と呼ばれる囲いを設け、木棺を納める体裁だ。1976年から1986年にかけて、岡山大学により数次にわたり調査された。ここからは、埴輪の祖形である特殊器台が出土していることで有名だ。のみならず、この墳丘墓の突出部を一方に拡大すると、なんと前方後円墳の体裁になるのではないか。

 それはさておき、大和政権が成立してからの関係は、吉備の初めはほぼ同じような規模の国家の一つであったのかもしれない。そもそも、初期の大和政権は畿内に影響を持つ幾つかの首長などによる連立政権であった、との説もある。これに連なる地方政権として、大和の統一政権に取り込まれるまでのある時期までは、吉備は、かれらともっと拮抗する形での政治的連合の相手方であったのではなかろうか。

 ちなみに、古墳時代を通して代表的な墳丘形態は前方後円墳といい、これは中国にも朝鮮(現在の韓国)にも原型の類例がほぼ見られない。朝鮮に前方後円墳としてあるのは、倭(わ)の文化圏との何らかのつながりの中で築造されたのであって、独自の背景を持っていたのは異なるのではな

 中国においても、また朝鮮に於いても、王や皇帝、豪族の墳墓の形に多く見られるのは、円墳(天の神を祀る)と方墳(地の神を祀る)の異なる祭祀(さいし)の組み合わせというものから、壺とその中から天に向かう姿を仙人世界に模した造型なのではないかかという迄、諸説紛々といえようか。

 いずれにせよ、当時の首長達が一般住民・大衆を動員して造ったものだ。畿内を中心に列島各地の有力な首長層が競って、またこぞって採用したのは、疑いのない歴史的事実である。その数は、実に多い。分布も広範囲にわたっている。

 

(続く)

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