188『岡山(備前、備中、美作)の今昔』岡山人(19世紀、橋本いね)
橋本いね(1827~1903)は、長崎の生まれにしてドイツ人医師のシーボルトの娘、彼女は。いねは、長崎の出島にやってきていたオランダ人医師のシーボルトと長崎の遊女「お瀧」との間の娘であった。父は、オランダ商館所属の医師をしていた。
ところが、彼女が2歳の時、父親のシーボルトはシーボルト事件を起こして国外追放になってしまう。一時帰国の際に日本の地図を持ち出そうとしたのを咎められたのだ。その後の彼女は、シーボルトの門下生達によって養育され成人する。
そのシーボルトの門下生の一人、岡山勝山藩の石井宗謙に岡山の地(現在の岡山市下之町界隈)について医学を学ぶ。1845年(弘化2年)から1861年(嘉永4年)まで6年間学んだ。いねは、師の石井宗謙との間に娘一人を設けたが、結婚はしなかった。
宗謙と分別れてからは、宇和島藩主伊達宗城が後見人となっていた。いね本人にとっても、父の門下生であったことから、自分を引き立ててくれている宗城を頼って、足場を固めていく。その後、長崎に遊学する。
我が国初の女性産婦人科医であって、将来の勉強家であったと伝えられる。1856年(安政3年)には日蘭修好条約が締結され、その翌年、禁が解かれて来日していた父シーボルトと再会を果たしたことになっている。
(続く)
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