◻️261の1『岡山の今昔』岡山人(20世紀、薄田泣菫)

2019-06-11 07:41:56 | Weblog

261の1『岡山(備前、備中、美作)の今昔』岡山人(20世紀、薄田泣菫)

 薄田泣菫(すすきだきゅうきん、1877~1945)は、浅口郡大江連島村(現在の倉敷市連島町)の生まれ。幼い頃から、人文に長けた家庭での文学熱の影響もあってか、文学に親しむ。連島高等小学校の当時から雑誌に詩文を投稿していく。

 岡山中学校へ進むも、中退する。随分と思い切りがよいではないか。そして、1897年(明治27年)には、17歳で上京し、漢学塾などに学ぶ。幸い、家族の理解と支援があったのだろう。そのすがら、上野図書館で和漢洋の書物を読んでいたというから、大したものだ。
 1897年(明治30年)には、文芸雑誌「新著月刊」に「花密蔵難見〈はなみつにしてみえがたし〉」とのタイトルで、詩を発表する。この時から泣菫の号を用いる。
 22歳にして、最初の詩集「暮笛集」を出版する。以来、1901年(明治34年)に「ゆく春」を、1905年(明治38年)に「志ら玉姫」から「公孫樹下に立ちて」までの詩篇を収めた「二十五絃」を著す。随所に、古語や漢語をちりばめた。
 1905年(明治38年)には、「ああ大和にしあらましかば」を、その翌年には詩集「白羊宮」を発表する。円熟期を迎え、古典的な中にもロマンたっぷりの詩でファンを集める。
 ところが、1912年(大正元年)には、大阪毎日新聞社に入社を果たす。その前には、国民新聞社、帝国新聞社にも勤めていたというから、驚く。やがて、毎日新聞に詩を連載していく。願ったりかなったりであったろうか。1916年(大正5年)からは、これらをまとめ、随想集「茶話」「後の茶話」そして、「新茶話」を出版していく。

 時は移っての1945年(昭和20年)には、故郷の連島に疎開していた。往年の元気はなく、病気の療養をしていて、同じ年の10月、この地で生涯を終えるのであったが、いかにも、戦後の自由な雰囲気がやってくるのを待ちわびていたのではないか。

(続く)

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