◻️258『岡山の今昔』岡山人(20世紀、正宗白鳥)

2019-06-22 21:52:06 | Weblog

258『岡山(備前、備中、美作)の今昔』岡山人(20世紀、正宗白鳥)

 正宗白鳥(まさむねはくちょう、1879~1962)は、小説家であるとともに文学評論家。和気郡伊里村穂浪(現在の備前市穂浪)の生まれ。本名は忠夫という。
 当地は、海に面した土地柄であり、彼の家は代々網元をしていた。かなり、羽振りが効いたようなのだ。やがて、閑谷学校に学ぶのだが、早々に退学してしまう。

 1896年(明治29年)の17歳の時には、東京専門学校(早稲田大学)に入学する。その在学中には、植村正久・内村鑑三の影響を受け、キリスト教に入信する。

 しかし、1901年(明治34年)の卒業にあっては、これを棄教している。その前から、次第に教会から遠ざかっていたらしい。後の評論「内村鑑三」においては、何事も疑わしいの類いにて、やがて教義に馴染めなくなっていったようだ。

 早稲田大学の出版部から、読売新聞社へと移る。やがて、島村抱月の指導で評論を書き始める。また、同新聞の文芸記者生活のかたわら小説の筆にも取り組む。1904年(明治37年)には、処女作の「寂莫」を発表する。

 1907年(明治40年)には、退社して、文学関係で食べていく決意をする。1908年(明治41年)には、代表作「何処へ」という短編を発表する。その主人公の健次は、友人の箕浦に「妻君でも情婦でも拵え玉えな」と勧めるのだが、こんなやり取りをしている。

「君は故意に不真面目なことを云う。悪い癖だ。」と、箕浦は少し顔を赤らめ、「婦人に対しても、恋愛に関しても、もっと真面目に深い意味を見なくちゃならんよ。」
「そうかねえ。」と健次は冷やかに云って「併し僕自身がそう信ずれば仕方がない、人間は寄生虫、女は肉の塊、昔から聖人がそう云ってる。」
「まさかそんな聖人もあるまい、君は己れを欺いて趣味や情熱を蔑視してるんだ。」と、空を仰いで、「見玉え、空は冴えて、月も鮮やかに出かかってる、虫でも秋の気」云々。

 1935年(昭和10年)には、島崎藤村らと、日本ペンクラブを設立する。戦争に協力するのを避けたかったようだが、なんとか官憲ににらまれることなく過ごしたようだ。戦後は、文学界で世話役として活躍する。芸術院会員を一度は辞退するが、のちには受諾する。文化勲章も受章したというから、根っからの虚無感にひたっていなかったらしい。

(続く)

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◻️260『岡山の今昔』岡山人(20世紀、布上喜代免)

2019-06-22 21:26:23 | Weblog

260『岡山(備前、備中、美作)の今昔』岡山人(20世紀、布上喜代免)

 今の中国縦貫道の津山インターのあるところといったら、おわかりだろうか。河辺(かわなべ、津山市)は、戦前までは文字通り「河の辺り」の湿地帯であって、作物の栽培には大して向いていなかったようだ。ここに女医、布上喜代免は、1924年(大正13年)に、故郷に帰って医院を開業した。

 それまでの彼女の足跡を辿ると、1917年(大正6年)に当時の女性としては珍しい医師免状を得てからは、大阪府庁の保健課主事として忙しく働いていた。それが故郷が貧しく、無医村であったことに触発されたのだという。それからの彼女は戦前、戦中、戦後を通じて地域医療に力を尽くした。

 その地域にとどまって命をつないでいくしかない、当時の多くの貧しい人達を医療面からどう支え、助けていくか、それを本当に担うのは自分であるとの自覚から数十年を働き、1981年、その仕事をやり終えて86歳で永眠したという(岡山女性史研究会「岡山の女性と暮らしー戦後の歩み」山陽新聞社刊、1993に詳細あり)。

 ちなみに、1959年時点の厚生省調査による日本人の平均寿命は、男が65歳、女が69.6歳とされている。

(続く)

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