258『岡山(備前、備中、美作)の今昔』岡山人(20世紀、正宗白鳥)
正宗白鳥(まさむねはくちょう、1879~1962)は、小説家であるとともに文学評論家。和気郡伊里村穂浪(現在の備前市穂浪)の生まれ。本名は忠夫という。
当地は、海に面した土地柄であり、彼の家は代々網元をしていた。かなり、羽振りが効いたようなのだ。やがて、閑谷学校に学ぶのだが、早々に退学してしまう。
1896年(明治29年)の17歳の時には、東京専門学校(早稲田大学)に入学する。その在学中には、植村正久・内村鑑三の影響を受け、キリスト教に入信する。
しかし、1901年(明治34年)の卒業にあっては、これを棄教している。その前から、次第に教会から遠ざかっていたらしい。後の評論「内村鑑三」においては、何事も疑わしいの類いにて、やがて教義に馴染めなくなっていったようだ。
早稲田大学の出版部から、読売新聞社へと移る。やがて、島村抱月の指導で評論を書き始める。また、同新聞の文芸記者生活のかたわら小説の筆にも取り組む。1904年(明治37年)には、処女作の「寂莫」を発表する。
1907年(明治40年)には、退社して、文学関係で食べていく決意をする。1908年(明治41年)には、代表作「何処へ」という短編を発表する。その主人公の健次は、友人の箕浦に「妻君でも情婦でも拵え玉えな」と勧めるのだが、こんなやり取りをしている。
「君は故意に不真面目なことを云う。悪い癖だ。」と、箕浦は少し顔を赤らめ、「婦人に対しても、恋愛に関しても、もっと真面目に深い意味を見なくちゃならんよ。」
「そうかねえ。」と健次は冷やかに云って「併し僕自身がそう信ずれば仕方がない、人間は寄生虫、女は肉の塊、昔から聖人がそう云ってる。」
「まさかそんな聖人もあるまい、君は己れを欺いて趣味や情熱を蔑視してるんだ。」と、空を仰いで、「見玉え、空は冴えて、月も鮮やかに出かかってる、虫でも秋の気」云々。
1935年(昭和10年)には、島崎藤村らと、日本ペンクラブを設立する。戦争に協力するのを避けたかったようだが、なんとか官憲ににらまれることなく過ごしたようだ。戦後は、文学界で世話役として活躍する。芸術院会員を一度は辞退するが、のちには受諾する。文化勲章も受章したというから、根っからの虚無感にひたっていなかったらしい。
(続く)
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆