◻️211『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、逸見東洋)

2019-06-09 20:11:01 | Weblog

211『岡山(備前、備中、美作)の今昔』岡山人(19~20世紀、逸見東洋)

 逸見東洋(へんみとうよう、1846~1920)は、超絶技巧の木工家だ。岡山城下の下之町(現在の岡山市表町)の生まれ。本名は、大吉という。

 やがて、刀工に入り、修行していく。腕を上げると、竹貫斎義隆となのる。1862年(文久2年)には、京都に出て、刀工の天龍子正隆に弟子入りする。ここでも、熱心に技術を学ぶ。1864年(元治元年)になり、郷里岡山に帰り、竹貫斎義隆の名で刀工の旗を上げる。25歳の時には、羽黒神社(現在の倉敷市玉島)に太刀を奉納して、名を上げる。

 ところが、1876年(明治5年)の廃刀令で廃業を余儀なくされる。この商売、せっかく技術を身につけたのに、なかなかうまくいかないものだ。その後は、木彫や竹彫・漆芸・堆朱・堆黒なども手がけていく。食べていかねばならないからだとも。

 腕には、自信があったらしい。鋭い切れ味を持った彫りが、言い知れぬ緊張感を誘う、とでも言おうか。

 1898年(明治28年)には、奮起して、ツゲ材の蟹の置物をつくる。これを、第4回内国勧業博覧会に出して、一等賞金牌を獲得する。また、1910年(明治43年には、堆朱食籠を明治天皇に、続いて1915年(大正4年)には、太刀を大正天皇に差し上げる。太刀の方は、兄との合作であったらしい。

 他にも柔術・弓術・書道・謡曲・茶道などもたしなんだというから、驚きだ。それらの中心となるのは、やはり、彫りの技であったに違いなかろうが、それだけに満足しなかったところが、じつに興味深い。

(続く)

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◻️189『岡山の今昔』岡山人(19世紀、正阿弥勝義)

2019-06-09 18:45:09 | Weblog

189『岡山(備前、備中、美作)の今昔』岡山人(19世紀、正阿弥勝義)

 正阿弥勝義(しょうあみかつよし、1832~1908)は、超絶技巧の金工家で有名だ。津山城下の二階町(現在の津山市二階町)の生まれ。彫金師の中川家8代目勝継の三男として、多感な少年時代を過ごす。

 18歳になると、岡山藩の禄(ろく)をはむ彫金師の正阿弥家の養子になる。そして、8代目の藤四郎の跡を継ぐ。この家は、藩主の用足しで生計を立てていたのだが、明治維新でその藩主との絆はぷっつり切れてしまう。

 しかも、1876年(明治9年)の廃刀令により、刀は不要になる。細工を頼みにやってくる客は、かなり減ったらしい。

 代表作の一つ、「群鶏図香炉」は、丸みがあり、左右対称だ。まさに金工 。高さ15センチメートルの香炉の本体は、銀地に金、銀、赤銅、素銅などの素材を象嵌(ぞうがん)して、鶏の群れを表しているという。蓋の文様にも、工夫が施してある。菊の花弁の1枚1枚が観てとれる。ドーム型の一枚の銀板を元に、鏨(たがね)で彫り出しているのだと言うのだが。解説なしには、なかなかに味わうのがむずかしいみたいだ。

(続く)

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◻️249『岡山の今昔』岡山人(20世紀、永瀬清子)

2019-06-09 08:30:09 | Weblog

249『岡山(備前、備中、美作)の今昔』岡山人(20世紀、永瀬清子)

 永瀬清子(ながせきよこ、1906~1995)は、詩人。岡山県赤磐郡豊田村松木(現在の赤磐市松木)の出身だ。幼年期の2歳から多感な16歳までは、父の赴任地であった石川県金沢市で過ごす。その後、父のまたの転勤で名古屋へ。愛知県立第一高等女学校(後の愛知県立明和高等学校)に入学する。
 在学中から、詩作をよくし、佐藤惣之助に師事し、「詩之家」同人にもなる。なにかと、積極的であったようなのだ。
 ここを卒業すると、結婚して、大阪に住む。そして迎えた1930年(昭和5年)には、第一詩集「グレンデルの母親」を刊行する。翌年の夫の転勤に伴い東京へ。それからは、ますますのめりこんでいく。

 1940年(昭和15年)には、第二詩集「諸国の天女」を著す。こちらには、高村光太郎が序文を書いていて、萩原朔太郎なども励ましの言葉を寄せる。1945年(昭和20年)には、夫の転勤で岡山に戻る。岡山市の生地で農業にも従事する。ここで、敗戦を迎える。

 戦後は、次々と詩作を重ねていく。1952年(昭和27年)には、同人誌「黄薔薇」を主宰し、後進の育成にも当たる。

 やがて、その作風が大きく展開していくのは、前々から温めていたものであろうか。なかでも、原水爆禁止や世界連邦と関わることで、社会性を色濃くしていく。

(続く)

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