211『岡山(備前、備中、美作)の今昔』岡山人(19~20世紀、逸見東洋)
逸見東洋(へんみとうよう、1846~1920)は、超絶技巧の木工家だ。岡山城下の下之町(現在の岡山市表町)の生まれ。本名は、大吉という。
やがて、刀工に入り、修行していく。腕を上げると、竹貫斎義隆となのる。1862年(文久2年)には、京都に出て、刀工の天龍子正隆に弟子入りする。ここでも、熱心に技術を学ぶ。1864年(元治元年)になり、郷里岡山に帰り、竹貫斎義隆の名で刀工の旗を上げる。25歳の時には、羽黒神社(現在の倉敷市玉島)に太刀を奉納して、名を上げる。
ところが、1876年(明治5年)の廃刀令で廃業を余儀なくされる。この商売、せっかく技術を身につけたのに、なかなかうまくいかないものだ。その後は、木彫や竹彫・漆芸・堆朱・堆黒なども手がけていく。食べていかねばならないからだとも。
腕には、自信があったらしい。鋭い切れ味を持った彫りが、言い知れぬ緊張感を誘う、とでも言おうか。
1898年(明治28年)には、奮起して、ツゲ材の蟹の置物をつくる。これを、第4回内国勧業博覧会に出して、一等賞金牌を獲得する。また、1910年(明治43年には、堆朱食籠を明治天皇に、続いて1915年(大正4年)には、太刀を大正天皇に差し上げる。太刀の方は、兄との合作であったらしい。
他にも柔術・弓術・書道・謡曲・茶道などもたしなんだというから、驚きだ。それらの中心となるのは、やはり、彫りの技であったに違いなかろうが、それだけに満足しなかったところが、じつに興味深い。
(続く)
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