160の2『岡山の今昔』岡山人(16~17世紀、宇喜多秀家)
宇喜多秀家(うきたひでいえ、1572~1655)は、戦国末期から安土桃山にかけての有力武将であった。備前岡山が根拠地。
この秀家だが、秀吉から五大老の待遇を得ていた。しかし、国元での財政逼迫には関心が薄かった。
それというのも、進歩派の譜代重臣や新参者の重臣らは、収入を増やそうと新たな検地を行うなど、徴税を行おうという。これに対し、保守派は慎重論をいう。
結局、君主秀家の意向が働く形で財政立て直しがなおざりにされ、反発した保守派のかなり(全体の3分の1とも)が反体制派に転じたと伝わる。また、保守派は日蓮宗を信仰、進歩派はキリスト教信者が多かったことも、両者の対立に油を注いだらしい。
この争いは、秀吉存命中は抑えられていたものの、その後は爆発、劣勢となった保守派の少なからざる部分が離反し、軍事力も大きく後退を余儀なくされる。
やがての関ヶ原の戦い(1600年)で西軍の副将。豊臣を「裏切れなかった」のであろうが、自陣は壊滅してしまう。だが、敗戦でからくも戦場を脱出する。少ない家臣とともに伊吹山に潜んでいるところを、落武者狩りに見つかるも、何とか窮地を脱す。豪姫と再会して、島津家を頼る。
島津家が安堵されてからは、前田利長にも赦免を家康に願い出てもらう。家康は、仕方なく助命を約束する。家康の前に出頭して謝罪する。
1606年(慶長11年)には、八丈島に流される。息子や乳母、家来などを連れた13人にて、海を渡る。この助命にあっては、かつて豊臣秀吉が彼を猶子とし、秀吉の養女であった前田利家の娘の豪姫を妻としていたことも考慮されたようだ。
1634年(寛永11年)の豪姫の死後は、加賀の前田家康から、隔年ながら米や衣類、薬品、金子35両が送られる。その援助は、一族が赦免される明治元年(1868年)まで続く。
(続く)
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
211の6『岡山の今昔』岡山人(20世紀、有元利夫)
有元利夫(ありもととしお、1946~1985)は、今や日本の代表的な画家の一人とされる。両親が疎開していた岡山県津山市の生まれ。男ばかりの4人兄弟の末っ子だという。
その僅か3ヶ月後、一家は戦前の住まいがあった東京都台東区谷中へと戻る。以前は、貸家業を営んでいたという。戦災でその殆どが焼失してしまい、彼の父は文具店を始める。上野と隣り合わせの谷中に住む。
そこで、一日の大概を過ごし、西洋美術館にも通う。東京芸術大学へ入ろうと、四浪し、5度目の挑戦でようやくデザイン科に入学を果たす。3年生になる直前の春休み、一か月近くヨーロッパを旅行を敢行する。フレスコ絵に出会う。仏画との繋がり、岩絵の具、箔(はく)の使用を考えたのだという。
有元利夫(ありもととしお、1946~1985)は、今や日本の代表的な画家の一人とされる。両親が疎開していた岡山県津山市の生まれ。男ばかりの4人兄弟の末っ子だという。
その僅か3ヶ月後、一家は戦前の住まいがあった東京都台東区谷中へと戻る。以前は、貸家業を営んでいたという。戦災でその殆どが焼失してしまい、彼の父は文具店を始める。上野と隣り合わせの谷中に住む。
そこで、一日の大概を過ごし、西洋美術館にも通う。東京芸術大学へ入ろうと、四浪し、5度目の挑戦でようやくデザイン科に入学を果たす。3年生になる直前の春休み、一か月近くヨーロッパを旅行を敢行する。フレスコ絵に出会う。仏画との繋がり、岩絵の具、箔(はく)の使用を考えたのだという。
帰国してからは、独自の道を歩んでいく。1972年の卒業制作が、大学買い上げとなる。1976年に独立してからは、絵画に限らず、素描、版画、木や鉄などにも、必要に応じてさまざまな作品を構築していく。
そこには、まるで周囲に多様な空間を幾つも持っているかのような、いうなれば、四隅を開口し、自由自在にそれらの境を踏み越えることが常であるかのような、さらに、ヨーロッパの中世の出で立ち、顔の輪郭にも、表情にも「ふんわか」「のびのび」さらには「ゆったり」したものが感じられる。
(続く)
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
そこには、まるで周囲に多様な空間を幾つも持っているかのような、いうなれば、四隅を開口し、自由自在にそれらの境を踏み越えることが常であるかのような、さらに、ヨーロッパの中世の出で立ち、顔の輪郭にも、表情にも「ふんわか」「のびのび」さらには「ゆったり」したものが感じられる。
(続く)
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆