◻️211の35『岡山の今昔』岡山人(20世紀、大林千萬樹)

2019-10-12 13:20:41 | Weblog

211の35『岡山の今昔』岡山人(20世紀、大林千萬樹)

 大林千萬樹(おおばやしちまき、1887~1954)は、日本画家。現在の岡山市天瀬南町の生まれ。本名は、頼憲という。若くして東京に上り、富岡永洗に日本画を学ぶ。永洗の没後は、川合玉堂や鏑木清方に学ぶ。こうした中、主に、再興院展で活動していく。
 1923(大正12年)には、大阪毎日新聞社と東京日日新聞社の主催による日本美術展に「春蘭」が入選する。時代考証にもとづく濃密な美人画や、江戸や中国の粋な風俗画が人気を博す。たとえば、「元禄美人図」や「唐美人図」の物腰や表情には、思わず見とれてしまう。それから、変わったものでは、「紅粧」というのは、何やら目をきつくしている女性で、暗がりにて妖艶さが際立つ。
 関東大震災を機に東京を離れて奈良へ移る。その後、名古屋、さらに京都に住む。その後に体調を崩したことから、熱海にある平櫛田中の別荘で療養生活を送る。

(続く)

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◻️265の6『岡山の今昔』岡山人(20世紀、太田薫)

2019-10-12 12:18:41 | Weblog
265の6『岡山の今昔』岡山人(20世紀、太田薫)

 太田薫(おおたかおる、1912~1998)は、労働運動家で。思想的にはマルクス主義に近づいたものの、一線を画したのではないか。
 津山市の生まれ。旧制津山中学、旧制第六高等学校に通う。それから、大阪大学工学部に入る、卒業すると、大日本特許肥料を経て、宇部窒素(現在の宇部興産)に入る。
 順調なサラリーマン生活を歩み、課長となるも、時代が彼を放っておかなかった。経営陣から従業員組合を結成するよう命じられる。その後押しで、1946年(昭和21年)には、初代労働組合長となる。
 ところが、しばらくすると、会社側のあてが外れる。頭脳明晰で雄弁、行動力抜群が、労働者側に立つにいたる。
 1950年(昭和25年)には、上京して、仲間とともに合成化学産業労働組合連合会(合化労連)を結成するが(1979.2まで委員長)。そして、総評(日本労働組合総評議会)に組合(合化労連)が参加する。中央労働委員も務める。
    当時の日本共産党の路線を否定し、日本社会党を中心とした労働運動を目指す。
 1955年(昭和30年)には、左旋回を強める高野実総評事務局長に対抗し、国鉄の労働組合から岩井章が総評事務局長に立つ。岩井が就任すると同時に副議長となる。ダミ声でまくしたてる、それが「太田ラッパ」と呼ばれる。1958年(昭和33年)には、総評議長となる。
 それからは、太田と岩井がコンビで、革新を興していく。1960年(昭和35年)の三井三池・安保闘争を指揮する。
 1964年(昭和39年)の「春闘」では、池田勇人首相とのトップ会談で賃金引上げを認めさる。これ以降、経済闘争に力点を置いた春闘方式を定着させるのに成功する。1966年(昭和41年)に、同議長を辞任する。
 その活動の全盛期には、たとえば、こう評される。いわく、「総評議長の肩には四百五十万人の信頼と期待がずっしりとかかっている。彼はその呼び声にこたえ、全国を歩く。春闘、更にボーナス闘争と、その赴くところどこでもすぐ話し合いの場になる。」(「文藝春秋」昭和1964年5月号「日本の顔」より)
    そしての1979年(昭和54年)4月の東京都知事選挙に立候補するも、敗れる。

(続く)

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◻️192の4の6『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、石井金陵)

2019-10-12 11:38:01 | Weblog
192の4の6『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、石井金陵)

 石井金陵(いしいきんりょう、1842~1926)は、明治から大正時代にかけての日本画家だ。名は、俊という。岡山市の生まれ。
古市金峨(ふるいちきんが)や岡本秋暉(おかもとしゅうき)に日本画を学ぶ。各地を遊歴して回ることも、目を養うことができたという。やがて、故郷の岡山に帰る。門人にも文人画を教える。1902年(明治36年)には、大阪に移る。それからは、画房桃谷山荘を開いて、門人を導く。
 作品は、ネットでも紹介されている。たとえば、その中の「高士観瀑図」(1886)は、大作にして、李白の次の詩作にあやかってか、なかなかに壮観な眺めだ。
「日照香炉生紫烟
遙看瀑布挂長川
飛流直下三千尺
疑是銀河落九天」
「日は香炉を照らして紫烟(しえん)を生ず。遙かに看る、瀑布の長川(ちょうせん)を挂(か)くるを。飛流直下(ひりゅうちょっか)三千尺。疑(うたが)うらくは是(こ)れ銀河の九天より落つるかと。」
 「太陽が香炉峰を照らし、その山腹には紫の煙がかかっている」に始まり、その滝の水が「銀河の九天から落ちる」と締め括る、李白の気迫が、絵筆に乗り移ったかの如し。

(続く)

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◻️211の34『岡山の今昔』岡山人(20世紀、上島鳳山)

2019-10-12 10:40:43 | Weblog

211の34『岡山の今昔』岡山人(20世紀、上島鳳山)

 上島鳳山(うえしまほうざん、1875-1920)は、日本画家だ。

小田郡笠岡村(現在の笠岡市)の生まれ。本名は、寿治郎。辻喜平の二男。祖父は辻鳳山。家は、刀鍛冶をしていたのが、のちに理化学器械の製造にたづさわる。
 円山(まるやま)派の人物・花鳥・動物画を能くする。
 大阪の円山派の画家・木村貫山に学ぶ。西山完瑛、渡辺祥益にも師事する。1900年(明治33年)には、大阪の上島多次郎の長女くに子と結婚して上島姓を継ぐ。絵に邁進するも、なかなかに芽が出なかったようだ。
 1912年(大正元年)には、絵画運動「大正美術会」の設立に、北野恒富らと参加する。大阪の青年画家によるものだという。画房を鳳鳴画屋と称す。
 ちなみに、2016.5.27 付けのサンケイ新聞には、こうある。
 「「上島鳳山と近代大阪の画家たち」展 京都で28日開幕

上島鳳山の生誕140年を記念して開催される特別展「上島鳳山と近代大阪の画家たち」=27日午後、京都市左京区の泉屋博古館(志儀駒貴撮影)

 明治から大正にかけて大阪で美人画などを描いた画家、上島鳳山(ほうざん)の生誕140年を記念し、28日から特別展「上島鳳山と近代大阪の画家たち」(産経新聞社など主催)が京都市左京区の泉屋(せんおく)博古館で開催されるのを前に27日、内覧会が行われた。

 鳳山は岡山県出身で、大阪で日本画を学んだ。住友家をはじめとする大阪の富豪の支援を受けて制作を行い、独特の雰囲気をもつ美人画を数多く描いた。

 特別展では、代表作「十二月美人図」全12幅や初公開の「西王母之図」をはじめ、同時代に大阪で活躍した北野恒富、岡本大更らの作品約50点を展示する。

 特別展を企画した泉屋博古館分館(東京)の野地耕一郎分館長は「鳳山の美人画は東京や京都の画壇の作品に比べ、あでやかで写実性に富む。この展覧会が大阪画壇を見直すきっかけになれば」と話していた。」

 さらに、能や狂言についての造詣も深いことで、かなりに知られる。

(続く)

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