211の35『岡山の今昔』岡山人(20世紀、大林千萬樹)
大林千萬樹(おおばやしちまき、1887~1954)は、日本画家。現在の岡山市天瀬南町の生まれ。本名は、頼憲という。若くして東京に上り、富岡永洗に日本画を学ぶ。永洗の没後は、川合玉堂や鏑木清方に学ぶ。こうした中、主に、再興院展で活動していく。
1923(大正12年)には、大阪毎日新聞社と東京日日新聞社の主催による日本美術展に「春蘭」が入選する。時代考証にもとづく濃密な美人画や、江戸や中国の粋な風俗画が人気を博す。たとえば、「元禄美人図」や「唐美人図」の物腰や表情には、思わず見とれてしまう。それから、変わったものでは、「紅粧」というのは、何やら目をきつくしている女性で、暗がりにて妖艶さが際立つ。
関東大震災を機に東京を離れて奈良へ移る。その後、名古屋、さらに京都に住む。その後に体調を崩したことから、熱海にある平櫛田中の別荘で療養生活を送る。
(続く)
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太田薫(おおたかおる、1912~1998)は、労働運動家で。思想的にはマルクス主義に近づいたものの、一線を画したのではないか。
津山市の生まれ。旧制津山中学、旧制第六高等学校に通う。それから、大阪大学工学部に入る、卒業すると、大日本特許肥料を経て、宇部窒素(現在の宇部興産)に入る。
順調なサラリーマン生活を歩み、課長となるも、時代が彼を放っておかなかった。経営陣から従業員組合を結成するよう命じられる。その後押しで、1946年(昭和21年)には、初代労働組合長となる。
1950年(昭和25年)には、上京して、仲間とともに合成化学産業労働組合連合会(合化労連)を結成するが(1979.2まで委員長)。そして、総評(日本労働組合総評議会)に組合(合化労連)が参加する。中央労働委員も務める。
当時の日本共産党の路線を否定し、日本社会党を中心とした労働運動を目指す。
それからは、太田と岩井がコンビで、革新を興していく。1960年(昭和35年)の三井三池・安保闘争を指揮する。
1964年(昭和39年)の「春闘」では、池田勇人首相とのトップ会談で賃金引上げを認めさる。これ以降、経済闘争に力点を置いた春闘方式を定着させるのに成功する。1966年(昭和41年)に、同議長を辞任する。
そしての1979年(昭和54年)4月の東京都知事選挙に立候補するも、敗れる。
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石井金陵(いしいきんりょう、1842~1926)は、明治から大正時代にかけての日本画家だ。名は、俊という。岡山市の生まれ。
(続く)
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211の34『岡山の今昔』岡山人(20世紀、上島鳳山)
上島鳳山(うえしまほうざん、1875-1920)は、日本画家だ。
小田郡笠岡村(現在の笠岡市)の生まれ。本名は、寿治郎。辻喜平の二男。祖父は辻鳳山。家は、刀鍛冶をしていたのが、のちに理化学器械の製造にたづさわる。
円山(まるやま)派の人物・花鳥・動物画を能くする。
大阪の円山派の画家・木村貫山に学ぶ。西山完瑛、渡辺祥益にも師事する。1900年(明治33年)には、大阪の上島多次郎の長女くに子と結婚して上島姓を継ぐ。絵に邁進するも、なかなかに芽が出なかったようだ。
1912年(大正元年)には、絵画運動「大正美術会」の設立に、北野恒富らと参加する。大阪の青年画家によるものだという。画房を鳳鳴画屋と称す。
ちなみに、2016.5.27 付けのサンケイ新聞には、こうある。 「「上島鳳山と近代大阪の画家たち」展 京都で28日開幕
上島鳳山の生誕140年を記念して開催される特別展「上島鳳山と近代大阪の画家たち」=27日午後、京都市左京区の泉屋博古館(志儀駒貴撮影)
明治から大正にかけて大阪で美人画などを描いた画家、上島鳳山(ほうざん)の生誕140年を記念し、28日から特別展「上島鳳山と近代大阪の画家たち」(産経新聞社など主催)が京都市左京区の泉屋(せんおく)博古館で開催されるのを前に27日、内覧会が行われた。
鳳山は岡山県出身で、大阪で日本画を学んだ。住友家をはじめとする大阪の富豪の支援を受けて制作を行い、独特の雰囲気をもつ美人画を数多く描いた。
特別展では、代表作「十二月美人図」全12幅や初公開の「西王母之図」をはじめ、同時代に大阪で活躍した北野恒富、岡本大更らの作品約50点を展示する。
特別展を企画した泉屋博古館分館(東京)の野地耕一郎分館長は「鳳山の美人画は東京や京都の画壇の作品に比べ、あでやかで写実性に富む。この展覧会が大阪画壇を見直すきっかけになれば」と話していた。」
さらに、能や狂言についての造詣も深いことで、かなりに知られる。
(続く)
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