◻️176の4『岡山の今昔』岡山人(18~19世紀、広瀬臺山)

2019-10-14 22:08:01 | Weblog

176の4『岡山の今昔』岡山人(18~19世紀、広瀬臺山)

 
 広瀬臺山(ひろせたいざん、1751-1813)は南画家だ。津山藩士の三男、広瀬義平として津山藩大坂屋敷に生まれる。大坂在住の青年期に、池大雅門下の福原五岳に画法を学ぶ。

 1781年(安永8年)には、父の隠居に伴い家督を相続する。その翌年には、京都御留守居見習役となる。天明元年(1781)には、江戸定付となる。

 それからは、江戸藩邸での職務をこなすとともに、谷文晁、僧雲室、片桐蘭石、増山雪斎、大窪詩仏など、江戸市中の文化人と交流を深める。そして、すぐれた作品をつくる。

 1803年(享和3年)には、家督を息子に譲り、江戸の麻布長坂に住む。やがての1811年(文化8年)には、津山に帰る。

 画風は、さりげなく、自分の世界に誘うが如しか。その一つ、「蓬莱山水図」には、中空に浮かんでいるかのような、仙人が住むという山がさりげなく描かれている。また、「山静日長図」、「富岳真景図」、「遺琴贈帰図」、「山静日長図」など、多くの文人画を描いている。

(続く)

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◻️192の4の7『岡山の今昔』岡山人(19世紀、飯塚竹斎)

2019-10-14 21:21:44 | Weblog
192の4の7『岡山の今昔』岡山人(19世紀、飯塚竹斎)

 飯塚竹斎(いいづかちくさい、1796~1861)は、津山藩士の三男。父親の勤務地の江戸の生まれ。はじめは漢之丞と名乗る。
 幼い頃から画才を見せ、同藩藩士・小島石梁に手ほどきを受け、16歳の時に広瀬臺山に学ぶ。江戸で谷文晁にも学ぶ。
 23歳で、同藩士の飯塚家(百石)に養子に入る。養子となって間もなく、小姓組で藩主の近習勤めとなる。賞詞される働きぶりだったという。
 1819年(文政2年)には、参勤交代の供で江戸に出立するるしかし、藩の財政逼迫のため翌年津山に帰る。1824年(文政7年)には、文武不出精で行状不良が露見か。藩より、遊芸・遊山・諸猟は勿論酒宴へ出席することはならない、との申し渡しがあった。
 1841年(天保4年)、養父の隠居にともない家督を相続する。中奥組の支配に入る。1847年(弘化4年)には、中風の悪化により、息子への番代を願い出て、隠居の身となる。許されている。
 それからも、藩などから度々画を描く仕事が入る。そんな中でも趣のあるものとしては、例えば、「竹亀図」は、水面にかかったかのような竹の枝ぶりを、一匹の亀が、なんとなくであろうか、見上げているのだが。

(続く)

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◻️157『岡山の今昔』岡山人(15世紀、徹書記)

2019-10-14 19:57:07 | Weblog
157『岡山の今昔』岡山人(15世紀、徹書記)

 徹書記(とおるしょき、1381~1458)は、室町中期の僧侶だ、臨済宗。備中の小田郡の生まれ。幼いうちに、京都にある、臨済宗東福寺の栗棘菴に入る。
 この寺は、全国に所領を営み、働き手をもち、大所帯にて事務は多かったはずだ。「徹書記」と称するからには、その才能があったのではないか。やがて、「右筆」となる。同寺の幹部の仲間入りをしたのであろうか。
 そればかりでなく、いつの頃からなのか、和歌を能くしていたという。若くして、冷泉為秀に学んでいたとも伝わる。
 ところが、ある日、自宅の火災により二万数千首を焼失してしまう。それでも、怯まなかったという。
 しかも、革新的歌人として二条派と対立する。藤原定家に傾倒し、新古今集でのような夢幻的歌風を好む。
 一条兼良の信任を受ける。武家にある歌人との交友も行う。貴族と都の武家にも顔を知られたことだろう。こうなると、もはや本業が何なのかわからない。しかし、六代将軍足利義教の怒りに触れ、草庵領小田庄を没収されたという。
 家集「草根集」は一万一千余首を収める。歌論書ということては、「正徹物語」がある。そんな中から、秋の月を詠んだものから幾つか並べよう。
「窓の月にいとまありともむかはめやおのれにくらき文字の関守」
「むかしよりいく世の人かあかずしてながめすてけん故郷の月」
「白玉かなにぞととへば萩のうへの影はこたへずふるさとの月」
「秋やときはじめは雨をしぐれとも思はぬ月のはれくもり行く」

(続く)

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