新◻️221『岡山の今昔』岡山の農業(歴史的現代)

2022-02-03 21:09:08 | Weblog
221『岡山の今昔』岡山の農業(歴史的現代)

 岡山県の農業は今どうなっているか、と問われるなら、県南部は平坦地が多く、中部は平坦地と傾斜地が混在、さらに北部は山あいの中で取り組まれている。中国山地を水源とする旭川、吉井川、高梁川の三大河川は良質で豊かな水を常にたたえている。
 およその気候としては、月並みには次のように説明されているのではないだろうか、いわく、年間平均値(岡山市)は気温16.2度(摂氏)と、大方が気候温暖だと。年間の降水量は1105ミリメートル、日照時間2030時間と日照時間が長い、さらに台風や地震などの自然災害が少ないとされるなどと。
 したがっての落としどころとしては、立地の良さから恵まれた気候までの大方が揃っていて、農作物の栽培に適した地ということになるだろう。しかしながら、以上はあくまで平均で見た場合の話であって、南部地域に偏っての評価なのかもしれない。例えば、美作の山間部で行われている農業の厳しさにあってはおよその状況はさにあらず、それゆえ別の算段や営農上の格別の工夫が必要な話となっているのを付記しておきたい。
 その上で岡山県の農牧地を眺めると、耕地面積は約6.6万ヘクタール(2020 「農林業センサス」)だという。岡山県の面積は約7,114平方キロメートルなので、そのうち耕地面積は10分の1ほどに相当しよう。総農家数としては約6.3万戸(2020 「農林業センサス」)、総農家数戸は5万753戸(同)、耕地面積6万3600ha(同)だとされる。かたや工業立県と称されながらも、こうした岡山の地理的条件を加味すると、結論的には、岡山の農業はまだまだ伸びる余地あり、というところだろうか。

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 販売農家数(2022年2月初旬での県統計関連サイトなど、以下同じ)は、およそ2万8千戸で、全国で14番目、中国地方では1番とされている。品目別の農業産出額については、米320億円、鶏卵244億円、ぶどう170億円、生乳111億円など合計1401億円だという。
 これにあるように、米作りも盛んな土地柄にて、銘柄では朝日米が全国1位、雄町/酒米がシェア90%で全国1位、ビール大麦が全国4位。
 小麦については、特に津山地域を中心として、多収で製麺性に優れ、加工にも適した品種「ふくほのか」は「津山小麦」としてブランド化が進められている。稲を収穫した後には、黒大豆は全国2位。勝英地域の「作州黒」が全国でも有数の産地。小豆、ササゲも栽培しており、岡山県が開発した品種「夢大納言」という小豆も栽培している。
 全国的に知られたフルーツ生産県であり、2014年でみると清水白桃全国1位でシェア64%で全国1位、マスカットはシェア95.0%で全国1位、ピオーネはシェア41%で全国1位、ほかにも、おかやま夢白桃などと。また、紫苑というのは花栽培にて、全国シェア100%。東アジア原産。 栽培の歴史は古い。平安時代の「今昔物語」にも 出てくる。 秋に、白か、うすピンク色の花を たくさん咲かせる。


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 それにしても、農業というのは、地味で、地道に取り組むしかない、というのが、長らくの間、この国での定番となっていた感があろう。
 そんな「農業の次の一手」として注目されているものに、IOT(インターネットによる情報化)があるという。まだまだ試行錯誤もあるものの、米や野菜の栽培に力を発揮し始めているらしい。
 まずは、一つ紹介したく、こんな記事が載っている。
 「株式会社夢ファームがある西大寺地区は、JR岡山駅から東に20分の位置にある。同社では現在約140人の地主から農地を借り、農作業を受諾して米や麦を生産しており、圃場の数は550枚以上に上る。(中略)2007(平成19)年、独立行政法人農業・食品産業技術総合研究機構(以下、農研機構)が、GIS(地理情報システム)を利用し、圃場地図上で農作業を管理できるPMS(作業計画・管理支援システム)を開発し、ウェブ上で無償公開していた。奥山さんは早速使い始め、その後農研機構との共同開発にも携わるようになった。(中略)
 PMSは、地理座標を持った電子圃場地図上で農作業に関わるさまざまな情報を管理するシステムである。(中略)国の事業に採択後、同社と株式会社ルークシステム(岡山市)はPMSを利用した資金管理システムを開発した。同社では、生産のほか、米や酒、肥料や農薬などの販売も行っている。」(企画・発行は中国電力地域共創本部「GIS互換のITシステムで生産・経営を効率化」、「碧い風」Vol91、2017.11)
 同社の設立は2008年、小さな会社にして、これだけの意欲を持った取り組みができているのには、他にもいろんな創意工夫があるようだ。少し紹介すると、「畑状態の田んばに種を播き、苗が少し成長してから水を入れる乾田直播(かんでんちょくはん)と呼ばれる全国でもめすらしい方法」や、「稼働データを利用できるシステム」を他者と共有する道を模索するあたりは、特に興味深い。

(続く)

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新◻️212『岡山の今昔』岡山の漁業(歴史的現代)

2022-02-03 13:42:45 | Weblog
212『岡山の今昔』岡山の漁業(歴史的現代)

 郷土出身の作家である柴田錬三郎は、「小学校時代、私は、漁師の生活面を眺めて来たので、遠い記憶だが、鯛漁について知識がある」と前置きして、こんな話をしてくれている。
 「(前略)瀬戸内海の鯛は、水深十メートルから五十メートルの間を、泳いでいる。上り鯛と下り鯛がある。産卵に、ため太平洋からやって来るのを、上り鯛という。
 八十八夜あたりから、上って来るもので、漁師は、鯛漁をはじめる。
 しばり網、天保網、五知網の三方法があった。現代は、五知網だけが残っているらしい。ローラー五知、というやつで、ロープを曳いて、船を叩くと、鯛があわてて集結する習性を利用して、引きあげる方法である。但し、雷が鳴る時、またジェット機などが飛ぶと、駄目らしい。
 私が知っているのは、しばり網である。桂(短冊状の物をつけたロープ)で、広い海面を円形にとりまき、これに鯛を追い込んで、せばめて、ひきあげる漁獲法である。
 上り鯛は、旧暦の六月二十三日頃まで、太平洋から瀬戸内海に入って来る。そして、夏をすごして、再び太平洋へ去って行く。麦刈りの時期が、最もたくさん獲れるが、しかし、もうこの頃は、産卵を終わっているから味が落ちているのである。
 太平洋から入って来たのを、いきなり獲った鯛が、いちばん美味なのである。
 おもしろいことに、鯛の群は、ちゃんと海路かをきめていて、けっしてその路線をはずれるようなことはしない。その海路を、網代((あみしろ)という。この網代を、満月の日の夜あけに、しばり網でやると、豊漁であった。
 さて、漁師は、網元と網子の上下関係を、三百年間、保って来た。一人の網元に、七、八十人の網子がついていた。
 網元と網子の関係は、ひとしろ(一人前)の漁獲高の歩合(合(ごう)と称する)で、成り立っている。
「ひとしろ一万円だから、お前は、七合(七千円)でよかろう」
 といった契約になるわけである。きわめて大ざっぱだが、非常に人間的なつながりがあり、信頼感が、漁獲方法とともに、三百年間これを断ち切らせなかったのである。」(柴田錬三郎「鯛について」、「ふるさとの味・西日本」作品社、1998に所収)

 これに一端がひも解かれているような瀬戸内海の漁業は、いうまでもなく瀬戸内海の中央部たる、備讃瀬戸に位置している。そこへ、戦後の国策としての農地拡大の号令の一環として、新たな政策が持ち上がる。およそ5500ヘクタールの干拓地の農業用水を確保するために、前兆1558メートルの締め切り堤防が児島湾に賭けられることで、一大転機を迎えた。これにより、児島湾の大部分は淡水の「児島湖」と、残された細長い「児島水道」とも称される現在の児島湾とに分けられた。
 その「農林省直営の、「児島湾沿岸農業水利工事」に用いられた工法たるや、池田光政の命令で津田永忠が指導してのやった沖新田を造成する時に用いた。一説には、「へ泥の上へ、丸太組みの竹筏(いかだ)へ粗朶(そえだ)とを敷いて、その上に捨石をのせて、それを投げ込むのと、水にさからわぬ研究」とで完成」(岡長平「岡山の味風土記」日本教育出版、岡山文庫121、1986)させたのだと指摘されている。
 そのことは、この辺りの海での漁場そのものの性格を大いに変化させ、ひいては本来であれば漁業を生業としてきた人々の暮らしを激変させていく。とはいえ、これでもって「日本屈指の美魚棲育環境」が全く無くなったと訳ではないものの、1970年(昭和45年)頃からは、いわゆる漁船(海面)漁業が減っていく。魚種の方はイカナゴ、コノシロ、カレイ、シャコ、アサリといった魚種には減少傾向が見られる。
 これを反映してであろうか、2005年で見る岡山県の漁業経営体数は1440で前年より86だけ減り、県下海面の漁場が狭いことと相俟って、一部漁協においては各種漁業が入合って乱獲操業に陥るという状況に陥っていく。その減った分を、児島、牛窓、日生などで牡蠣(カキ)やのりといった海面養殖業の急激な伸展が見られるなど、一定の持ち直しが見られることになっていく。したがって、今の岡山の漁業を語る上では、複眼的な視野からその在り方を探っていくべきなのだろう。

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新◻️222『岡山の今昔』岡山市、倉敷市、井原など(戦前~1970年代、ジーンズなどへ)

2022-02-03 13:41:25 | Weblog
222『岡山の今昔』岡山市、倉敷市、井原など(戦前~1970年代、ジーンズなどへ)

 1880年(明治13年)の下村紡績所の開業を新たな契機として、この地域においての繊維産業は、次なる歩みをしていく。糸の生産に加え、足袋(たび)や畳縁、帯子といった幅広い展開がなされていく。1906年(明治39年)、それまでの児島の繊維業は、大きな節目を迎える。橋本屋の松三家が、足袋縫製に初めて動力ミシンを導入する。そのことをきっかけに、 大正初頭へ向けて児島足袋の全盛期に入っていく。やがて1919年(大正8年)頃には、「足袋の生産」で全国的に知られる。続けて1937年(昭和12年)には、日華事変により衣料統制が敷かれる。そこで、児島の縫製工場は陸海軍の管理工場に指定され、 軍隊の被服を縫製することになる。
 戦後になると、1950年(昭和25年)、繊維の統制が撤廃される。1956年(昭和31年)には、学生服の生産がさらに伸び、全国の70%を生産する。
 これは、児島(1967年に倉敷・児島・玉島の旧3市が合併、新生の倉敷市となり、同市に編入)に散在する地域の各企業を結びつける役割を果たしていく。そのことは、大企業の力が働いていたこともあろうが、この時期までに、綿の加工を起点とする生産の一貫体制(「中小紡績→撚糸→織布→染色→縫製」)が、井原を含み出来ていたため、このような展開になったのではないだろうか。
 その実、井原の地では、江戸時代の中期頃から綿花栽培が盛んに取り組まれるようになり、その前からの藍(あい)と合わさっての藍染織物(手織り)の産地として知られるようになっていく。「備中小倉」のブランドも生まれ、その流れから学生服や作業服の服地にも採用され、全国的にも知られるようになっていったようである。しかも、その銘柄のバリエーションの一つとして、表面が藍色で裏側が白(生成)の厚地織物が話題となり、「裏白」と呼ばれることになるのだが、これがアメリカの「DENIM」さながらの品質であることから、今日では国産デニムのルーツとも言われている。
 そして戦後を迎えると、アメリカのジーンズの文化がこの地にも流れ込む。そうなることで、井原産の「裏白」をベースにデニム生地を使ったジーンズの生産が始まる。その発展は、1970年(昭和45年)頃には、生産数としては当時の国内の約75%を占めていたのだという。
かたや、アメリカの影響を受けたジーパンメーカー のマルオ被服(後の「ビッグジョン」)が、1960年(昭和35年)に誕生する。そして迎えた1965年(昭和40年)には、アメリカから輸入したデニムの生地を使い、我が国のジーンズ生産の先駆けとなる。
 これは、学生服製造に衰退の陰が見え始める中での出来事であり、内外の注目を集める。 生地も染色も、かねてからこの時を待っていたかのように、新しい素材が加わることで、この地域で爆発的なブームが起こっていく。1973年(昭和48年)には、倉敷紡績が初の国産デニムの製造を開始し、この地区でのジーンズの一貫生産の体制が整う。
 これを歴史の一齣として地元に関係資料を展示し、明るい未来につなげようとしているものに児島学生服資料館(倉敷市児島下の町)があり、これを紹介している文例には、こうある。
 「資料館は日本被服株式会社の会社内にある築90年の蔵を活用し、一階には昔の工場の様子を写したたくさんの写真、学生服を縫製していたミシン類や、学生服そのもの、そしてボタンや小物など様々なものが展示されている。
 しかし、この博物館での一番の見所は、二階にある400着ほどの学生服のコーナーだ。ここでは好きな学生服を自由に試着できる。この体験をするために若い女性から熟年層まで幅広い年齢層が訪れ、最近は香港や台湾など海外からの来訪者もあるという。」(丹治俊樹「世にも奇妙な博物館、未知と出会う55スポット」星雲社、2021)
 けだし、現在のジーンズというのは、こうした幅広い、しかも流行に敏感な顧客の需要に答えるべく、バリエーションの豊富さが求められているかのようであり、それだけ進化を遂げた設計力、デザイン力なりがつねに求められているのであろう。

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