🔶202『自然と人間の歴史・世界篇』ヨーロッパ諸都市の自治(ヴェネツィア、ジェノバ、アムステルダムなど)
現在のヴェネツィア(ベネツィア)は、イタリアの北部ヴェネト(ベネト)州の州都だ。アドリア海のラグーン(ラグーナ)と呼ばれる干潟(ひがた)に浮かぶ118もの島々からなるという。
その名の由来は、「ウェネティ人の土地」というラテン語だという。もう一つ、「水の都」の通称を持っているのは、この街に属する島々が数多くの橋でつながっていることからくるのだろうか。5世紀(452年)には、このあたりの人びとに自治が築かれる。小さいながらも、共和国となった(のち1797年まで続く)。東ローマ帝国の支配下にあったのだが、それは緩いものであって、多民族の侵入に晒されていたことも、人びとを結束させるに力があったという。10世紀にもなると、海運共和国として貿易で栄えるようになる。
このヴェネツィアだが、信教の自由と法の支配が有名であって、これなくしては「千年の都」は実現しなかったであろう。ここでは、その最盛期、次いで16世紀、17世紀のそれぞれにつき、簡単に振り返っておこう。(中略)
その16世紀の対外的な有様については、こういわれる。
「しかし、レパントの海戦の勝利にもかかわらず、その後のスペインとの不和のためトルコの前に孤立し、1573年にはキプロス島をトルコに譲って、その意を迎えることによって東方貿易の維持をはかるほかなかった。西欧諸国の東方貿易への進出がヴェネーツィアの海上商業をときとともに守勢に立たせてもいた。また、スペインとオーストリアの両ハプスブルク勢力のあいだに挟まれたヴェネーツィアの立場は、イタリアの内部にあっても、フランスやサヴォーイァ公国などと結んで、わずかに現状維持を策する以上には出なかった。」(森田鉄郎編「イタリア史」山川出版社、1976)
こうした閉塞的な外部環境は、17世紀に入っても続いた。
その名の由来は、「ウェネティ人の土地」というラテン語だという。もう一つ、「水の都」の通称を持っているのは、この街に属する島々が数多くの橋でつながっていることからくるのだろうか。5世紀(452年)には、このあたりの人びとに自治が築かれる。小さいながらも、共和国となった(のち1797年まで続く)。東ローマ帝国の支配下にあったのだが、それは緩いものであって、多民族の侵入に晒されていたことも、人びとを結束させるに力があったという。10世紀にもなると、海運共和国として貿易で栄えるようになる。
このヴェネツィアだが、信教の自由と法の支配が有名であって、これなくしては「千年の都」は実現しなかったであろう。ここでは、その最盛期、次いで16世紀、17世紀のそれぞれにつき、簡単に振り返っておこう。(中略)
その16世紀の対外的な有様については、こういわれる。
「しかし、レパントの海戦の勝利にもかかわらず、その後のスペインとの不和のためトルコの前に孤立し、1573年にはキプロス島をトルコに譲って、その意を迎えることによって東方貿易の維持をはかるほかなかった。西欧諸国の東方貿易への進出がヴェネーツィアの海上商業をときとともに守勢に立たせてもいた。また、スペインとオーストリアの両ハプスブルク勢力のあいだに挟まれたヴェネーツィアの立場は、イタリアの内部にあっても、フランスやサヴォーイァ公国などと結んで、わずかに現状維持を策する以上には出なかった。」(森田鉄郎編「イタリア史」山川出版社、1976)
こうした閉塞的な外部環境は、17世紀に入っても続いた。
「しかもヴェネーツィアは、17世紀前半において、いくつかの国際的紛争をある程度成功裡に収拾するだけの力を残していた。ことに反宗教改革の波がイタリアを風靡(ふうび)するなかで、国内の教会のことに関して教皇の干渉を許さない独自の立場を保持していた。17世紀初頭にヴェネーツィア政府が宗教機関の不動産取得を制限し、また、二人の聖職者を処罰したことに発して、かねてからヴェネーツィアに教権の確立をねらう教皇庁とのあいだに紛争がおこったとき、スペインの支持を得た教皇パウルス五世は、1606年ヴェネーツィアを破門したが、これに対しヴェネーツィア政府は、改革派の聖職者サルビの指導下に完全と対抗し続けた。」(同)
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それでは、こうした自治都市というのは、地域によりどのような発展経路をたどっていったのだろうか、例えば、そもそものルネサンス期(1450~1600)の姿としては、ものものしい一面も覗かせている。次に紹介するのは、1481年に発表されたクリストフォロ・デ・グラッシ作の「イタリア、ジェノバの光景」に寄せたジェレミー・ブラック(歴史学者)による説明文の一節である。
「ジェノヴァはこれまで繁栄を脅かしたすべての打撃に備えることになった。市街地にはほとんど特徴のない小さな家々がびっしりと密集し、波止場のすぐそばまで迫っている。2本の防波堤ははっきりと描かれ(西側には)有名な灯台が見える。港の中央(画面中央)には武器庫がある。」(ジェレミー・ブラック著、野中邦子/高橋早苗訳「世界の都市地図500年史」河出書房新社、2016)
「ジェノヴァはこれまで繁栄を脅かしたすべての打撃に備えることになった。市街地にはほとんど特徴のない小さな家々がびっしりと密集し、波止場のすぐそばまで迫っている。2本の防波堤ははっきりと描かれ(西側には)有名な灯台が見える。港の中央(画面中央)には武器庫がある。」(ジェレミー・ブラック著、野中邦子/高橋早苗訳「世界の都市地図500年史」河出書房新社、2016)
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その後、17世紀までの姿については、例えば、次のように説明されている。
「17世紀にはスペインの支配下に置かれていたとはいえ、イタリアには都市を中心にした都市国家がいくつもあった。ロンバルディアにあったミラノの北にあったミラノ公国は、スホルツァ一族による独裁的な支配で知られた。(中略)
ヴェネチアヤ、ジェノヴァのような都市国家は、かつての役割を保ちつづけた。16世紀および17世紀の西洋社会で、都市共和国は善政た市民の美徳のお手本として広く称揚された。共和制と密接に結びついていた古代ギリシャの美徳を思いださせるものだったのだ。公共の美徳は共和制を特徴づけるものであり、「均整のとれた」組織をもつ国家の産物とみされたのである。」(ジェレミー・ブラック著、野中邦子/高橋早苗訳「世界の都市地図500年史」河出書房新社、2016)
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「ネーデルランド連邦共和国(オランダ共和国)は、都市連邦のひとつの形として、その典型と考えられた。1100年頃に漁村として築かれ、1275年に初めて都市特許状をうけたアムステルダムはやがて製造および通商の街となり、17世紀には黄金時代を迎えた。アムステルダムの有名な運河が築かれたのはこの時期であり、1665年にはアムステルダム市民の誇りとこの都市の重要さを世に知らしめるために壮大な市庁舎が建設された。
しかし、多くの都市は独立した存在として政治を運営したいと願ってはいたものの、領土を接した国家として連携したほうが、諸都市にとってはより効果的な防衛になったはずである。辺境地帯にないかぎり、近代的な(そして費用のかさむ)要塞化や市民軍を必要としなかった。こうした国家は、領主である支配者たちの権力、財政的な資源をもつ地元の上流人士、都会のエリートたちの商業的な関心が組み合わさって発展した。
こうした協力関係は世界中のいたるところで見られたわけではない。ほとんどの地域では、田舎と都会のエリートのあいだに民族および社会的な格差があった。そんなわけで、オスマン帝国の首都は偉大なコンスタンティノープルだったが、田舎の領主であるムスリムのトルコ人エリートたちは、アレクサンドリア、スミルナ(イズミール)、サロニカ(デッサロニカ)といった商業の中心地で活動するキリスト教徒やユダヤ教徒の有力商人たちに少しも親近感をもたなかった。」(ジェレミー・ブラック著、野中邦子/高橋早苗訳「世界の都市地図500年史」河出書房新社、2016)
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これらにもあるように、アムステルダムは、商人のために商人により築かれた運河(1600年代~、3つの大運河が有名)に囲まれた都市であって、フランドルや北フランス、北ドイツといった北欧では、領主は商人の力に押されて農村部に移るなどするケースが多かった。これに対しイタリアなどにある都市では、封建領主である貴族が都市領域に入り、場合によっては市民となりかわっていく、その過程で都市は武装にも努めていく、いわゆる都市国家の発展が強く見られる(もう少し詳しくは、手頃な参考文献としては、石坂昭雄ほか「新版、西洋経済史」有斐閣双書、1985を推奨したい)。
(続く)
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