136『岡山の今昔』1980年代の岡山県
ここでは、1980年代の「岡山都市圏」(定義としては、全市と関連自治体)の暮らし向き(実生活)を、若干ながら観察してみよう。まずは、前提としての産業構造は、前段としての高度成長期(概ね1950年代半ば~概ね1960年代)から低成長への過渡期(概ね1970年代)の激動期を経て、全産業にわたりそれなりの知識集約化、そしてサービス業へのウエイト増加が見られる。
それと相俟っては、人口動態に少し触れておこう。それというのも、同都市圏の出生数(5年間)は、1980~1985年の70千人が1985~1990年には63千人と減少している。
では、これとの関連での就業の状況は、どのように推移したのだろうか。これをみると、1980年には全体が534.9千人のうち、第一次産業が12.9%の69.2万人、第二次産業が32.8%の175.2千人であるのに対し、第三次産業は54.3%、290.5千人とされる。これが1985年までくると、全体が544.2千人のうち、第一次産業が11.4%の62.0万人、第二次産業が32.3%の175.8千人であるのに対し、第三次産業は56.3%、306.4千人とあり、製造業はほぼ横ばいで健闘するも、農業など第一次産業はウエイト及び就業者数の減少が止まらない。
二つ目、今度は県内を俯瞰的に見たら、どんな具合なのだろうか。視点を県内工業の重化学工業化比率に変えて見ると、1980~1985年の事業所数では19.8%から22.6%に、従業者数では43.1%から46.4%に伸びている
(下野克己「高度成長期の地域産業構造の変化ー岡山市と倉敷市の場合」岡山大学経済学会雑誌19(2)、1987に引用の統計から引用、以下この文節では同じ)。
一方、出荷額等の比率は74.4%から73.2%と横ばいである。その中でも水島工業地帯の、同期間における岡山県工業における比率は、それぞれ3.8%から4.0%に、17.3%から15.3%に、58.2%から49.8%変化しており、中核的存在であり続けている。
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次に、戦後の農業についてはどうなっているだろうか。ここで1980年までの岡山農業の歩みとしては、農家数、農業就業人口、経営耕地面積の変化に触れておこう。
中でも農家数は、「1960年から1980年の間に3万7734戸がみられた。減少率は21.9%で、全国の23%をやや下回る。この間に専業農家は4万6657戸、率にして70%をこえる75.6%の減少があった。その減少はその数が実に4分の1になるという専業農家数の減少に負っている。他方、兼業農家はこの間8923戸、増加率8.1%の増加があり、専業農家の兼業農家化が進展した。しかし、この兼業農家数も1970年をピークとして減少に転じ、以後減少しつづけている。」(神立春樹「岡山県にみる戦後農業集落の変貌ー「農業集落調査」にもとづく統計的概観」岡山大学経済学会雑誌20(3)),1986)
ここでは、1980年代の「岡山都市圏」(定義としては、全市と関連自治体)の暮らし向き(実生活)を、若干ながら観察してみよう。まずは、前提としての産業構造は、前段としての高度成長期(概ね1950年代半ば~概ね1960年代)から低成長への過渡期(概ね1970年代)の激動期を経て、全産業にわたりそれなりの知識集約化、そしてサービス業へのウエイト増加が見られる。
それと相俟っては、人口動態に少し触れておこう。それというのも、同都市圏の出生数(5年間)は、1980~1985年の70千人が1985~1990年には63千人と減少している。
では、これとの関連での就業の状況は、どのように推移したのだろうか。これをみると、1980年には全体が534.9千人のうち、第一次産業が12.9%の69.2万人、第二次産業が32.8%の175.2千人であるのに対し、第三次産業は54.3%、290.5千人とされる。これが1985年までくると、全体が544.2千人のうち、第一次産業が11.4%の62.0万人、第二次産業が32.3%の175.8千人であるのに対し、第三次産業は56.3%、306.4千人とあり、製造業はほぼ横ばいで健闘するも、農業など第一次産業はウエイト及び就業者数の減少が止まらない。
二つ目、今度は県内を俯瞰的に見たら、どんな具合なのだろうか。視点を県内工業の重化学工業化比率に変えて見ると、1980~1985年の事業所数では19.8%から22.6%に、従業者数では43.1%から46.4%に伸びている
(下野克己「高度成長期の地域産業構造の変化ー岡山市と倉敷市の場合」岡山大学経済学会雑誌19(2)、1987に引用の統計から引用、以下この文節では同じ)。
一方、出荷額等の比率は74.4%から73.2%と横ばいである。その中でも水島工業地帯の、同期間における岡山県工業における比率は、それぞれ3.8%から4.0%に、17.3%から15.3%に、58.2%から49.8%変化しており、中核的存在であり続けている。
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次に、戦後の農業についてはどうなっているだろうか。ここで1980年までの岡山農業の歩みとしては、農家数、農業就業人口、経営耕地面積の変化に触れておこう。
中でも農家数は、「1960年から1980年の間に3万7734戸がみられた。減少率は21.9%で、全国の23%をやや下回る。この間に専業農家は4万6657戸、率にして70%をこえる75.6%の減少があった。その減少はその数が実に4分の1になるという専業農家数の減少に負っている。他方、兼業農家はこの間8923戸、増加率8.1%の増加があり、専業農家の兼業農家化が進展した。しかし、この兼業農家数も1970年をピークとして減少に転じ、以後減少しつづけている。」(神立春樹「岡山県にみる戦後農業集落の変貌ー「農業集落調査」にもとづく統計的概観」岡山大学経済学会雑誌20(3)),1986)
一方、農業就業人口については、「1960年には基幹的農業従事者のみであるが、33万3633人てあったものが、70年代には16万7326人へと半減し、さらに80年には8万475人へとまた半減するといつ激しい減少をみせているのである。」(神立、前掲論文)
さらに経営耕地面積の変化もかなりのものであり、「1960年11万3451haをピークとして以後減少し、80年までに3万1232ha、率にして実に27.5%の減少があった。水田はこの間に1万8982haの減少があり、減少率23%、畑は1万383ha、率にして42.8%の減少があった。他方、樹園地は131ha、率にして2.8%の増加があった。農業の軸である稲作の水稲作面積をみると、1960年から80年の間に2万7896ha、率にして35%という減少があった。この岡山県の動きは、経営耕地面積、水田、畑のいずれにおいても、また水稲作においても、減少率は全国をはるかに上回っている。」(神立、前掲論文)
それでは、これらを概観するとどうなるか、同論文において、神立氏は次のように語られている。
「すべての類型農業集落においてその変貌は著しいが、その変貌には対蹠(たいしょ)的な二つのタイプがある。その一つは都市的集落における変貌である。都市的集落は岡山県の場合は岡山市の周辺の岡山平野部にあるものなどであり、そこは元来は豊かな水田農業地帯であったが、都市化のストレートな影響によって変貌している。住宅地化、工業用地化による混在化・都市化の進展は著しく、農業生産基盤は弱体となり、農業集落としてのまとまりもむずかしくなってきている。
これと対蹠的なのは山地村山村的集落のそれである。山地村山村的集落は従来一定の農業生産基盤があったが、農業生産の担い手の流出により農業生産が衰微し、農業集落もそのまとまりを継続しがたいものともなる。
この二つを両極とした多様な変化がみられる。この変貌についての立ち入った検討は個別的な地域についての検討によって果たされる。その対象としては、先程の集落変貌のタイプからみて、いまや都市化の進行の著しい県南部の肥沃(ひよく)な干拓地農村、そして一方での過疎的現象が著しい県北部の中国山地農村、これらが格好のもとなろう。」(神立、前掲論文)
(続く)
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