250『岡山の今昔』吉備中央町(加賀郡)
加賀郡の吉備中央町は、2004年10月に、加茂川町、賀陽町が合併して発足した。
南部は、有名な吉備高原に含まれる。楓や漆、紅葉などが生えている、「宇甘渓自然公園」(うかい(うかん)けいしぜんこうえん)もある。交通の便は、岡山自動車道賀陽ICから岡山県吉備中央町の宇甘渓自然公園まで、車で約25分にて、赤い橋がシンボルの「宇甘渓自然公園」には着くという。
そこでは、旭川の一支流としての宇甘川が極度に狭まり、激流が岩を削って奇岩・音岩のそそり立つ山肌が見える。宇甘川に面した斜面は非常に急峡であり、またツガやモツを主とする天然林でもあることから、吉備清流県立自然公園にも指定されている。そういうことから、「春の桜や冬の雪景色と四季を通じて景観が美しい」という。殊に、秋ともなれば、大勢のウォーカーが訪れるという。
さて、このあたりの町起こしということでは、昔も今も、人を呼び込むのが近道であろうか。ここで幾つか紹介したい。それというのも、町内の上野地区に、会話は「英語オンリー」を掲げる古民家宿が2013年からあり、世界を旅しながら日本の田舎暮らしを求めて訪れる外国人と、彼らとのふれあいを求める日本人とが泊まり込みで交流する場となっているという。
その場所は、町のほぼ中心の小高い山を登った先にある「岡山英語村ナノビレッジ」という施設で、ある新聞記者が訪ねると、宿の軒先で外国人ら8人が出来立ての餅をほおばっていたという。聞こえてくる言葉はすべて英語だというのは、なんとも敷居が高い。
それでも、アメリカやオランダ、フランスなど様々な国から外国人がやってくるらしく、その人たちは、京都や奈良、東京などでの名所旧跡や賑やかな観光地では「お好み」ではないらしい。そんなことよりも、日本人の生活そのものを知りたい、ざっくばらんに国際交流したいというのであろうか。そんな外国人や日本人たちが長い人では2週間~1カ月ほど滞在することが多いというから、驚きだ。
二つ目に紹介したいのは、山陽新聞デジタル版(2019年11月6日付け)で見つけた、自然を頼みに人を呼び込むにはどうしたらいいのだろうか、その回答らしき一つが、こうある。
「秋の深まりとともに、岡山県吉備中央町の吉備高原にも雲海の季節が到来した。「雲海の里」として知られる長丸(ちょうがん)集落(同町高谷)では6日早朝も、真っ白い大海原が出現。合間から山々の頂がぽっかりと浮かび、幻想的な情景を描き出している。
雲海は、放射冷却で地表付近の気温が下がり、空気中の水分が霧になる現象。気温が低く快晴となった山間部や盆地で発生しやすく、明け方の数時間だけ観察できる。
同町のほぼ中央に位置する長丸集落の標高は約300メートルで、眼下に広がる景観は刻一刻と変化。灰色だった雲海は日の出とともにオレンジ色に輝き、徐々に明るさを増して白色に。山々も黒から緑へと表情を変えていった。
町観光協会は「見ごろは来年2月ぐらいまで。早起きして、素晴らしい光景を目に焼き付けて」としている。」
これなどは、今時のテクノロジーを駆使しても、なかなかに得難いのではないだろうか、自然現象にはひとの心を洗ったり、癒したり、あるいは「励起」したりもする。ネットに出てくる写真には泣けるようだし、早朝のトレッキングにはもってこいの場所ではないだろうか。ついでに、景色を眺めながら、持参のおにぎりを食べるのも、良い思い出ができるのではないだろうか。
この辺りの近世からの歩みでいうならば、やはり、長らくの間農業が重きをなしてきたのであろう。そのことは、つぎの紹介にあるような農具発達の経緯からも窺えよう。
「中国地方の中央を走る吉備高原・冠山(かんむりやま)山地は、山陽一帯でも最も広い地域で、農耕を中心とした生活が広がっている。それは花田植えの如き華やかな行事が各地に残っているのでも知られる。農耕具は南北を通じて呼称の違いはあっても、形式とか機能はそれほど大きな差はみられない、農耕具や日常生活の諸民具の多くは、この山地高原に自生する草木でつくった自家製品が多く、コウラミノや三八笠(さんぱちがさ)、自然の木の反(そ)りを利用したオイコやネコ車などがある。同時に村の大工・木挽(こびき)・鍛冶屋(かじや)などにつくらせたものも多い。かつて用いた麻(あさ)の山着なども、畑で栽培した麻を各家で繊維にして紡(つむ)ぎ、染めた糸を機(はた)にかけて布とした。
また、この地帯を訪ねると時折、特に古い長床鋤(ながとこすき)をみかける。なかには牛に引かせないで人が一人で引いた一人鋤をみかける。引き綱を腰にかけて後ろ向きになって引く、いまからすればかなり時代ばなれした農具である。」(早川貞和、坂田貞和ほか制作・編集「グラフィックカラー 日本の民話」12、中国2❮岡山・広島・山口❭研秀出版、1977)
また、この地では、戦後に酪農が大いなる発展が見られ、ここでは例えば、吉田牧場の取り組みが、次のように紹介されている。
「30歳を前に就農した当初は乳を農協に出荷していた。(中略)もっと乳を搾ろうと言われた翌日、方針転換から頭数を減らさないとペナルティだと迫られた。吉田さんは「妄想」と呼ぶが、「いずれはちーを作りたい」と頭の中では準備していた。(中略)生産調整とは決別し、借金をしてチーズ工房を作った。乳酸菌は自家培養し、この土地らしい味を目指すことにした。(中略)40代に入り、酪農のルーツを訪ねる旅がライフワークになった。」(編集委員・長沢美津子「輝く人、牛飼い・チーズ職人、吉田全作さん(64)、手本なき世界を探検」朝日新聞、2019年11月24日付け)
なお、吉田さんは、北海道大学を卒業後、東京でのサラリーマン生活をしていたものの、1984年(昭和59年)に、夫婦で吉備高原で酪農家となる。1988年(昭和63年)には、チーズ作りに踏み出す。ブラウンスイス種を放牧。この牛は、足腰が強く、濃いミルクを出すとのこと。
その後は概ね順調なようで、2019年現在は、子牛を含めて約50頭、これを家族9人で事業を展開しているという。
ほかにも、チーズの熟成庫は地下にしたり、太陽光発電、雨水の浄化を行う。主力のチーズは、顧客との直接取引を重視し、牧場の売店て販売を行う。総じての「技術がいくら身についても、チーズのおいしさは原料乳の質が絶対だからです」と取材者にいうあたり、文字どおり「簡単な道をえらばない方が後悔はない」(同)という格言もここから生まれる。
(続く)
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加賀郡の吉備中央町は、2004年10月に、加茂川町、賀陽町が合併して発足した。
南部は、有名な吉備高原に含まれる。楓や漆、紅葉などが生えている、「宇甘渓自然公園」(うかい(うかん)けいしぜんこうえん)もある。交通の便は、岡山自動車道賀陽ICから岡山県吉備中央町の宇甘渓自然公園まで、車で約25分にて、赤い橋がシンボルの「宇甘渓自然公園」には着くという。
そこでは、旭川の一支流としての宇甘川が極度に狭まり、激流が岩を削って奇岩・音岩のそそり立つ山肌が見える。宇甘川に面した斜面は非常に急峡であり、またツガやモツを主とする天然林でもあることから、吉備清流県立自然公園にも指定されている。そういうことから、「春の桜や冬の雪景色と四季を通じて景観が美しい」という。殊に、秋ともなれば、大勢のウォーカーが訪れるという。
さて、このあたりの町起こしということでは、昔も今も、人を呼び込むのが近道であろうか。ここで幾つか紹介したい。それというのも、町内の上野地区に、会話は「英語オンリー」を掲げる古民家宿が2013年からあり、世界を旅しながら日本の田舎暮らしを求めて訪れる外国人と、彼らとのふれあいを求める日本人とが泊まり込みで交流する場となっているという。
その場所は、町のほぼ中心の小高い山を登った先にある「岡山英語村ナノビレッジ」という施設で、ある新聞記者が訪ねると、宿の軒先で外国人ら8人が出来立ての餅をほおばっていたという。聞こえてくる言葉はすべて英語だというのは、なんとも敷居が高い。
それでも、アメリカやオランダ、フランスなど様々な国から外国人がやってくるらしく、その人たちは、京都や奈良、東京などでの名所旧跡や賑やかな観光地では「お好み」ではないらしい。そんなことよりも、日本人の生活そのものを知りたい、ざっくばらんに国際交流したいというのであろうか。そんな外国人や日本人たちが長い人では2週間~1カ月ほど滞在することが多いというから、驚きだ。
二つ目に紹介したいのは、山陽新聞デジタル版(2019年11月6日付け)で見つけた、自然を頼みに人を呼び込むにはどうしたらいいのだろうか、その回答らしき一つが、こうある。
「秋の深まりとともに、岡山県吉備中央町の吉備高原にも雲海の季節が到来した。「雲海の里」として知られる長丸(ちょうがん)集落(同町高谷)では6日早朝も、真っ白い大海原が出現。合間から山々の頂がぽっかりと浮かび、幻想的な情景を描き出している。
雲海は、放射冷却で地表付近の気温が下がり、空気中の水分が霧になる現象。気温が低く快晴となった山間部や盆地で発生しやすく、明け方の数時間だけ観察できる。
同町のほぼ中央に位置する長丸集落の標高は約300メートルで、眼下に広がる景観は刻一刻と変化。灰色だった雲海は日の出とともにオレンジ色に輝き、徐々に明るさを増して白色に。山々も黒から緑へと表情を変えていった。
町観光協会は「見ごろは来年2月ぐらいまで。早起きして、素晴らしい光景を目に焼き付けて」としている。」
これなどは、今時のテクノロジーを駆使しても、なかなかに得難いのではないだろうか、自然現象にはひとの心を洗ったり、癒したり、あるいは「励起」したりもする。ネットに出てくる写真には泣けるようだし、早朝のトレッキングにはもってこいの場所ではないだろうか。ついでに、景色を眺めながら、持参のおにぎりを食べるのも、良い思い出ができるのではないだろうか。
この辺りの近世からの歩みでいうならば、やはり、長らくの間農業が重きをなしてきたのであろう。そのことは、つぎの紹介にあるような農具発達の経緯からも窺えよう。
「中国地方の中央を走る吉備高原・冠山(かんむりやま)山地は、山陽一帯でも最も広い地域で、農耕を中心とした生活が広がっている。それは花田植えの如き華やかな行事が各地に残っているのでも知られる。農耕具は南北を通じて呼称の違いはあっても、形式とか機能はそれほど大きな差はみられない、農耕具や日常生活の諸民具の多くは、この山地高原に自生する草木でつくった自家製品が多く、コウラミノや三八笠(さんぱちがさ)、自然の木の反(そ)りを利用したオイコやネコ車などがある。同時に村の大工・木挽(こびき)・鍛冶屋(かじや)などにつくらせたものも多い。かつて用いた麻(あさ)の山着なども、畑で栽培した麻を各家で繊維にして紡(つむ)ぎ、染めた糸を機(はた)にかけて布とした。
また、この地帯を訪ねると時折、特に古い長床鋤(ながとこすき)をみかける。なかには牛に引かせないで人が一人で引いた一人鋤をみかける。引き綱を腰にかけて後ろ向きになって引く、いまからすればかなり時代ばなれした農具である。」(早川貞和、坂田貞和ほか制作・編集「グラフィックカラー 日本の民話」12、中国2❮岡山・広島・山口❭研秀出版、1977)
また、この地では、戦後に酪農が大いなる発展が見られ、ここでは例えば、吉田牧場の取り組みが、次のように紹介されている。
「30歳を前に就農した当初は乳を農協に出荷していた。(中略)もっと乳を搾ろうと言われた翌日、方針転換から頭数を減らさないとペナルティだと迫られた。吉田さんは「妄想」と呼ぶが、「いずれはちーを作りたい」と頭の中では準備していた。(中略)生産調整とは決別し、借金をしてチーズ工房を作った。乳酸菌は自家培養し、この土地らしい味を目指すことにした。(中略)40代に入り、酪農のルーツを訪ねる旅がライフワークになった。」(編集委員・長沢美津子「輝く人、牛飼い・チーズ職人、吉田全作さん(64)、手本なき世界を探検」朝日新聞、2019年11月24日付け)
なお、吉田さんは、北海道大学を卒業後、東京でのサラリーマン生活をしていたものの、1984年(昭和59年)に、夫婦で吉備高原で酪農家となる。1988年(昭和63年)には、チーズ作りに踏み出す。ブラウンスイス種を放牧。この牛は、足腰が強く、濃いミルクを出すとのこと。
その後は概ね順調なようで、2019年現在は、子牛を含めて約50頭、これを家族9人で事業を展開しているという。
ほかにも、チーズの熟成庫は地下にしたり、太陽光発電、雨水の浄化を行う。主力のチーズは、顧客との直接取引を重視し、牧場の売店て販売を行う。総じての「技術がいくら身についても、チーズのおいしさは原料乳の質が絶対だからです」と取材者にいうあたり、文字どおり「簡単な道をえらばない方が後悔はない」(同)という格言もここから生まれる。
(続く)
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